慕輿根

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慕輿 根(ぼよ こん、? - 360年)は、五胡十六国時代前燕の将軍。鮮卑族の出身。前燕の将として数多くの武勲を挙げて重用されたが、晩年には慕容恪らを排斥しようとして逆に誅殺された。

生涯[編集]

騎射の腕は並外れたものがあったという。前燕の慕容皝に仕え、榼盧城を治めていた。

ある時、慕容皝に従って狩猟に出た。1頭の羊が高い崖の上にいたので、慕容皝は側近に射るよう命じたが、誰も命中させる事は出来なかった。そこで、慕輿根が名乗り出て羊を射ると、一発で命中させた。慕容皝は彼をただ者では無いと感じ、側に仕えさせるようになった。慕輿根は幾度も奇略を献じ、慕容皝をよく補佐した。

338年4月後趙石虎が棘城へ襲来すると、慕容皝は城を捨てて逃走しようと考えたが、慕輿根が「趙は強大であり我々は弱小です。もし大王が逃げれば趙は調子づき、その勢いで我が国へ攻め込めば、兵はさらに強くなり食糧も確保出来、もはや打つ手は無くなります。敵も大王の逃亡を望んでいるというのに、わざわざその手に乗ってどうするというのですか!今は守りを固めて籠城すれば、我が軍の志気は百倍します。敵の攻撃を持ちこたえれば、付け入る隙も見つかるでしょう。戦う前に逃げ出してしまえば、万に一つも望みはありませんぞ!」と諫めたので、思いとどまった。趙兵は四方から蟻のように群がったが、慕輿根は昼夜力戦し、十日余りに渡って決死の防戦を続けた。趙軍は最後まで攻略する事が出来ず、遂に退却した。

339年、折衝将軍に任じられ、前軍師慕容評らと共に後趙領の遼西を攻め、千家余りを捕らえた。鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らが迎撃に出て来ると、慕輿根は返り討ちにして呼延晃と張支の首級を挙げた。

344年2月、慕容皝が宇文部攻略の為に親征すると、慕輿根も兵を率いて従軍し、宇文部攻略に貢献した。

346年1月慕容儁夫余討伐に従軍した。慕輿根は緒将と共に矢石に身を晒しながら大胆に進撃し、一挙に本拠地を攻略した。

349年、石虎が死ぬと後趙は大いに乱れたので、慕輿根は「中華の民は石氏の乱に苦しんでおり、主人を変えて烈火の急を救おうとしているのです。我らにとっては千載一遇の好機であり、これを逃してはなりません。武宣王(慕容廆)の時代より、賢人を招いて民を養い、農業を振興し兵を訓練して参りました。全ては今日の為です。天意ですら海内を平定させようとしているのに、なぜ大王は天下を取ろうと考えないのですか。」と進言すると、慕容儁は笑ってその進言に従った。

350年2月、後趙討伐の大遠征軍が興ると、慕輿根もこれに加わった。3月、慕容儁が魯口を守る鄧恒を攻撃すると、清梁まで至った所で、鄧恒配下の将軍鹿勃早が数千人を率いて夜襲を掛けてきた。慕容儁は慕輿根へ「敵の士気は旺盛だ。一旦退却すべきではないか。」と尋ねた。慕輿根は顔つきを改めて「我等は多勢で敵方は無勢。真っ向勝負では敵わないので、万一の僥倖を願って夜襲を掛けたに過ぎません。我等は賊を討伐する為にここまで来て、今その賊が目の前にいるのです。何を躊躇なさることがあるのです!大王はただ横になって居られて下さい。臣等が大王の為に敵を撃破して見せましょう!」と返した。慕輿根は側近の精鋭数百人を率いて、慕容儁の目前で鹿勃早と戦った。李洪が騎兵を整えて加勢すると、鹿勃早は遂に逃げ出した。慕輿根は追撃を掛けると、鹿勃早は体一つで落ち延び、数千人の兵はほぼ全滅した。

352年5月、慕容評が冉魏の都であるを攻撃したが、守将の蒋幹に阻まれた。慕輿根は殿中将軍に任じられ、騎歩兵併せて二万を率いて加勢に向かい、8月には鄴を陥落させた。

10月、中山の蘇林が無極にて挙兵し、天子と自称した。慕輿根は広武将軍に任じられ、慕容恪と共に蘇林軍を攻撃し、これを斬り殺した。

358年、慕容評は前燕に背いた上党太守馮鴦討伐に当たったが、中々勝利を収められずにいた。慕輿根は領軍将軍に任じられ、慕容評の加勢に向かった。この時、慕輿根が急攻しようとすると慕容評は「馮鴦は砦を固めているから、その心を緩めるべきであろう。」と諫めた。だが、慕輿根は「そうではありません。公は城下に至って月を経ておりますが、未だに一度も交戦しておりません。賊は我が国家の力がこの程度だと考え、万一の僥倖を願っていたのです。今、我の兵がやってきて、賊は恐れて皆離心を生じて計を定められずにおります。これを攻めれば必ず勝利を得られるでしょう。」と反論し、急攻を決行した。果たして馮鴦はその配下との間に互いに疑いを生じた末、野王へ逃走して呂護を頼り、その兵は皆降伏した。

360年1月、慕容儁が崩御すると、遺言により慕輿根は太師に任じられ、慕容恪・慕容評と共に国政を預かった。

慕輿根は心中では慕容恪を見下しており、慕容評ともども誅殺して実権を奪おうと考え、武衛将軍慕輿干と結託して密かに謀略を為さんとしていた。皇太后の可足渾氏は政治に口出しを行っていたので、慕輿根はこれを契機に国を乱そうと考え、慕容恪へ「今、主君は幼く、母后は政治に深く介入しており、我らを遠ざけようとしております。殿下、どうか不足の事態に注意して下さい。それに、今の国を築いたのは殿下の功績であり、兄が死んで弟が受け継ぐのは古今の習わしでもあります(の時代の法であった)。先帝の埋葬が済んだら幼主を廃立して代わって王になられるのが宜しいかと思います。殿下自ら尊位に即くことで、大燕に無窮の幸福をもたらすことになりましょう」と偽りの進言をした。慕容恪は憤慨し「お前は酔っているのか。何というたわけた事を言うのだ。私は先帝の遺詔を受けた身である。どうしてそのような事を考えることができようか。お前は先帝のお言葉を忘れたというのか。」と述べると、慕輿根はひどく恥入り、謝罪して退出した。

次いで、慕輿根は可足渾氏と慕容暐へ向けて「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が近衛兵を率いて彼らを誅殺することをお許しください。」と奉った。可足渾氏はこれに従おうとしたが、慕容暐が「二人は国家の忠臣です。先帝が選んで私たちを託したのです。そのような愚かな事はしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限りません」と述べたため、取りやめとなった。また、慕輿根は龍城を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐へ向け「今、天下は混迷し、外敵も一つではありません。この国難に当たり、龍城へ戻られるのが一番です。」と言い、還都を強行しようとした。これを聞いた慕容恪は、慕輿根の傲慢さが日増しにひどくなっていることを憂い、ついに誅殺することを決心した。慕容評と謀り、密かに慕輿根の罪状を奏上した。これにより慕輿根は誅殺され、妻子・与党も罪に伏して誅されることとなった。

人物[編集]

慕輿根の性格は頑固であり、過去の勲功をひけらかす事がしばしばあった。また、その挙動には傲慢さが満ちていたと記載されている。

参考文献[編集]