慕容儁

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景昭帝 慕容儁
前燕
第2代王(初代皇帝)
王朝 前燕
在位期間 349年 - 360年
都城 龍城→薊→鄴
姓・諱 慕容儁
宣英
諡号 景昭皇帝
廟号 烈祖
生年 大興2年(319年
没年 光寿4年1月21日
360年2月23日
慕容皝
文明皇后
后妃 景昭皇后
陵墓 龍陵
年号 元璽 : 352年 - 357年
光寿 : 357年 - 359年

慕容 儁(ぼよう しゅん、拼音:Mùróng Juàn / Jùn)は、五胡十六国時代前燕の第2代君主。字は宣英。即位当初は燕王を称し(在位:349年 - 352年)、後に大燕皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。太祖慕容皝の次男であり、弟に慕容恪慕容垂慕容納慕容徳らがいる。

生涯[編集]

慕容皝の時代[編集]

319年、慕容皝の次男として生を受けた。彼が生まれた時、慕容皝は「この子の骨相は常人のそれではない。我が家の事業を継ぐ者を得られたぞ」と喜んだ。

成長すると身長は八尺二寸となり、その容貌は魁偉であった。また、広く図書を学び、文武に才覚を有していた。

335年7月、世子に立てられた。

336年9月、段部の諸城を攻撃し、大勝を収めた。

337年10月、慕容皝が燕王に即いた(前燕の成立)。11月、王太子に立てられた。

341年2月、仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられた。

346年1月、弟の慕容恪と共に騎兵1万7千を率い、夫余の討伐に向かった。慕容儁は陣中で指示を行い、慕容恪が前線で鋒を振るった。前燕軍は夫余を撃破し、その勢力を散亡させた。

348年9月、慕容皝は狩猟の最中に馬から転倒して重傷を負い、乗輿に乗って宮殿に戻ると、慕容儁を呼び寄せて後事を託した。その後、しばらくして亡くなった。

中原進出へ[編集]

11月、燕王の位を継いだ。春秋列国の故事に倣って元年と改元すると、境内に大赦を下した。

349年4月、東晋穆帝は謁者陳沈を前燕へ派遣し、慕容儁を使持節・侍中大都督・河北諸軍事・幽冀并平四州牧・大将軍大単于に任じ、燕王に封じた。この承制封拝は、慕容廆・慕容皝に倣ったものであった。

5月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士が殺し合って中原は大混乱に陥った。弟の平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)は慕容儁へ、後趙征伐の絶好の機会であると上書し、北平郡太守孫興もまた、中原進出の好機であると勧めた。だが、慕容儁はまだ慕容皝の喪中であった事から認めなかった。その為、慕容覇は自ら龍城まで詣でると、再び慕容儁へ出兵を請うた。慕容儁は安楽に拠っている後趙の征東将軍鄧恒の存在を深く懸念していたが、慕容垂は自ら前駆となって鄧恒を討つと主張した。だが、慕容儁はなおも決断できなかったので、五材将軍封奕を召喚してこの事を尋ねると、封奕もまた慕容垂に同意した。さらには従事中郎黄泓・折衝将軍慕輿根も石氏討伐の好機であると勧めた。慕容儁は皆の意見が一つであるのを見て大いに笑い、遂に出征を決断した。そして、弟の慕容恪を輔国将軍に、叔父の慕容評を補弼将軍に、左長史陽騖を輔義将軍に任じ、彼らを『三輔』と称して遠征軍の中核とした。また、慕容覇を前鋒都督・建鋒将軍に任じ、精鋭20万人余りを選抜し、戒厳令を布いて進出の機会を窺った。

12月、前涼へ使者を派遣し、張重華と共に後趙を撃つ事を約束し合った。高句麗故国原王は、かつて高句麗へ亡命していた以前の東夷護軍宋晃を前燕に送り返した。慕容儁は宋晃を赦し、名を宋活と改めさせた上で、中尉に任じた。

薊を占拠[編集]

350年2月、後趙の大将軍冉閔は後趙の皇族を虐殺すると、自らで帝位に即いて国号を「大魏」と定めた。この混乱を好機と見た慕容儁は三軍を率いて征伐を決行し、慕容覇に2万の兵を与えて東道から徒河へ進ませ、将軍慕輿干に西道から蠮螉塞へ進ませ、慕容儁自らは慕容恪・前鋒将軍鮮于亮を前鋒として、中道から盧龍塞へ進んだ。また、世子の慕容曄は龍城に残し、内史劉斌大司農に任じて典書令皇甫真と共に留守を任せた。慕容覇が三徑まで到達すると、安楽を守る鄧恒は大いに恐れ、倉庫を焼き払って安楽から逃亡し、後趙の幽州刺史王午と共に城に籠った。後趙の徒河南部都尉孫泳は安楽に入城し、消火を行って穀物や絹布を保護すると共に、慕容覇を迎え入れた。慕容覇は安楽を占領して北平の兵糧を確保すると、臨水において慕容儁軍と合流した。

3月、慕容儁は無終へと軍を進めた。王午は将軍王佗に数千の兵を与えて薊城へ留め置き、自らは鄧恒と共に逃亡して魯口に入城した。慕容儁は薊城へ進むとこれを攻め落とし、王佗を捕らえて処断した。この時、慕容儁は捕虜の兵千人余りを尽く生き埋めにしようとしたが、慕容覇は人心を離反させる行いであるとしてこれを強く諫めたので取りやめた。慕容儁は薊城へ入ると、これを攻略の拠点とした。これ以降、中原の民は次々と彼の下に集うようになった。

前燕軍は次いで范陽まで進出し、これを攻め落とした。太守の李産は8城の令長と共に降伏すると、慕容儁はこれを許して引き続き范陽太守に任じた。また、李産の子である李績は王午に従って魯口にいたが、王午の取り計らいにより慕容儁に帰順した。

慕容儁は弟の慕容宜代郡の城郎に、孫泳を広寧郡太守にそれぞれ任じ、幽州の郡県を守らせた。さらに、薊の守備を慕輿句に任せると、魯口へ侵攻した。清梁まで進撃した時、鄧恒配下の将軍鹿勃早が数千の兵で夜襲を仕掛け、慕容覇の陣へ突入した。慕容覇は奮戦して自ら10人余りの敵兵を殺すと、鹿勃早はそれ以上進むことが出来なかった。その隙に前燕軍は防備を整える事が出来たが、慕容儁はこの夜襲に動揺し、内史李洪を伴って宿衛を出ると、高い丘の上に陣営を移した。折衝将軍慕輿根は側近の精鋭数百人を率いて慕容儁の目前で鹿勃早と交戦すると、これに李洪が騎兵を整えて加勢し、多数の敵兵を斬り殺すか捕虜とした。鹿勃早は遂に逃亡を図ると、慕輿根は追撃を掛けて数千の兵をほぼ全滅させ、鹿勃早は体一つで落ち延びた。慕容儁は勝利を収めたものの、敵が未だ強勢であると判断し、薊まで一時撤退した。

8月、代郡趙榼が300家余りを率いて前燕より離反すると、後趙の并州刺史張平がこれを迎え入れた。その為、慕容儁は広寧・上谷の二郡の民を徐無に、代郡の民を凡城に移らせた。

9月,南へ進んで冀州に至り、章武河間を攻略した。また、慕容評を勃海へ派遣し、数千の兵を伴って高城を保っていた賈堅を招聘したが、賈堅は決して降らなかった。その為、慕容評に命じて高城を攻め落とさせ、首級三千余りを挙げて賈堅を捕らえた。慕容儁は賈堅の才能を愛し、楽陵郡太守に任じて引き続き高城の統治を任せた。

10月、慕容儁は薊へ帰還した。その後、諸将に守備を任せると、龍城へ帰還して父祖の陵墓宗廟に拝謁した。

後趙に加担[編集]

当時、襄国では後趙の残党である石祗が帝位に即き、冉閔に対抗していた。11月、冉閔は歩騎兵併せて10万を率いて襄国へ侵攻すると、百日余りに渡って包囲を続けた。

351年2月、石祗は独力では冉閔を撃退できないと出来ないと判断し、皇帝号を取り去って趙王を称すと共に、張挙伝国璽を持たせて前燕へ派遣して、救援を求めた。石祗はこの時、羌族姚弋仲へも同様に援軍を要請している。慕容儁はこれを容れ、禦難将軍悦綰に兵3万を与えて救援に向かわせた。前燕が援軍を派遣すると聞いた冉閔は、大司馬従事中郎常煒を龍城へ派遣した。慕容儁は封裕を介して常煒を詰問したが、常煒はこれに堂々と反論し、また本物の伝国璽は鄴にあると主張した。慕容儁は張挙の言葉を信じていたので、傍らに柴を積み重ねて脅した(火あぶりの刑を暗示)が、常煒は一切臆する事が無かった。その為、忠臣であるとしてその命を免じ、龍城へ幽閉した。

同月、慕容儁は再び龍城から薊へ向かった。

3月、悦綰は冉魏軍から僅か数里の地点まで迫ると、同じく救援に到来した姚弋仲の子姚襄・後趙の汝陰王石琨と共に三方から攻撃し、さらに石祗は後方から撃った。これにより冉魏軍は大敗を喫し、冉閔は10騎余りで鄴まで逃げ帰った。戦死者は10万人を超えたという。

4月、勃海出身の逄約は後趙の混乱に乗じ、数千家を擁して冉魏へ帰順した。冉魏は逄約を勃海郡太守に任じ、さらに以前の勃海郡太守劉準を幽州刺史に任じ、逄約と共に勃海を二分させた。豪族の封放もまた勃海で民を大勢集め、自衛を為していた。慕容儁は封奕に逄約討伐を命じ、昌黎郡太守高開に劉準・封放討伐を命じた。封奕は使者を派遣して門外での会見を求め、これに応じた逄約とひとしきり語らい合った後、部下の張安に命じて馬を飛ばして逄約を捕らえさせた。また、高開は勃海へ到達すると、劉準・封放はいずれも降伏して彼を迎え入れた。慕容儁は封放を勃海郡太守に、劉準を左司馬に、逄約を参軍事に任じた。

冉閔を討つ[編集]

7月、後趙の将軍劉顕は襄国で乱を起こし、石祗を始めとした百官を誅殺した。これにより後趙は滅んだ。代わって劉顕が襄国を支配し、皇帝を称した。

8月、慕容恪を中山へ侵攻させ、慕容評には魯口の王午を攻めさせた。慕容恪は唐城まで勧めると、冉魏の将軍白同は中山郡太守侯龕と共に城を固守した。その為、慕容彪に攻撃を継続させ、慕容恪自身は常山から九門へ向かうと、趙郡太守李邽は郡を挙げて降伏した。これを聞いた侯龕も郡を挙げて降伏したので、慕容恪は白同を処断し、降伏した冉魏の将帥と豪族数十家を薊へ移住させた。慕容評もまた南皮まで進み、迎撃に出てきた王午の将軍鄭生を撃破し、その首級を挙げた。慕容儁は軍令を厳格にしていたので、諸将が略奪などを犯して軍律に背く事は無かったという。

石祗の死に伴い、悦綰は襄国より帰還した。その報告により張挙の発言が嘘であった事が発覚(張挙の持って来た伝国璽は偽物であった)し、慕容儁はこれを誅殺すると共に、常煒の無実を知って彼を釈放してやった。さらに、妾1人と穀物三百斛を賜下すると、凡城に住まわせてやった。

孫興を中山郡太守に任じ、占領して間もない中山を統治させた。孫興は善政を敷いて民を慰撫したので、中山は安定した。

部衆を率いて上党に拠っていた庫傉官偉が前燕へ降伏すると、慕容儁は岷山公に封じた。

11月、逄約は勃海へ逃亡すると、かつての部下をかき集めて再び前燕へ反旗を翻した。賈堅は使者を派遣して利害を説くと、彼の部下は次第に離散していった。進退窮まった逄約は東晋へ亡命した。

12月、慕容儁は龍城に帰還した。丁零翟鼠が所部を率いて前燕に帰順すると、慕容儁は歸義王に封じた。

352年1月、冉閔は襄国を攻略し、劉顕以下の百官を殺害した。3月、慕容儁は再び薊に出鎮し、徐々に龍城の百官と兵民の家族を薊に移らせるようになった。後趙の立義将軍であった段勤は冉閔の乱に乗じ、胡人数万を従えて繹幕に割拠すると、趙帝を称した。

4月、慕容覇らを繹慕に派遣して段勤を攻撃させ、さらに慕容恪・封奕・参軍高開らに冉魏討伐を命じた。慕容儁自らは中山に軍を進めて、両軍の後援となった。慕容恪は魏昌の廉台において冉閔と交戦すると、大いに苦しめられたものの、敢えて敗れた振りをして本陣に誘い込み、これを挟撃して大いに破った。これにより、冉閔とその側近である董閏張温を捕らえて皆、薊へ送った。冉閔の子の冉操は逃亡して魯口の王午を頼った。

慕容恪は滹沱に駐屯すると、冉魏の将軍蘇亥より攻撃を受けたが、返り討ちにして配下の金光を討ち取り、蘇亥を并州へ敗走させた。慕容儁は慕容恪へ、中山を鎮守する様命じた。

同時期、慕容覇もまた繹幕へ進出すると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。

やがて冉閔の身柄が薊に到着すると、慕容儁は境内に大赦を下した。また、冉閔を連れてこさせると「汝は下才の奴僕に過ぎないのに、どうして天子を称しようとしたのか」と問うと、冉閔は「天下は大乱であり、汝らの如き人面獣心の夷狄ですら奪逆している。我は当代の英雄であり、どうして帝王になれない事があろうか!」と言い放った。慕容儁はこれに怒り、冉閔を三百回に渡り鞭打ち、その後龍城へ送った。

鄴攻略[編集]

同月、慕容評と中尉侯龕に精鋭騎兵1万を与え、冉魏の本拠地である鄴を包囲させた。冉魏の大将軍蒋幹皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外の兵は尽く慕容評に降伏した。

5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、窮した蒋幹は東晋に称藩して援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。

同月、冉閔を遏陘山において処刑した。

6月、東晋の将軍戴施は壮士100人余りを率いて鄴へ突入し、三台を守備した。蒋幹は精鋭五千と東晋の兵を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを撃破し、4千の首級を挙げた。蒋幹は鄴城へ逃げ戻った。

この時期、群臣は慕容儁へ皇帝位に即くよう勧めたが、慕容儁は「我は元々幽漠の郷里において狩猟を行い、被髮左袵の風習のもとに育った。どうして暦数の籙が我にあろうか!卿らは不相応な望みを覬して褒舉しようとしているが、これは我のようなものが耳にすべき事ではない」と答え、取り合わなかった。

7月、慕容儁は中山に移った。

8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は倉垣へ逃走した。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御と共に薊へ送った。慕容儁は事業の神格化を図る為、董皇后が伝国璽を献上したと嘘の宣言を行い、暦運が己に在る事を示した。そして、董皇后を贈璽君に封じ、冉智を海賓候に封じ、申鍾を大将軍右長史に任じた。また、慕容評へは鄴の鎮守を命じた。

皇帝に即位[編集]

同月、慕容恪・封奕・陽騖に兵を与え、安国王を称して魯口に割拠する王午の討伐に向かわせた。慕容恪らが王午軍を撃ち破ると、王午は籠城を図ると共に冉操を前燕軍へ送った。その為、慕容恪らは城外の食糧を略奪して兵糧攻めを取った。

10月、慕容儁は薊に戻った。この時期、兵を擁して州郡に拠っていた後趙の旧将が続々と前燕へ帰順し、自らの子を派遣して慕容儁に仕えさせた。慕容儁は王擢を益州刺史に、夔逸秦州刺史に、張平を并州刺史に、李歴を兗州刺史に、高昌を安西将軍に、劉寧車騎将軍に任じた。

慕容恪らは安平に陣を布き、兵糧を蓄えて魯口攻略の準備を整えていたが、中山出身の蘇林が無極にて挙兵し、天子と自称した。慕容恪は蘇林討伐の為に魯口から引き返すと、慕容儁は慕輿根を援軍として派遣し、共に蘇林軍を攻撃させ、これを斬り殺した。同じ時期、王午は配下の将軍秦興に殺され、その秦興も呂護に殺された。呂護は安国王と自称し魯口を守った。

352年11月、前燕の群臣が再び慕容儁へ帝位に即くよう勧めると、慕容儁はこれに同意した。また、前燕の歴史で始めて百官を設置し、国相封奕を太尉に、慕容恪を侍中に、左長史陽騖を尚書令に、右司馬皇甫真を尚書左僕射に、典書令張希を右僕射に、宋活(宋晃)を中書監に、韓恒中書令に任じ、他の官員も各々功績に応じて官爵を授けた。

その後、慕容儁は日を選んで皇帝位へ即くと、境内に大赦を下した。伝国璽を得た事を大義名分(実際には偽物であった)とし、年号を元璽と改元した。祖父の慕容廆を高祖武宣皇帝と、父の慕容皝を太祖文明皇帝と追尊した。随行した文武百官や、諸々の藩国の使者で皇帝即位の儀礼に参加していた者はみな官位を三級進められ、一兵卒までもが賞赐を授かり、殿中の旧臣はみな才能に応じて抜擢を受けた。また、今回の戦役で死亡した者は、将士であれば二等が加贈され、士卒であれば子孫の税が免除された。さらに、司州を中州と改め、司隸校尉の官を置いた。龍城には留台(朝政の代行機関)を置き、玄菟郡太守乙逸を尚書に任じて政務を委ねた。

当時、東晋の使者が前燕に滞在していたが、慕容儁は「汝は還ったならば、汝の天子へ伝えるように。我は人の乏を承けた事で、中国の民より推される事となり、皇帝となったとな」と告げた。これにより、東晋との従属関係は終わりを告げた。

群臣は「大燕は命を受けて黒精の君を承ける事で、その運暦が伝わりました。これは金行(晋)に取って代わって天下を掌握せよという事です。そこで、の暦法を実行し、の官冕を用いて、旗幟は黒を崇め、祭祀の牲牡は玄黒を尊ぶべきです」と勧めると、慕容儁はこれに従った。また、五行の次序について定めようとして群臣に議論させたが、大いに紛糾した。この時、慕容儁は病により龍城にいた韓恒を招集し、これを決めさせようとした。だが、韓恒が到着するより前に、群臣の議論は燕は晋を承けて水徳とすべきであるとの結論に至った。韓恒は到着すると、慕容儁へ「趙が中原に有るのは、人事ではなく天命です。天が与えたものを人が奪うのというのは、臣はこれを不可であると考えます。また、大燕王の跡は震より始まりましたが、易によると震とは青龍とのことです。受命した当初、都邑の城には龍が現れたといいますが、龍は木徳であり、これこそ幽契の符といえます」と言った。慕容儁は一度決めたものを改める事に難色を示したが、やがて韓恒の言に従った。

353年2月、夫人の可足渾氏を皇后に、世子の慕容曄を皇太子に立て、龍城から薊城へ正式に遷都した。

魯口攻略[編集]

東晋の寧朔将軍栄胡魯郡で反乱を起こし、彭城ごと慕容儁へ帰順した。

3月、常山の李犢が数千の兵を集めると、前燕に反旗を翻して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容儁は李犢の討伐を慕容恪に命じると、慕容恪はすぐさまこれを降伏させ、さらに東へ進んで魯口の呂護討伐に向かった。

11月、楽陵朱禿平原杜能清河丁嬈陽平孫元らは後趙の末年より各々兵を擁して城邑に拠っていたが、ここに至ってみな前燕に降伏した。慕容儁は朱禿を青州刺史に、杜能を平原太守に、丁嬈を立節将軍に、孫元を兗州刺史に任じ、各々の陣営を慰撫した。

12月、衛将軍慕容恪・撫軍将軍慕容軍・左将軍慕容彪らの推挙により、慕容覇を使持節・安東将軍・冀州刺史に任じ、常山を鎮守させた。

354年2月、慕容恪は魯口を包囲した。3月、呂護は野王へと逃走を図ったが、前軍将軍悦綰が追撃してこれを捕らえた。呂護は弟を派遣して前燕に謝罪し、慕容儁はこれを許して河内郡太守に任じ、野王の統治を認めた。

同月、羌族の首領姚襄は梁国を挙げて前燕へ降った。慕容儁は慕容評を都督秦雍益梁江揚荊徐兗豫十州河南諸軍事に任じ、仮に洛水の鎮守を命じた。また、慕容強を前鋒都督・督荊徐二州縁淮諸軍事に任じ、河南に配した。

4月、慕容軍を襄陽王に、慕容彭を武昌王に、慕容恪を太原王に、慕容評を上庸王に、慕容覇を呉王に、慕容友を范陽王に、慕容厲を下邳王に、慕容宜を廬江王に、慕容度を楽浪王に、慕容桓を宜都王に、慕容遵を臨賀王に、慕容徽を河間王に、慕容龍を歴陽王に、慕容納を北海王に、慕容秀を蘭陵王に、慕容嶽を安豊王に、慕容徳を梁公に、慕容黙を始安公に、慕容僂を南康公に、慕容臧を楽安王に、慕容亮を勃海王に、慕容温を帯方王に、慕容渉を漁陽王に、慕容暐を中山王にそれぞれ封じ、また慕容恪を大司馬・侍中・大都督・録尚書事に、慕容評を司徒・驃騎将軍に、陽騖を司空・尚書令に任じ、慕容覇を信都に移らせてこれを統治させた。しばらくして、慕容覇の名を慕容垂と改めさせ、侍中・録留台事に任じて龍城を鎮守させた。だが、慕容垂が東北の民から絶大な支持を得るようになると、慕容儁はこれを憎んで再び召還した。

広固攻略[編集]

段部の首領である段龕は冉閔の乱が起こった際、混乱に乗じて令支から兵を率いて南下を開始し、東の広固に拠点を構え、勢力を大きく広げていた。段龕は自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れて鎮北将軍に任じられていた。

楽陵郡太守慕容鉤は青州刺史朱禿と共に厭次を治めていたが、自らが宗室である事をもっていつも朱禿を辱めていた。7月、朱禿は慕容鉤を襲撃して殺害し、南へ奔って段龕に帰順した。

8月、慕容儁は大々的に軍隊を整備すると共に、詔を発して「丙戌に挙兵せん」と宣言した。

9月、黄門侍郎宋斌らが冉智を盟主として謀反を為そうとしているとある者が密告したので、慕容儁は彼らを誅殺した。

10月、慕容儁は龍城に移った。幽州・冀州は慕容儁が離れた事で騒乱となり、至る所で勢力が割拠するようになった。

355年4月、薊城に帰還した。群臣は自立していた勢力を討つよう進めたが、慕容儁は「群小は朕が東巡したので、当惑して乱れたに過ぎぬ。今、朕は既に到着した。すぐに自ら定まる事だろう。討つには及ばぬ。しかしながら不虞の備えもまた必要ではあるな」と述べ、内外に戒厳を命じた。

東晋の蘭陵郡太守孫黒、済北郡太守高柱、建興郡太守高甕、前秦の河内郡太守王会・黎陽郡太守韓高はみな郡をもって慕容儁に帰順した。以前、車騎大将軍・范陽公劉寧は遒城ごと前秦に寝返っていたが、前燕へ降る者が多数現れるに至り、二千戸を伴って薊を詣でると、慕容儁に謝罪した。慕容儁はこれを赦し、後将軍に任じた。

10月、段龕は慕容儁に書簡を送り、皇帝に即位したことを強く非難したため、慕容儁は激怒した。

11月、慕容儁は慕容恪を撫軍将軍に任じて段龕の討伐を命じ、陽騖・慕容塵を随行させた。この時、慕容儁は慕容恪へ「もし段龕が軍を派遣して河で拒んで渡る事が出来なかったならば、代わりに呂護を攻めてから還るのだ」と告げた。

12月、慕容恪は軍を分けて軽騎兵のみを先に黄河北岸に到達させ、渡河を行った。

同月、高句麗の故国原王は使者を前燕へ派遣して方物を貢ぎ、以前慕容皝に敗れた際に捕らわれていた母の周夫人の返還を請うた。慕容儁はこれを赦し、殿中将軍刁龕を派遣して周夫人を祖国に帰らせてやった。また故国原王を営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史に任じ、楽浪公に封じ、王号はそのままとした。

上党の馮鴦は前燕の上党郡太守段剛を追い払うと、安民城に拠って太守を自称し、東晋に帰順した。

356年1月、慕容恪が広固に逼迫すると、段龕は兵三万を率いて淄水で迎え撃ったが、慕容恪はこれを大破して弟の段欽を捕らえ、右長史袁範辟閭蔚らを討ち取り、兵のほとんどを捕虜とした。段龕は広固に逃げ戻ると、慕容恪はそのまま軍を進め、広固を包囲した。

2月、慕容恪は長期戦の構えを取ると共に、段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らを帰順させた。慕容恪は王騰に今まで通りの職務を任せ、陽都を鎮守させた。

同月、慕容儁は将軍慕輿長卿らに兵7千を与えて軹関より前秦へ侵攻させると、前秦の幽州刺史強哲は裴氏堡においてこれを阻んだ。前秦君主苻生は建節将軍鄧羌を救援に派遣し、慕輿長卿は裴氏堡の南で鄧羌と交戦するも、大敗を喫して戦死した。この戦いで二千余りの兵が討ち取られた。

7月、皇太子の慕容曄が早世した。慕容儁は献懐太子と諡した。

8月、段龕は東晋に救援を要請し、穆帝はこれに応じて北中郎将・徐州刺史荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪に至った所で進軍を止めた。この時、王騰が鄄城に進攻していたが、荀羨はその隙を突いて陽都を攻め、長雨に乗じてこれを攻略し、王騰の首級を挙げた。

慕容恪が糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は城から打って出たが、慕容恪は囲里においてこれを破った。段龕は退却を図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配しており、散々に打ち破った。段龕自身はかろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。これにより城中の士気は激減した。

11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭すると、朱禿を薊に送った。慕容儁は朱禿を五刑に処し、段龕を許して伏順将軍に任じ、斉の地に住まう鮮卑や羯族三千戸余りを薊に移住させた。慕容恪は慕容塵に広固を守らせ、尚書左丞鞠殷を東莱郡太守に、章武郡太守鮮于亮を斉郡太守に任じ、軍を返して帰還した。

荀羨は段龕の敗北を知ると下邳に撤退したが、汴城を守備していた前燕の将軍慕容蘭は荀羨を攻め、これを討ち取った。

鄴へ遷都[編集]

357年1月、幽州刺史乙逸を左光禄大夫に任じた。

2月、次子の慕容暐を皇太子に立て、境内に恩赦を下し、光寿元年と改元した。

5月、撫軍将軍慕容垂・中軍将軍慕容虔・護軍将軍平熙に歩兵騎兵合わせて8万を与え、塞北に拠っている丁零討伐に向かわせた。慕容垂らはこれを大破し、討ち取るか捕らえた者は10万余りを数え、13万匹の馬を鹵獲し、牛羊は億万を数えた。

匈奴単于の賀頼頭は部落3万5千を率いて前燕に降った。慕容儁は賀頼頭を寧西将軍に任じ、雲中郡公に封じ、代郡の平舒城に住まわせた。

6月、段龕を殺害し、その配下3千人余りを生き埋めとした。

11月、鄴へ拠点を移す為、薊を出発した。

12月、鄴宮へ入ると、境内に大赦を下した。また、宮殿を修繕し、銅雀台を修復させた。

後趙残党の掃討[編集]

後趙の配下であった李歴・張平・高昌・馮鴦らは各々前燕に帰順していたが、同時に前秦・東晋にも称藩して爵位を授かっていおり、事実上自立していた。特に張平は新興・雁門・西河・太原・上党・上郡を領有し、城砦は300を超え、10万戸余りを従えて前秦・前燕に匹敵する第3勢力となっていた。

358年2月、上党の馮鴦が前燕に反旗を翻すと、司徒慕容評に討伐を命じたが、慕容評はなかなか攻め下せずにいた。3月、慕容儁は領軍将軍慕輿根に慕容評の加勢を命じた。慕輿根が慕容評と共に急攻を決行すると、馮鴦はその配下との間に互いに疑いを生じ、上党を放棄して野王の呂護を頼り、その兵は皆降伏した。

9月、慕容儁は慕容評に并州の張平討伐を、司空陽騖に東燕の高昌討伐を、楽安王慕容臧に濮の李歴の討伐をそれぞれ命じた。陽騖は黎陽において高昌の別軍を攻めたが、攻略出来なかった。慕容臧は李歴を撃破し、李歴は滎陽に逃走してその配下はみな降伏した。慕容評が并州に進むと、100を超える城砦が降伏した。また、張平配下の征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らは138の城砦を明け渡して慕容儁に帰順した。慕容儁は大いに喜び、みな元の官爵のまま職務に当たらせた。また、尚書右僕射悦綰を安西将軍・領護匈奴中郎将・并州刺史に任じ、降伏した城砦の慰撫に当たらせた。張平は三千の兵を率いて平陽へ逃走した。

河南へ進出[編集]

10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻撃し、武陽へ侵入した。慕容儁は慕容恪に迎撃を命じ、陽騖と慕容臧も従軍させた。慕容恪は諸葛攸を敗走させると、そのまま軍を進めて河南を攻略し、守宰を置いて帰還した。

昌黎・遼東に慕容廆の廟を、范陽・燕郡に慕容皝の廟の建立しようと思い、護軍将軍平熙を将作大匠に任じ、二廟の建立を監督させた。

苻堅配下の平州刺史劉特は五千戸を伴って前燕に帰順した。

河間郡出身の李黒が反乱を起こし、州郡を荒らしまわると、棗強県令衛顔を殺害した。慕容儁は長楽郡太守傅顔に李黒討伐を命じると、傅顔はこれを破って李黒を討ち取った。

常山の大樹が根元から倒れ、根の下より70の璧と73の珪が見つかり、いずれも光色は精奇であり、有異の常玉であった。慕容儁はこれを嶽神の命と捉え、尚書郎段勤を派遣して、太牢に祀らせた。

12月、慕容儁は前秦・東晋の併呑を目論むようになった。その為、州郡に命じて丁(成人男子)の数を調査させ、1戸には1丁のみを残して残りを尽く徴発するよう命じた。これにより歩兵を150万まで増員し、来春には洛陽に集結させ、三方に命を下そうとした。武邑出身の劉貴は「百姓が凋弊しているのに、兵を徴発するのは法に非ずといえましょう人民はこの命に堪えられず、必ずや土崩の禍となることでしょう。また、1政務の中で時に合致していないものが、10のうち3はあります」と上書し、固く諫めた。慕容儁はこれを善しとし、公卿に博議させてその多くを容れた。これにより、三五占兵(5人に3人の割合で成人男子を徴発する事)に改め、戦の準備期間を1年伸ばし、翌年の冬に鄴都に集結させるようにした。

また、当時前燕では頻繁に官員の徴発が行われていたので、郡県は大いに苦しんだ。百官は各々使者を派遣して引き立てたので、道路は混雑した。封奕は慕容儁へ「これ以降、軍期が厳急でもないのに、むやみに遣使させてはなりません。また、賦役や徴発は皆州郡の責任で行うべきであり、百官が督している外から来た者は、一切を帰還させるべきです」と諫めると、慕容儁はこれに従った。

東晋の徐兗二州刺史荀羨が山茌を攻撃すると、泰山郡太守賈堅は奮戦するも生け捕りとなり、再三の降伏勧告にも応じずに憤死した。青州刺史慕容塵は司馬悦明を救援に派遣し、荀羨を大敗させて山茌を奪還した。慕容儁は賈堅の子である賈活を任城郡太守に任じた。

慕容儁は顕賢里に小学を建て、王侯貴族の子らに学問を学ばせた。

359年2月、慕容泓を済北王に、慕容沖を中山王にそれぞれ封じた。また、段勤が前燕の者に殺害され、弟の段思は逃亡した。

そして、問老年で病気に苦しんでいる者や、身寄りが無く生活の苦しい者を調査させ、穀帛を下賜した。

7月、高昌は遂に前燕の攻勢に抗しきれなくなり、城を棄てて白馬から滎陽へ逃走した。

8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕を攻め、石門より侵入して黄河の小島に駐屯した。慕容儁は傅顔と慕容評に5万の歩兵・騎兵を与えて迎撃を命じ、傅顔らは東阿において諸葛攸を大敗させた。

塞北にある賀蘭・渉勒を始めとした7国はみな前燕に帰順した。

10月、東晋は下蔡にいる将軍謝万と高平にいる郗曇に前燕討伐を命じた。だが、郗曇は病を理由に彭城へ撤退してしまい、謝万もまた前燕軍の盛いを恐れ、守備を放棄して帰還してしまった。これにより許昌・潁川・譙・沛の諸城は尽く前燕が領有するようになった。

最期[編集]

12月、慕容儁は病を発して床に伏せがちになると、慕容恪を呼び出して「我の病気は、もはや治る事はないであろう。短命でこの身を終えることになろうとは、悔やんでも悔やみきれぬ。未だ二寇(東晋、前秦)の脅威は除かれておらず、太子の景茂(慕容暐の字)もまだまだ幼少であり、この多難な時代を乗り切れるとは思えない。そこで、の宣公に倣って、社稷を汝に任せようと考えている(宣公は自らの子與夷ではなく、弟の穆公を後継ぎとした)」 と述べ、慕容恪に帝位を譲ろうとした。これに慕容恪は 「太子はまだ幼いとは言え、天より聡聖を与えられております。必ずや聡明な君主となるでしょう。正統を乱してはいけません。」 とこれを辞退する旨の答えを返すと、慕容儁は 「兄弟の間で、どうしてうわべを飾る必要があるのか。」と怒った。この言葉に慕容恪は 「陛下がもし、この恪を天下の任に堪え得る者とお考えであるならば、どうして幼主を補佐できる事と思われないのでしょう」と、後継に立つより補佐に回る事を求めた。この言葉を聞くと慕容儁は大層喜んで「もし汝が、周公のように事を行ってくれるのであれば、憂うることなど何もない(周公旦は、甥である周朝第2代王の成王が幼少の時に摂政となったが、成人すると政権を返して臣下の地位に戻った)。李績は清方にして忠亮な男であるから大事を任せられるだろう。李績と協力して景茂を盛り立ててほしい。」と述べた。また、慕容垂を鄴に帰還させた。

前年より徴兵していた郡国の兵は予定通り鄴都に集結した。この時期、各地で盗賊が蜂起し、連日に渡って朝夕問わずに断続的に攻勢に晒された。慕容儁は賦税を緩和し、特別に禁令を設け、賊の情報を密告した者には奉車都尉を下賜すると発布した。これにより賊の首領である木穀和ら百人余りを捕らえる事に成功し、その首を刎ねた。

360年1月、慕容儁は鄴において大々的に閲兵を行い、大司馬慕容恪・司空陽騖に命じて征伐を敢行させようとした。だが、病状が悪化してしまったので取りやめとなった。慕容恪・陽騖・慕容評・慕輿根らに輔政を委ねる遺詔を遺すと、やがて崩御した。享年42、在位期間は11年であった。景昭皇帝と諡され、廟号は烈祖、墓号は龍陵とされた。慕容暐が皇位を継承した。

人物[編集]

雅やかで読書を好んだという。即位してから晩年に至るまで講論を厭う事は無く、政務の暇を見つけては侍臣と義理について複雑な議論を交わし、四十篇余りを著述するに至った。その性格は厳重であり、行いを慎んで礼儀作法を遵守した。服装を疎かにして朝政に臨む事は一度も無く、酒宴の場といえども気だるげな様子を見せる事は無かった。

逸話[編集]

  • 慕容儁の生まれる前、祖父の慕容廆は常々「我が福を積み仁を累ねてきた事で、子孫は中原を有する事になろう。」と語っていた。果たして慕容儁の時代に現実のものとなった。
  • かつて、後趙の石虎は華山に人を遣って探策させ、玉版を手に入れた。そこには「歳申酉に在って、線の如く絶えぬだろう。歳壬子に在って、真人が現れるであろう。」と刻まれていた。慕容儁が皇帝に即くと、前燕の人はみな真人というのが慕容儁の事を言っていたのだと考えた。
  • ある夜、慕容儁は石虎に臂を齧られる夢を見た。目が覚めると、石虎を大いに憎み、石虎の墓を暴くよう命じたが、なかなか見つからなかった。その為、百金の懸賞金を掛けると、鄴に住む李菟という女性がその在り処を密告した。慕容儁は屍を東明観へ引き出すと、その屍はまだ腐っていなかった。慕容儁はその屍を踏みつけて「ただの死胡がどうして生きる天子の夢に現われたのか!」と罵倒した。そして御史中尉陽約に命じ、その残酷の罪を数え上げさせた後で、自ら鞭打ち、その屍を水に投げ棄てさせた。
  • 359年2月、慕容儁は群臣を鄴の蒲池に集めて酒宴を催した。宴もたけなわとなると、賦詩を詠んだり経史の議論が行われたりするようになった。太子晋(霊王太子であったが早世した。彼の死は周王朝が乱れる要因となった)について話題が及ぶと、慕容儁は涙を流しながら群臣へ「昔、魏武(曹操)は倉舒(曹沖の字)を追痛し、孫権は登(孫登)を悼み続けた。我はいつも、この二主が子を愛するがあまり奇と称されることに、大雅としての体がなっていないと考えていた。しかし、曄(長男の慕容曄)を亡くして以来、我の鬚髮には白いものが混じるようになり、ここに至って初めて二主の心境を理解したのだ。卿らは曄をどのように評していたか。今はこれを悼み、将来への不安を残さないようにしたいのだ」 と述べた。李績は「献懐(慕容曄の諡号)が東宮にあった頃、この績は中庶子であり、忝くも近侍しておりました。故にその聖質や志業はこの績が実に知り及ぶところです。この績、道を聞くに全く欠ける所無く、唯一の聖人であると思いました。先の太子は大徳を八つ有し、未だ欠けたるところがありませんでした。」と答えた。慕容儁は「卿の言はいささか過ぎたるように思えるが、もしそうであるならば試しにべてみよ。」と述べた。李績は「至孝は天より授かり、性は道に適っておりました。これが一です。聡敏にして慧悟であり、機思は流れるが如くでした。これが二です。沈着で剛毅、決断力にも富み、その理詣に暗い所はありませんでした。これが三です。諛を憎み、物事に明るく、直言を雅に喜んでおりました。これが四です。学問を好んで賢人を愛し、下に問う事を恥じませんでした。これが五です。英姿は古えに優り、芸業は時を超えておりました。これが六です。虚襟にして恭讓であり、師を尊んで道を重じておりました。これが七です。財に重きを置かずに施しを好み、民の苦しみに勤恤しておりました。これが八です。」と答えた。慕容儁は涙を流しながら「卿の褒誉には過ぎたる部分もあるが、確かにこの子が存命であったならば、我は死しても憂いは無かった。しかし、我は既に唐虞を追従することはできない。そこで、天下を司る有徳の者に譲り、近くは三王を模として世に伝授しようと思う。景茂(慕容暐の字)は幼沖であり、その器芸に目立った所はまだ見られていないが、卿はどう思うか」と問うと、李績は「皇太子は天資にして岐嶷で、その聖敬は日が躋(昇)るように、八徳は静かながらも聞こえておりますが、二欠は未だ補われておりません。遊田を好み、絲竹(音楽)に心を奪われる傾向があります。これが残念でなりません。」と答えた。慕容儁は側に侍っていた慕容暐を顧みて「伯陽の言は、薬石の恵である。汝はこれを心に留めておくように」と訓じた。だが、慕容暐はこれに不満を抱き、後に李績が失脚する要因となった。

慕容垂との関係[編集]

  • かつて、慕容皝は慕容覇の事をただ者では無いと思い、彼の名を「覇」とし、世子に立てようとしたが、群臣が諫めたので取り止めた。それでも慕容皝は子の中で慕容覇を最も寵愛しており、これにより慕容儁は慕容覇を憎むようになった。ある時、慕容覇が馬から落ちて歯を折ると、慕容儁はこれをからかってその名を「𡙇」と改めさせた。だが、𡙇という文字が讖文に合致している事を知ると、さらに「垂」と改めさせた。
  • 慕容垂の妻である段氏(段末波の娘)は自らが貴族である事から、慕容儁の皇后である可足渾氏(景昭皇后)を敬わなかった。可足渾氏はこれを大いに憎み、中常侍涅皓に命じて段氏が典書令高弼と共に呪術を行ったという偽りの罪をでっち上げた。慕容儁はかねてより慕容垂を快く思っていなかったので、これを理由に慕容垂を連座させようと思い、段氏と高弼を捕らえて大長秋と廷尉に尋問を命じた。段氏らは拷問により獄中で亡くなったが、確固たる志を持って最期まで口を割る事は無く、その答弁は明確であったので、慕容垂は連座を免れた。慕容儁はやむなく慕容垂を平州刺史に任じて遼東を鎮守させた。

怪異譚[編集]

  • 352年5月、䴏が正陽殿の西椒に巣を作り、三羽の雛を生み、その頭には真っ直ぐ立ち昇った毛が見られた。また、凡城からは異鳥が献上され、この鳥は五色の模様があった。慕容儁は群僚へ「これは何の祥であろうか」と訪ねると、みな「䴏とは燕鳥の事であり、首に毛冠を有しているのは、大燕が隆興する事を言っており、天に通じる章甫を冠している事を刺すのです。正陽の西椒に巣を設けたのは、至尊が臨軒し万の国を征する事の徴です。三子というのは、三統(夏・殷・周の三大)に応じている事の験です。神鳥の五色とは、聖朝が五行の図讖を継いで、天下を統べる事を指すのです」と答えた。慕容儁はこれを聞いて、大いに喜んだ。
  • 祖父の慕容廆は赭白という駿馬に乗っており、抜きんでた脚力を有していた。後趙の石虎が棘城に襲来したた時、父の慕容皝は棘城から逃亡しようと思い、赭白に跨ろうとした。だが、赭白は鳴き声を上げて蹴ったり齧んだりし、誰も近づく事が出来なかった。これを見た慕容皝は「この馬は先朝より普通の馬ではないといわれていた。われもまた、いつもこれに頼って難を振り払った。今、乗せようとしないのは、先君の意志であろう!」と言い、逃亡を中止した。果たして石虎が撤退すると、慕容皝は益々この馬に目を掛けた。その後、慕容儁の代に至って49歳となっても、その俊敏さは衰えていなかった。慕容儁は赭白を鮑氏驄(前漢の鮑宣・鮑永・鮑昱の三代に渡って用いられた馬)に匹敵するとし、銅によってその象を造らせた。そして自ら銘賛を行い、その旁に鐫勒(金属に彫り刻む事)をし、薊城の東掖門に設置しようとした。356年、象は完成したが、赭白もまた亡くなった。
  • 冉閔を処刑した時、遏陘山では周囲七里で草木が枯れ果て、蝗害が大発生した。また、5月なのに降雨がなく日照りが続き、それは12月まで続いた。慕容儁は冉閔の祟りではないかと恐れ、使者を派遣して冉閔の祭祀を執り行い、武悼天王と諡した。すると、すぐに大雪が降ったという。

宗室[編集]

参考文献[編集]