高雲

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恵懿帝 高雲
北燕/後燕
初代(北燕)/5代(後燕)天王
王朝 北燕/後燕
在位期間 407年 - 409年
都城 龍城
姓・諱 高雲→慕容雲→高雲
子雨
諡号 恵懿帝
生年 不詳
没年 正始3年(409年)10月
高抜
皇后 李皇后
年号 正始 : 407年 - 409年

高 雲(こう うん、不詳 - 409年)は、五胡十六国時代後燕の皇帝、または北燕の初代天王。高句麗の王族の出身。

後燕では慕容会の反乱を鎮圧する等の武功を立てて慕容宝の養子となり、慕容雲(ぼよう うん)と名乗った。407年、暴君の慕容熙を殺すと、馮跋に擁立されて燕王となり、高姓に戻した。409年、近臣に殺されて馮跋が政権を継いだ[1]

生涯[編集]

高雲の出身は355年前燕慕容皝楽浪郡を落として冊封された高句麗の王族である。高句麗の王族は姓を高氏として青山に移り、前燕や後燕に仕えた。高雲は後燕慕容宝に仕えた。

後燕の部将[編集]

高雲は慕容宝に仕えて活躍した。397年、慕容宝は北魏の攻撃を受けて中山を棄て、旧都の龍城へ奔走した。龍城で慕容宝の子の慕容会慕容策が太子になったことを怒って龍城を包囲した。そこで高雲が100ほどの兵を率いて慕容会を奇襲すると、慕容会は中山に逃げて慕容詳に殺された[2]。この功績によって、高雲は夕陽公に封ぜられて慕容宝の養子となり、慕容雲に改姓した[1]。この頃、慕容雲は口数が少なく時の人に愚人と言われたが、ただ馮跋だけはその度量を認めて友とした[1]。馮跋は後に慕容雲を擁立して北燕を建てる。

暴君の慕容熙の代の406年に、後燕は皇后の苻訓英の案で高句麗を攻めた。慕容熙は遼東を攻撃させたが、城の守りが固く攻略できなかった。後燕軍はさらに3千余里進んだが、凍えて疲れた兵馬から使者が続出し、高句麗の木底城を攻めて大敗して帰還した。慕容雲は矢傷を負い、また慕容熙の残虐さを恐れたため官を去った[3]

即位[編集]

407年夏、苻訓英が死去し、慕容熙が徽平陵での葬儀のために去ると、慕容熙に殺されかけて山沢に亡命していた馮跋と馮素弗兄弟が従兄の馮万泥と反乱を謀った。これに張興や同年に反乱に失敗した苻進等が協力した。馮跋は慕容雲をよく思って慕容雲を君主に推した。馮跋の従兄の子の馮乳陳等が弘光門を攻めると禁衛は皆逃げたので、入城して城門を閉めた。占拠の報告が届くと、慕容熙は急いで帰還して夜に龍城の北門を攻めたが、勝てずに門外に閉め出された[3]。慕容雲は天王に即位して大赦し、正始に改元した。国号は「燕」のままだが、この時後燕は滅んで北燕になったとされる。ただし慕容雲は後燕の皇族で、実質的な建国者は馮跋であるため、高雲を後燕最後の皇帝とする場合もある[4][5]

閉め出された慕容熙は龍騰苑で龍城の攻撃に備えた。しかし慕容熙は不可解な理由で逃げ去った。慕容拔が龍城を攻撃したが、兵が慕容熙が逃げたことを知ると動揺し、慕容拔は馮跋に殺された。同日、慕容熙は庶民に化けて林の中に隠れていたのが見つかり、慕容雲に届けられた。慕容雲は慕容熙の罪を数えて諸子と共に殺した[3]。この時、名前を高姓に戻した[4]。高雲は馮跋の傀儡であった[6]。馮跋を侍中・都督中外諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・録尚書事・武邑公[7]、馮万泥を尚書令、馮素弗を昌黎尹、馮跋の弟の馮弘を征東大将軍、孫護を尚書左僕射、張興を輔国大将軍とした[3]

治世[編集]

408年、妻の李氏を皇后に立て、子の高彭城を太子とした。高雲は苻氏を墓に葬り、慕容熙を昭文皇帝と諡した。越騎校尉の慕輿良が謀叛したので誅した。北燕は北魏との関係を悪化させたが、高雲の即位によって高句麗広開土王(好太王)との関係は好転した[6]。同年、慕容帰を遼東公に封ぜて燕の慕容氏を祀らせた[8]

高雲は即位の際、自らは功徳が足りないと感じて内患を危惧し、離班や桃仁ら禁衛を重用して厚遇していた[8]。しかし離班や桃仁はなお不満を募らせて、409年冬、東堂において高雲を殺した。馮跋は弘光門で乱を傍観していたが配下の張泰と李桑が離班と桃仁を殺した。こうして馮跋が衆に推されて北燕の天王となった[6][8]。馮跋は高雲を恵懿皇帝とした[8]

宗室[編集]

  • 祖父 - 高和
  • 父 - 高抜[1]
  • 子 - 高彭城[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『晋書』巻125「慕容雲載記」
  2. ^ 『晋書』巻124「慕容宝載記」
  3. ^ a b c d 『資治通鑑』「晋紀」巻114
  4. ^ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P109
  5. ^ 『晋書』『魏書』等
  6. ^ a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P110
  7. ^ 『晋書』巻125「馮跋載記」
  8. ^ a b c d 『資治通鑑』「晋紀」巻115
  9. ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P111

参考文献[編集]