馮跋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
文成帝 馮跋
北燕
第2代天王
王朝 北燕
在位期間 409年 - 430年
姓・諱 馮跋
文起
諡号 文成帝
廟号 太祖
生年 不詳
没年 430年
馮安
年号 太平 : 409年 - 430年

馮 跋(ふう ばつ)は、五胡十六国時代北燕の第2代天王。

漢族出身の後燕の将軍であったが、慕容熙を殺害して高句麗出身の慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立てた。慕容雲が近臣に殺された後、馮跋が北燕の天王の位についた。南朝宋へ入朝した。

生涯[編集]

の長楽信都の出身である。永嘉の乱が起きると、馮跋の祖父の馮和は上黨へ逃げた。馮跋の父の馮安は武勇と器量があり、西燕慕容永の将軍となった。西燕が滅ぶと馮跋は東の和龍に移り、家を長谷においた。

馮跋は幼い頃から立派であまり喋らず、寬仁で大度があったという。後燕慕容宝が立つと、その中衛將軍となった。慕容熙が即位すると、馮跋は罪を得、禍を恐れて馮万泥等と共に慕容熙を殺害、養子の慕容雲(高雲)を擁立した。

慕容雲は馮跋を使持節・侍中・都督中外諸軍事・征北大將軍・開府儀同三司・錄尚書事・武邑公とした。慕容雲が人望のあった配下の離班と桃仁を殺すと、衆は馮跋を君主に推し、正始三年(409年)に昌黎で天王を称し、旧国号に手を付けずに「燕」のままとし、境内を大赦して太平(北燕)と改元した。

馮跋は政事に勤め、農耕を奨励し、税役を軽くしたので市民は大喜びしたという。北魏に南境を侵されながらその治世は二十余年続いた。太平二十二年に馮跋は病死し、太子の馮翼に国を任せた。しかし宋夫人が自分の子を王位につけるため、馮弘に馮翼を殺させてその諸子を誅した[1]

宗室[編集]

祖父[編集]

  • 馮和

父母[編集]

  • 馮安 - 父、西燕の部将
  • 張太后 - 母

后妃[編集]

  • 孫皇后 - 楽浪公主の生母
  • 宋夫人 - 馮受居の生母
  • 郁久閭夫人

兄弟[編集]

  • 馮素弗 - 長弟
  • 馮弘 - 弟
  • 馮丕 - 四弟
  • 馮万泥 - 從兄
  • 馮乳陳 - 從兄子

子女[編集]

  • 馮永 - 409年太子に立てられ、426年に死亡。
  • 馮翼 - 426年太子に立てられ、430年に馮弘に殺される。
  • 馮受居 - 430年に馮弘に殺される。
  • 楽浪公主 - 411年に郁久閭斛律と結婚する。

後裔[編集]

  • 馮於 - 北斉の威、檀二州刺史。
  • 馮長 - 平州盧龍県令。
  • 馮才 - 初の深州錄事参軍。
  • 馮慶 - 高宗年間の文林郎、673年5月に死亡。

脚注[編集]

  1. ^ 『晋書』「載記 - 馮跋伝」巻125

参考文献[編集]

  • 晋書』「載記 - 慕容雲伝」「馮跋伝」巻124、125
  • 資治通鑑』「晋紀」「宋紀」巻115 - 121
  • 魏書』「列伝第八十五 - 海夷馮跋」巻97
  • 十六国春秋』「北燕録」巻15
先代:
恵懿帝慕容雲
北燕天王
409年 - 430年
次代:
昭成帝馮弘