孫泳

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孫 泳(そん えい、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。昌黎郡の出身。子は孫希[1]

生涯[編集]

前燕に仕え、朝鮮県令に任じられていた。

338年5月、後趙の天王石虎は、前燕全域に使者を遣わし、後趙側に寝返るよう誘いをかけた。孫泳はこの誘いを拒んだ。王清らが密かに後趙との内応を図ったが、孫泳は捕らえて殺害した。共謀者数百人は恐れて罪を請うたが、孫泳は罪には問わず、共に守りを固めた。後趙に勝利した後、燕王慕容皝は孫泳・将軍慕輿根楽浪郡太守鞠彭の功績を賞した。

南部都尉に任じられた。

350年2月、前燕軍の侵攻に、後趙の征東将軍鄧恒は倉庫を焼いて安楽から逃走した。孫泳は安楽へ急行、倉庫の消火、穀物・布等の物資を接収した。

3月、燕王慕容儁は孫泳を広寧郡太守に任じた。

これ以後の事績は、史書に記されていない。

脚注[編集]

  1. ^ 『資治通鑑』では、孫希は孫泳の弟と記されている。

参考文献[編集]