冉閔

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武悼天王 冉閔
冉魏
皇帝
王朝 冉魏
在位期間 350年 - 352年
姓・諱 石閔→李閔→冉閔
永曾
小字 棘奴
諡号 武悼天王
生年 不詳
没年 永興3年(352年)4月
冉瞻
王太后
皇后 董皇后
年号 永興 : 350年 - 352年

冉 閔(ぜん びん、? - 352年)は、五胡十六国時代冉魏の君主。永曾小字棘奴漢人であり、本貫は魏郡内黄県(現在の河南省内黄県の北西)。後趙3代皇帝石虎の養孫であり、西華侯冉瞻の子。元の名は石閔であり、次いで李閔と改め、その後父祖代々の姓である冉閔に改めた。石虎死後の後継争いの中で次第に台頭し、6代皇帝石鑑の時代に国号をと改めて政権を掌握した。さらに、後趙の皇室を始めとした胡人を大量に虐殺すると、自立して漢人政権である冉魏を打ち立てた。その後、後趙の残党である石祗らを滅ぼして中原に覇を唱えたが、前燕慕容恪に敗北して処刑された。

生涯[編集]

後趙の勇将[編集]

父の冉瞻(または冉良)は漢人であり、幼少期に当時前趙の将軍であった石勒に捕らえられ、やがて勇猛さを買われて石勒の従子である石虎の養子となり、名を石瞻と改めていた。その為、冉閔は出生時から石閔と名乗っていた。

幼い頃から決断力があって鋭敏な感覚を持っており、石虎からは実の孫同様に寵遇を受けた。成長すると身長は八尺にまで至り、勇猛で戦上手となった。また、その勇力は人並外れており、謀略を多く巡らした。

やがて建節将軍に任じられると、脩成侯[1]に改封された。その後、北中郎将、遊撃将軍を歴任した。

338年5月、石虎が数十万といわれる大軍で前燕領の昌黎に侵攻すると、石閔もまたこれに従軍した。後趙軍は四方から一斉に棘城を攻め立てたが、慕輿根の力戦の前に阻まれ、さらに慕容恪からも奇襲を受け、諸軍は散々に打ち破られた。この戦いで後趙は3万人以上の兵を失ったが、ただ石閔の率いる一軍だけは一切損害を負うことなく帰還したので、その威名は大いに知れ渡った。

同月、氐族の蒲洪(後の苻洪)が使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍に任じられ、西平郡公に封じられた。この時、石閔は石虎へ「苻洪は才知傑出しており、彼の将兵はみな死力を尽くしており、その諸子も非凡な才覚を有しております。その上、強兵5万を擁して都城近郊に駐屯しております。秘密裏にこれを除き、国家を安定させるべきです」と進言したが、石虎はこれを聞き入れず、逆にますます厚遇するようになった。

339年8月、征討大都督夔安は歩兵5万を率いて荊揚北部へ、騎兵2万を率いて邾城へ侵攻すると、石閔は李農・石鑑・張貉李菟と共にその傘下に入った。9月、後趙軍は各地で東晋軍に大勝して多数の将兵を討ち取り、石閔もまた沔陰で東晋軍を破って将軍蔡懐の首級を挙げている。最終的に邾城を陥落させると軍を返し、その途上で七千戸余りを略奪した。その後、時期は不明だが征虜将軍に任じられ、武興公に封じられている。

349年1月、石宣の配下であった高力督梁犢が謀反を起こし、その数は10万にも及んだ。石閔は燕王石斌・統冠将軍姚弋仲・車騎将軍蒲洪と共に滎陽において梁犢を撃破し、反乱を鎮圧した。これによりその威望はさらに高まり、胡人・漢人問わずあらゆる宿将から、一目置かれる存在となった。

石遵に呼応[編集]

349年4月、石虎が逝去し、石世が後を継いだが、まだ幼かった事から母の劉皇太后太保張豺が政権を握った。この時、石閔は姚弋仲・蒲洪・劉寧王鸞らと共に梁犢討伐から帰還の途上であったが、李城において彭城王石遵と面会した。彼らは共に「殿下(石遵)は年長であり、聡明であります。先帝(石虎)も本来は殿下を世継ぎとなるお考えでした。ですが、老耄であった事から張豺の口車に乗せられたのです。今、女主(石世の母である劉皇太后)が朝廷に臨み、姦臣(張豺)が政治を乱しております。上白(上白城に拠って石世と対立していた李農の事)が持ちこたえておりますので、宿衛(皇帝を護衛する兵が宿直する場所)に兵卒はおりません。殿下がもしも張豺の罪を数え上げ、軍鼓を鳴らして進撃すれば、全ての者が馳せ参じて殿下を迎え入れるでしょう。」と進言した。これにより石遵は挙兵を決断すると、石閔へ「努めよ!事が成ったならば、汝を皇太子にしてやろう」と約束した。

5月、石遵が李城にて挙兵すると、石閔はその前鋒となり9万の兵で蕩陰へ進んだ。これにより各地では石遵に呼応する者が続出し、張豺や劉皇太后は戦意喪失してしまった。石遵は戦う事無くに入城を果たすと、石世を廃して自ら即位した。この功績により、石閔は都督中外諸軍事・輔国大将軍に任じられたが、皇太子に立てる約束については履行されなかった。

同月、沛王石沖は石遵の横暴に憤り、石遵誅殺を掲げて5万の兵を率いてから南下し、常山を通過する頃にはその兵数は10万を越えた。石遵の命により、石閔は李農と共に精鋭10万を率いて迎撃に当たった。石閔らは平棘にて石沖と交戦となり、これに大勝した。さらに、元氏において石沖を捕縛した。石遵は石沖に自殺を命じ、その麾下の兵3万を生き埋めにした。

同月、石閔は石遵へ「蒲洪は人傑です。今、蒲洪に関中を任せておりますが、臣は秦・雍の地が国家の有するもので無くなるのを恐れております。先帝臨終の命(蒲洪を関中へ置くのは石虎の遺命)といえども、既に陛下がこれを継いでいるのですから、自ら改めても差し支えないかと」と勧めた。石遵はこれに従い、蒲洪の都督職を免じた。蒲洪はこの処遇に怒り、枋頭へ帰って東晋へ帰順してしまった。

石鑑擁立[編集]

石遵の即位以降、石閔は自らの功績を誇って朝政を専断しようとしたが、石遵はこれを認めなかった。その為、以前皇太子に立てる約束を反故にされた事もあり、大いに不満を抱くようになった。また、石閔は都督に任じられて内外の兵権を握ると、殿中の将士と東宮の高力1万人余りを慰撫しようと思い、全員を殿中員外将軍に任じ、関外侯の爵位を与え、宮女を下賜するよう上奏し、これによって自らの恩徳を広めようとした。たが、石遵はこれを一切認めず、逆に石閔の勢力を押さえ込もうとしたので、みなこれに憤ったという。また、中書令孟準・左衛将軍王鸞は石遵へ、石閔の兵権を少しずつ奪うよう進言した。石閔はこの措置に露骨に不満を露わにするようになり、ここに至って遂に孟準らは石閔の誅殺を進言した。

11月、石遵は義陽王石鑑・楽平王石苞・汝陰王石琨・淮南王石昭らを集めて鄭皇太后の前で会議を開くと、石閔の誅殺について論じ合ったが、鄭皇太后の反対に遭い取りやめとなった。石鑑は退出すると、宦官楊環を使者として石閔のもとへ派遣し、全てを密告した。その為、石閔は李農と右衛将軍王基と結託し、石遵廃立を企てた。そして計画を実行に移すと、将軍蘇彦周成に3千の兵を与えて石遵捕縛を命じた。この時、石遵は南台において婦人と碁に興じており、すぐさま捕らえられた。石閔は琨華殿において石遵を処刑し、鄭皇太后・張皇后・皇太子石衍(石虎の子の石斌の子)・孟準・王鸞・上光禄張斐も纏めて殺害した。代わって石鑑を擁立し、功績により大将軍に任じられ、武徳王に封じられた。

12月、石閔・李農の専横を恐れた石鑑は、石苞・中書令李松・殿中将軍張才に命じて琨華殿にいる石閔らへ夜襲を掛けさせたが、成功しなかった。これにより宮中は大混乱に陥り、石鑑は大いに恐れ、この件に一切関係ないかのように振る舞い、その夜のうちに西中華門で実行犯の李松・張才・石苞を殺害した。

同月、襄国を鎮守していた新興王石祗は石閔と李農の誅殺を掲げ、姚弋仲・蒲洪らと結託して内外へ檄を飛ばした。石閔は石琨を大都督に任じ、張挙・侍中呼延盛に7万の兵卒を与えて、二道から石祗を攻撃させた。

中領軍石成侍中石啓・前の河東郡太守石暉は石閔と李農の誅殺を企てたが、事が露見して逆に殺害された。さらに、龍驤将軍孫伏都劉銖もまた石閔らの誅殺を企て、羯族の兵士3千人を胡人の居住区域に伏せると共に、中台にいる石鑑の身柄を抑えた。その後、孫伏都らは石閔らを攻めるも敗北を喫し、退却して鳳陽門に立て籠もった。石閔らは数千の兵を率いて金明門を破壊し、中台へ向かった。石鑑は殺されるのを恐れ、すぐに石閔と李農を招き寄せ、門を開いて中へ迎え入れると「孫伏都が造反したぞ。卿らは速やかにこれを討つように」と命じた。李農は孫伏都らを攻撃すると、これを撃破してその首級を挙げた。鳳陽門から琨華殿へ至るまで屍が連なり、流血は川を成す程であったという。

この時、石閔は宮廷内外へ「内外の六夷で武器を持つ者は全員斬首する」と宣言したので、胡人らの多くが城門を突破するか城壁を越えて逃亡してしまった。さらに、石閔は尚書王簡と少府王鬱に数千の兵を与えて石鑑を御龍観へ軟禁させ、食事については吊り下げて振る舞った。さらに城中へ向けて「今、孫・劉は反逆したが、その残党は全て誅した。これは善良なる者には全く関わりない事だ。今日以後、我等と心を同じくする者はここに留まり、そうでない者は好きにするがよい。勅を下し、城門を閉めないようにしよう」と布告すると、百里以内にいる漢人はみな入城したが、城を去ろうと思う胡人で城門付近は渋滞となった。これを見た石閔は、胡人は自分の為には働かないと見切りを付け、内外へ向けて「胡人を斬って首を鳳陽門へ送った漢人は、文官ならば位を三等進め、武官ならば牙門へ抜擢する」と布告した。すると、1日だけで数万の首級が集まった。石閔もまた自ら漢人を率い、胡人を大量に虐殺した。そこに貴賤・男女・幼老の区別は無く、20万人余りが殺害された。屍は城外へ捨てられ、野犬や豺・狼に食われてしまった。四方にある胡人が住まう集落についても、漢人の将軍に命じて殺害させた。また、漢人であっても、体格が大きく鼻が高く髭が多かった者は、胡人と間違われて多数殺害されたという。

衛に改称[編集]

350年1月、石閔は石氏の痕跡を徹底的に消し去ろうと思い、讖緯の中に「継趙李」の一節があった事から、自らの独断で国号を「衛」に変更し、自らの姓を「李」と改めた。さらに、大赦を下して青龍と改元した。だが、太宰趙庶・太尉張挙を始め万を越える公卿が離反し、その多くは襄国の石祗を頼った。さらに、石琨は冀州へ逃亡し、撫軍将軍張沈は滏口へ、張賀度は石瀆へ、建義将軍段勤は黎陽へ、寧南将軍楊群は桑壁へ、劉国は陽城へ、段龕は陳留へ、姚弋仲は灄頭へ、蒲洪は枋頭へ拠り、彼らは各々数万の兵を擁して李閔へ反旗を翻した。

李閔は洛陽にいる麻秋へ命を下し、王朗麾下の胡兵千人余りを誅殺させた。これにより、王朗は襄国へ逃走した。

同月、石琨・張挙・王朗が7万の兵を率いて鄴へ侵攻すると、李閔は千余りの騎兵を率いてこれを迎え撃ち、両軍は城北において激突した。李閔は手に両刃矛を持って戦場を疾走し、迎え撃つ敵兵を尽く斬り倒し、3千の首級を挙げた。これにより石琨らは大敗を喫し、軍を退却させた。さらに、李閔は李農と共に3万の兵を率い、石閔に反抗して石瀆に拠っていた張賀度を討伐した。

2月、捕らわれていた石鑑は李農らが不在の隙に鄴を奪還しようと企み、滏口に拠っていた張沈へ密書を書いた。だが、その使者となった宦官は寝返って李閔へ密告したので、李閔と李農は鄴へすぐさま帰還した。そして遂に石鑑を廃立すると、これを殺害した。さらに、石虎の孫28人を皆殺しとした。

姚弋仲は李閔討伐の兵を挙げると、混橋まで進軍した。

魏王朝樹立[編集]

ここにおいて、司徒申鍾・司空郎闓を始め48人は李閔へ帝位に即くよう進めたが、李閔は李農こそが相応しいとしてこれを譲った。だが、李農は死を賭してまで李閔に即位するよう勧めた。李閔は「我は本来晋人であり、今も晋室はなお存続している。そこで諸君と州郡を分割し、各々が牧・守・公・侯を称し、晋の天子を洛陽へ奉迎しようと思うのだが、如何か」と述べたが、尚書胡睦は「陛下の聖徳は天に応じております。どうか大位へ登られますよう。晋氏は衰弱しており、遠く江南に逃れております。彼らが英雄を支配できるというのなら、どうして四海はこのように乱れているのでしょうか!」と反対した。李閔は「胡尚書の言は、『機を識り命を知る』というべきであるな」 と述べ、遂に皇帝となる事を決めた。こうして南郊で帝位へ即くと、国号を「大魏」と定め、大赦を下して永興と改元した。史書はこれをもって冉魏の成立としている。

3月、李閔は父祖代々の姓である「冉」へ戻し、母の王氏を皇太后と、妻の董氏を皇后と、嫡男の冉智を皇太子とし、諸子の冉胤冉明冉裕を王に封じた。さらに、祖父の冉隆を元皇帝と、父の冉瞻を烈祖高皇帝と追尊した。また、李農を太宰・領太尉・録尚書事に任じて斉王に封じ、その子も全て県公に封じた。文武百官は位を三等進められ、各々封爵された。また、使者に節を持たせて張沈や苻洪を始めとした諸屯に派遣し、特赦を出す旨を伝えるも、1人として返使は来なかった。

石祗は石鑑が誅殺された事を知ると、襄国において帝位に即き、永寧と改元した。これにより、兵を擁して州郡に拠っていた諸々の胡人は尽く石祗に呼応した。

石祗との戦い[編集]

全盛期[編集]

4月、石祗は冉閔討伐の兵を興すと、相国石琨に10万の兵を与えて、冉魏を攻撃させた。

同月、冉閔は李農とその3子、並びに尚書令王謨・侍中王衍中常侍厳震趙昇らを次々と粛清した。さらに、東晋へ使者を派遣して「逆胡が中原を乱しておりましたが、今これを誅滅しております。もし共討してくれるのであれば、軍を派遣して頂きますよう」と要請したが、東晋朝廷は応じなかった。

5月、東晋の廬江郡太守袁真は冉魏領の合肥を攻撃し、冉魏の南蛮校尉桑坦は捕らえられた。袁真は百姓を強奪してから帰還した。

6月、石琨は邯鄲まで軍を進め、ここに陣を構えた。さらに、後趙の鎮南将軍劉国は繁陽から出陣して石琨に合流した。冉閔は衛将軍王泰に迎撃を命じると、王泰は邯鄲で敵軍を撃破して万を越える兵を討ち取った。劉国は繁陽へ撤退した。

8月、苻洪の子である苻健が枋頭から入関し、張賀度・段勤・劉国・靳豚昌城で合流し、結託して鄴へ侵攻した。冉閔は尚書左僕射劉群を行台都督に任じ、王泰・崔通周成を始めとした歩兵騎兵12万を与え、黄城に駐屯させた。また、冉閔自らも精鋭8万を率いて軍の後詰となった。両軍は蒼亭において戦闘となり、冉閔はこれに勝利して張賀度軍を潰滅させ、2万8千の兵を討ち取った。さらに、陰安まで追撃を掛けると、靳豚の首級を挙げ、残兵を尽く捕虜とした。その後、軍を帰還させた。この時、冉閔軍の兵は30万を超え、軍旗や鐘鼓は百里余りに渡って連なり、石氏の最盛期ですらここまでの威勢は無かったという。

冉閔は蒼亭から鄴に帰還すると、飲至の礼(宗廟で酒を飲み、先祖へ報告する事)を行った。また、九流(儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の総称)を整え、その才能に応じて官職を授けた。これにより、儒家の子孫の多くが昇進を受けて盛んとなった。この時期、国内は安定し、さながら魏晋初期のようであったという。

襄国で大敗[編集]

11月、冉閔は歩騎兵併せて10万を率いて石祗の守る襄国へ侵攻し、子の太原王冉胤を大単于驃騎大将軍に任じ、降伏してきた胡人1千人を配下に付けた。これに光禄大夫韋謏は「胡・羯は全て我らの仇敵であり、今奴らが帰順してきたのは、単にその命を存続させようとしているに過ぎません。万一変事を起こされたならば、悔いても及びますまい。降胡を誅殺し、単于の称号を外し、惨事を防がれますよう」と強く諫めたが、冉閔は方針を転換して胡人を慰撫しようと考えていた矢先であり、この書に目を通すと激怒してしまった。これにより、韋謏と子の韋伯陽を始め、その子孫は誅殺された。

351年2月、冉閔は襄国を百日余りに渡って包囲し、土塁を築いて地下道を掘った。また、屋舍を築いて農事を行い、長期戦に備えた。石祗は大いに恐れ、皇帝号を取り去って趙王を称し、太尉張挙に伝国璽を持たせて前燕皇帝慕容儁の下へ派遣し、さらに中軍将軍張春を姚弋仲の下へ派遣し、いずれも援軍を要請した。姚弋仲はこれに応じ、子の姚襄に2万8千の騎兵を与えて滆頭から救援に派遣した。さらに、姚弋仲は前燕へ使者を派遣して出兵する旨を伝えると、前燕もまたこれに呼応し、禦難将軍悦綰に3万の兵を与えて龍城より出撃を命じ、姚襄と合流させた。さらに、冀州にいた石琨も兵を挙げて石祗の救援に向かった。これにより、三方から精鋭が集結し、その数は10万を超えていた。前燕が出兵すると聞いた冉閔は、大司馬従事中郎常煒を前燕へ派遣した。常煒は慕容儁からの詰問に堂々と反論して彼を感嘆させたが、その意志を覆す事は出来なかった。この後、慕容儁もまた龍城を出発して、薊・范陽などを攻略した。

3月、姚襄と石琨が襄国に逼迫すると、冉閔は車騎将軍胡睦を長蘆へ派遣して姚襄を迎撃させ、将軍孫威を黄丘に派遣して石琨を迎撃させた。だが、両軍はいずれも敗れ去って軍は壊滅し、胡睦・孫威は単騎で逃げ帰って来た。その為、冉閔は自ら出陣しようとしたが、衛将軍王泰は「今、襄国を下せていないのに、援軍が雲の如く集結しております。もし我等が出撃すれば、必ずや腹背より挟撃を受ける事でしょう。これこそが危道といえます。ここはまず塁を固くして敵の気鋭を挫き、情勢をよく見極めた上でこれを撃つのです。それに、陛下自らが親征しているのですから、万全など失するが如しです。やがて大事は去りましょう。どうか慎しまれ、軽々しく撃って出る事のありませんように。代わりに臣が諸将を率い、陛下の為に滅してみせましょう」と諫めた。冉閔はこれに同意して出陣を中止しようとしたが、道士法饒は「陛下が襄国を包囲してから年を経ましたが、未だ尺寸の功もありません。今、賊が到来しているのに、これを避けて撃とうとしない。これでどうして将士を使えましょうか!それに、太白(金星)が昴を冒しております。昴とは胡の星であり、これは胡王を殺せとの天啓です。今こそ百戦百勝の好機であり、これを逃してはなりません!」と反論すると、冉閔は袂を翻して「我は戦いを決めた。敢えて阻む者は斬る!」と宣言し、全軍を挙げて姚襄・石琨と対峙した。

この時、悦綰もまた冉魏軍から僅か数里の所まで接近しており、彼は騎兵同士の間隔を敢えて開け、馬に柴を引っ張らせて埃を巻き上げさせた。この砂埃を見て冉魏兵は大軍が来たと思い込み、恐れ慄いた。この機を逃さず、悦綰は姚襄・石琨と共に三方から攻め立て、さらに石祗が後方から攻撃した。10万余りの兵から挟撃を受けた冉閔は大敗を喫し、軍は崩壊した。冉閔は襄国の行宮に身を潜め、隙を見て10騎余りに守られて鄴へ撤退した。冉閔に従っていた胡人の栗特康は冉胤と左僕射劉奇を捕らえて後趙へ降伏し、両者は石祗により処刑された。この戦いで、胡睦・司空石璞・尚書令徐機・中書監盧諶・侍中李琳・少府王鬱・尚書劉欽劉休らを始め、戦死した将兵は10万にも及んだ。これにより冉魏から有望な人材がいなくなったという。冉閔は密かに逃げ帰っていたので、鄴では誰もその事を知らず、冉閔戦死の噂が流れて大混乱となっていた。その為、射声校尉張艾が近郊を巡遊するよう提案し、冉閔は従った。これにより混乱は鎮まった。

これ以降、賊盗は峰起して司州・冀州では大飢饉となり、人民は互いに食い合う程であった。石虎の時代の末年、冉閔は倉庫を全て開けて振る舞う事で恩を立てていた。また、羌・胡と争うようになると戦わない月は無く、庶民は大いに困窮した。これらが食糧難の遠因でもあった。かつて、後趙は青州雍州幽州荊州の移民や諸々の羌・胡・蛮の数百万余りを強制移住させていたが、後趙の支配が及ばなくなるとみな郷里に帰ろうとした。彼らは一斉に移動したので、道路は混雑して殺人や略奪が横行し、さらに飢饉と疫病が降りかかり、無事に帰還出来た者はわずか2・3割であった。中原は混乱に陥り、農業を復活させる者もいなくなった。冉閔はこれを大いに悔い、発端となった法饒とその子をばらばらにして殺害し、逆に韋謏には大司徒を追贈した。

後趙滅亡[編集]

同月、石祗は側近の将軍劉顕へ7万の兵を与えて鄴へ侵攻させ、劉顕は鄴から23里の距離にある明光宮に駐屯した。冉閔はこれに動揺し、王泰を召し出して対策を練ろうとした。だが、王泰は以前自らの献策が採用されなかった事に不満を抱いており、戦場で負った傷が悪化したと称して出仕を断った。その為、冉閔は自ら彼の屋敷に出向いたが、王泰は重体だと称すのみであった。これに冉閔は激怒し、宮殿に帰ると側近へ「巴奴(王泰は巴蛮人)め、乃公がどうして汝の力を借りようか!まず群胡を滅し、その後に王泰も斬ってやろう」と言い放ち、軍を出撃させた。冉閔は迎え撃つと、劉顕に大勝して敗走させた。さらに、劉顕軍を陽平まで追撃し、3万の兵を討ち取った。劉顕は冉閔を大いに恐れ、密かに降伏の使者を派遣すると、石祗を殺害する代わりに助命を申し出た。冉閔はこれに応じ、追撃を中止して引き返した。その途上、ある者が冉閔へ、王泰が秦人を集めて関中へ亡命しようとしていると告げると、冉閔は激怒して王泰を誅殺し、三族を皆殺しにした。

4月、勃海の民である逄約が後趙の混乱に乗じ、数千家の民衆を擁して冉魏に帰順した。冉閔は逄約を勃海郡太守に任じ、元の勃海郡太守劉準を幽州刺史に任じ、勃海を二分させた。だが、逄約は前燕の将軍封奕に捕縛され、劉準もまた昌黎郡太守高開に降伏した。

同月、襄国に帰還した劉顕は石祗を始め、丞相楽安王石炳・太宰趙庶ら10人余りを殺害して襄国を制圧すると、その首級を鄴へ送った。同時に人質も差し出してその命を請うと、冉閔はこれに喜び、劉顕を上大将軍・大単于・冀州に任じた。また、石祗の首を道端で焼き払った。

襄国攻略[編集]

5月、冉魏の兗州刺史劉啓が、鄄城ごと東晋に帰順した。

7月、劉顕は自立を目論んで冉閔から離反し、再び兵を率いて鄴を攻撃した。だが、冉閔はこれを撃破し、襄国へ退却させた。この後、劉顕は自立を宣言し、皇帝を自称した。

8月、冉魏の徐州刺史周成・兗州刺史魏統・豫州牧張遇荊州刺史楽弘が東晋に帰順し、廩丘・許昌などの諸城を明け渡した。さらに、冉魏の平南将軍高崇・征虜将軍呂護洛州刺史鄭系を捕らえ、三河ごと東晋に帰順した。

同月、前燕の輔国将軍慕容恪は冉魏の勢力圏である中山を攻撃し、中山郡太守侯龕趙郡太守李邽を降伏させた。また、武昌王慕容彪は中山を陥落させて冉魏の寧北将軍白同を討ち取り、幽州刺史劉準は前燕に降伏した。当時、長さが百丈余りある黄赤色の雲が東北より起こり、一羽の白鳥がその雲間を西南に飛び去っていった。占者はこれを凶兆と捉えた。

352年1月、劉顕は冉魏の支配下にあった常山に侵攻した。冉魏の常山郡太守蘇亥が冉閔に援軍を要請すると、冉閔は大将軍蒋幹に皇太子冉智の補佐と鄴の守備を任せ、自ら8千の騎兵を率いて救援に向かった。劉顕配下の大司馬清河王劉寧は寝返って棗強ごと冉閔に降伏し、冉閔はその兵を統合して劉顕に攻撃を掛け、これに大勝した。さらに軍を退却させた劉顕を襄国まで追撃した。これにより、襄国を守備していた大将軍曹伏駒もまた冉閔に寝返り、城門を開いて冉閔軍を引き入れた。これにより冉閔は何の抵抗も受けずに襄国に入城することが出来た。襄国を制圧した冉閔は、劉顕とその公卿以下100人余りを処刑し、襄国の宮殿を焼き払い、住民を鄴へ強制的に移住させた。

襄国を攻略して以降、冉閔は常山・中山の諸郡で遊び暮らすようになった。その隙に乗じ、後趙の立義将軍であった段勤は、胡人1万余りを集めて繹幕県において乱を起こし、趙帝を自称した。

慕容恪との決戦[編集]

4月、慕容恪は冉魏討伐のために軍を起こした。冉閔はこれに応戦しようとしたが、大将軍董閏・車騎将軍張温は「鮮卑は勝ちに乗じて強勢があり、これに当たるべきではありません。ここはひとまず退いて敵の気勢を削ぎ、その後軍を整えてから攻撃すれば、速やかに勝てるでしょう」と諫めたが、冉閔は「我はこの軍で幽州を平らげ、慕容儁を斬るのだ。今、慕容恪に遭遇しただけでこれを避けては、人は我を侮るであろう」と怒った。司徒劉茂・特進郎闓は冉閔の敗亡を悟って自殺した。

冉閔は安喜に陣を布くと、慕容恪もこれに向かった。その後、冉閔が常山へ移動すると、慕容恪もこれを追い、両軍は魏昌の廉台において激突した。冉閔は前燕軍と10度戦の戦闘を行い、全て勝利を収めた。元々、前燕にも冉閔の勇名は轟いており、率いる兵は精鋭揃いだったため、前燕軍の兵卒は初めて恐れを抱いた。慕容恪は各陣地を激励して回る事で兵卒の士気を取り戻した。

冉魏軍には歩兵が多く前燕軍には騎兵が多かったため、冉閔は戦場を林の中へ持ち込もうとしていた。その為、慕容恪は参軍高開の献策に従い、敗北したふりをして軍を退き、冉閔を平地へ誘い込んだ。冉閔が策にはまって平地へ誘い出てくると、慕容恪は全軍を三隊に分けて方陣を作り、射撃の巧い勇猛果敢な鮮卑五千人を選ぶと、鉄の鎖で馬を結んで方陣の前方に配置した。冉閔は一日千里を走る名馬と言われた朱龍に跨り、左手で両刃矛を、右手で鉤戟を操り、風上から前燕軍へ突撃し、三百余りの首級を挙げた。さらに、敵本陣と思われる大旗を望み見ると、勢いのままに全軍を挙げて攻撃したが、陣の先頭には鎖で繋がれた騎兵達が陣取っており、突入出来なかった。ここに、前燕軍が両翼から挟撃を仕掛けたので、冉魏軍は大敗を喫した。冉閔は幾重にも包囲されたが、これを突破すると東へ逃走して20里余りに渡って逃走した。だが、朱龍が疲れから倒れてしまうと、冉閔は追撃してきた慕容恪の騎兵に追いつかれ、遂に捕らえられた。この戦いで、冉魏の僕射劉群は戦死し、董閏・張温は捕らえられ、冉閔と共に薊へ送られた。冉閔の子である冉操は魯口へ逃走した。

最期[編集]

慕容儁は冉閔を連れてこさせると「汝は下才の奴僕に過ぎないのに、どうして天子を称しようとしたのか」と問うと、冉閔は「天下は大乱であり、汝らの如き人面獣心の夷狄ですら奪逆している。我は当代の英雄であり、どうして帝王になれない事があろうか!」と言い放った。慕容儁はこれに怒り、冉閔を三百回に渡り鞭打ち、その後龍城へ送った。

5月、冉閔は遏陘山において処刑された。すると、遏陘山では周囲七里で草木が枯れ果て、蝗害が大発生した。また、5月なのに降雨がなく日照りが続き、それは12月まで続いた。慕容儁は冉閔の祟りではないかと恐れ、使者を派遣して冉閔の祭祀を執り行い、武悼天王と諡した。すると、すぐに大雪が降ったという。

鄴を守る皇太子冉智・大将軍蒋幹もまた前燕の慕容評から包囲を受け、8月には鄴は陥落して冉智は薊に送られた。これにより、冉魏は完全に滅んだ。

染華墓志[編集]

染華墓志とは、1991年秋に河南省偃師県城関郷杏元村東で出土した石碑である。染華という人物について記されており、その祖先は冉閔であるという。この石碑によると、冉閔はの末裔であり、文王の少子である冉季載の子孫であるという。後趙の石虎の時代に西華王に封じられ、侍中・使持節・都督中外諸軍事・黄鉞大将軍・録尚書事を歴任して武信王に封じられた等、晋書や資治通鑑には無い記述がある。また、崩御した際には平帝と諡されたという。その後、冉閔の子孫は前燕から北魏に仕え、染と姓を改めて染華の代にまで至るという。

宗室[編集]

祖父[編集]

  • 冉隆 - 元皇帝と追尊された。

父母[編集]

  • 冉瞻(冉良、石瞻)- 烈祖高皇帝と追尊された。
  • 王太后

后妃[編集]

  • 董皇后 - 前燕より奉璽君に封ぜられた
  • 仇世婦 - 殿中侍御史仇嵩の長女。冉閔の死後、後に豆盧勝(慕容勝)に嫁ぎ、盧魯元を生んだ。

[編集]

  • 冉智 - 皇太子
  • 冉胤 - 太原王に封じられた。
  • 冉明 - 彭城王に封じられた。
  • 冉裕 - 武興王に封じられた。
  • 冉操
  • 冉睿 - 染華墓誌にその名が見える。前燕に仕え、散騎常侍・海冥県侯に昇ったという。

脚注[編集]

  1. ^ 十六国春秋では脩武侯と記載される

参考文献[編集]

  • 『晋書』 巻107
  • 『資治通鑑』「晋紀」巻96 - 巻99
  • 『十六国春秋』「後趙録」巻2