仇池

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仇池(きゅうち)は、後漢建安年間に人の楊騰が部衆を率いて樹立した地方政権。西晋時代の八王の乱期に本格的に独立し、五胡十六国時代に割拠した勢力である。仇池とは嘉陵江の支流西漢水上流の地名で現在の甘粛省成県に当たる。

前仇池[編集]

建国期[編集]

三国時代、現在の甘粛省一帯に勢力を有した氐王阿貴は、涼州の馬超韓遂楊秋らと協力して曹操に対抗していた。しかし相次ぐ敗戦により一部の勢力はへと投降し、投降しなかった者は曹操により扶風天水一帯へと移された。司馬昭の時代になると、氐人の楊飛龍は西晋より征西将軍に封じられ、部衆を率いて「還居略陽」の故地回復運動を開始した。

楊飛龍の養子になった楊茂搜296年西晋が八王の乱で乱れ、また同年に発生した斉万年の乱で関中が乱れると仇池に移り[1]、自ら輔国将軍、右賢王を称し、氐族部衆に擁立され王位に就いたが、これが地方政権としての仇池の建国である[2]。建国後は仇池公を称し、武都、陰平の2郡を統治した。楊茂搜は西晋に服属しながら関中の混乱を避ける流民を吸収して勢力を拡大したため、西晋も左賢王として認めざるを得なくなった[2]

混乱期[編集]

317年に楊茂搜が死去すると継承を巡る内紛が発生し、楊茂搜の長子である楊難敵は左賢王を名乗り下辨を、弟の楊堅頭は右賢王を号し河池(現在の徽県)を統治して対立し、楊氏集団は二分された[2]。当時、西晋は永嘉の乱で既に滅亡していたので、仇池は西晋から自立した陳安と手を結び、さらに322年には前趙劉曜に服属したが、323年には成漢李雄に服属したため、劉曜に攻められ、さらに李雄にも攻められた[2]。この兄弟の対立や外圧により、一時は隴南地区の大部分を統治した仇池の国勢は衰退する。

334年に楊難敵は死去し、子の楊毅が楊堅頭の子の楊盤と共に楊氏集団を引き継いだ[2]。楊毅は東晋に服属したが、337年に族兄の楊初に殺害され、楊初は仇池公と称して後趙石虎に服属した[2]。だが340年代後半に石虎が重病となって内紛が起こり、さらに東晋の桓温により成漢が滅ぼされると再び東晋に服属し、347年10月に仇池公に封じられた[2]355年に楊初は内乱で殺害され、以後歴代の君主は内紛により激しく変動したが、いずれも東晋との関係を維持して平羌校尉に任命され、楊国以外は仇池公に封じられた[2]

滅亡期[編集]

内紛を繰り返した結果、勢力を大きく衰退させた仇池は、前秦苻堅による介入を受けた[3]。苻堅は370年に楊統と楊纂の内紛を突いて仇池を攻撃、苻雅楊安率いる前秦軍に敗れて前仇池は371年4月に滅亡した[3]。楊纂は関中に移されて間もなく殺害され、楊統が前秦の南秦州刺史として服属した[3]

後仇池[編集]

建国期[編集]

前仇池の楊難敵の孫に当たる楊仏奴355年に父が内紛で殺害されたため、前秦に亡命して右将軍として仕えていた[4]。その息子の楊定は苻堅の娘婿となり尚書・領軍将軍として仕え、383年淝水の戦いで苻堅が大敗した後も前秦に仕え続けた[4]385年8月、苻堅が後秦により殺害されたため楊定は部衆を率いて隴右に逃れ、11月に歴城(現在の甘粛省西和県)に移って[4]、龍驤将軍・平羌校尉・仇池公を自称し自立、後仇池政権を建国した[5]。楊定は東晋に服属して自称していた称号全てを認可され、390年には天水略陽隴城冀城など秦州を占拠し隴西王を自称するなど勢力を拡大した[5]。だがそのために西秦乞伏乾帰と衝突し、394年10月に合戦となり敗北した楊定は殺害されてしまい、隴西も失った[5]

存続に腐心[編集]

従兄の楊盛が仇池公を継ぎ、北魏後秦、東晋などとの外交関係に苦慮しながら存続に尽力した[5]396年には後秦に服属して仇池公に封じられ、398年には北魏に服属して仇池王に封じられ、399年には東晋に服属して平羌校尉・仇池公に服属し、404年には東晋から簒奪して楚の皇帝となった桓玄から西戎校尉に進められた[5]404年405年には西秦と合戦、405年にはさらに後秦と戦い大敗したが、子の楊難当を人質に差し出して凌いだ[5]412年に楊盛は再度後秦に背いたため、その攻撃を受けたが撃退し、逆に416年には後秦を攻撃、417年に後秦が東晋に滅ぼされるまで戦った[5]。後秦滅亡後は関中の覇権をめぐって衝突した[5]420年に東晋が劉裕に簒奪されて滅びると、楊盛は新たに成立したに服属し、422年には武都王に封じられたが、年号は東晋の義熙を使い続けた[5]425年6月に楊盛は死去し、息子の楊玄が跡を継いだ[5]

楊玄は宋の年号である元嘉を奉じて正式に宋に服属するが、426年12月に北魏が長安を獲得したため、北魏に服属し、以後は南朝重視路線から南北両朝通交路線に改めた[6]429年に楊玄は死去し、子の楊保宗が跡を継いだが、すぐに叔父の楊難当に廃されてしまい、楊難当は宋に服属した[6]432年に後仇池では飢饉が発生、同時期に宋では司馬飛龍の乱が起こったので楊難当はこれに乗じて梁州(現在の四川省東部)北部を攻撃して漢中を占領したが、すぐに宋の蕭思話の反撃を受け、434年に楊難当は謝罪して再度宋に服属した[6]

一方、先に廃された楊保宗は432年に楊難当に叛いたが失敗して捕らえられ、435年には赦免されて董亭(現在の甘粛省天水市)に鎮したが、後に兄の楊保顕と共に北魏に亡命した[6]436年3月、楊難当は建義という独自の年号を建て、自らを大秦王、妻を王后、世子の楊和を太子として本格的に自立し、南北朝のどちらにも属さない完全な独立国としての体制を敷いた[6]

滅亡[編集]

楊難当は北魏を攻撃するが[6]、北魏は先に亡命していた楊保宗を使ってこれを防がせた[7]440年、楊難当は旱魃と災害を理由にして王号を大秦王から武都王に戻し、441年には宋の益州北部を攻撃したが撃退され、追いつめられた楊難当は442年5月に仇池を放棄して北魏に亡命し、ここに後仇池は滅亡した[7]

なお、先に亡命していた楊保宗は443年4月に謀反を起こして北魏に殺害され、仇池も北魏により平定された[7]。ただし仇池の集団は南北朝時代の中で巧みに勢力を保ちながら6世紀末まで集団を維持した[7]

氐族の滅亡[編集]

楊茂搜の後裔はその後も武都武興陰平などの政権を樹立したが、580年に陰平国王の楊法深北周の益州総管王謙の反楊堅の運動に協力したことから楊堅の軍勢により滅亡させられ、部衆は四散、氐の名称は史書から姿を消していくこととなった。

歴代君主[編集]

前仇池[編集]

  1. 楊茂搜:296年 - 317年
  2. 楊難敵:317年 - 334年
  3. 楊毅:334年 - 337年
  4. 楊初:337年 - 355年
  5. 楊国:355年 - 356年
  6. 楊俊:356年 - 360年
  7. 楊世:360年 - 370年
  8. 楊統:370年 - 370年
  9. 楊纂:370年 - 371年

後仇池[編集]

  1. 楊定:385年 - 394年
  2. 楊盛:394年 - 425年
  3. 楊玄:425年 - 429年
  4. 楊保宗:429年
  5. 楊難当:429年 - 442年
  6. 楊保熾:442年 - 443年

武都[編集]

  1. 楊文徳:447年 - 455年
  2. 楊元和:455年 - 466年
  3. 楊僧嗣:466年 - 473年
  4. 楊文度:473年 - 477年

武興[編集]

  1. 文王楊文弘:478年 - 479年
  2. 順王楊後起:479年 - 486年
  3. 安王楊集始:486年 - 503年
  4. 関王楊紹先:503年 - 535年
  5. 恵王楊智慧:535年 - 545年
  6. 理王楊辟邪:545年 - 553年

陰平[編集]

  1. 楊広香:477年 - 483年
  2. 楊炅:483年 - 495年
  3. 楊崇祖:495年 - 511年
  4. 楊孟孫:511年
  5. 楊定:511年 - 542年
  6. 楊太赤:542年 - 564年
  7. 楊法深:564年 - 580年

脚注[編集]

注釈[編集]

引用元[編集]

  1. ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P76
  2. ^ a b c d e f g h 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P77
  3. ^ a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P78
  4. ^ a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P143
  5. ^ a b c d e f g h i j 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P144
  6. ^ a b c d e f 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P145
  7. ^ a b c d 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P146

参考文献[編集]