前趙

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前趙
漢→趙
南匈奴
西晋
304年 - 329年 後趙
前趙の位置
前趙の領域。
公用語 漢語(中国語)、匈奴語
首都 左国城
離石
黎亭
蒲子
平陽
長安
漢王→皇帝
304年10月 - 310年6月 劉淵
310年6月 - 310年7月 劉和
310年7月 - 318年7月 劉聡
318年7月 - 329年8月 劉粲
318年10月 - 328年12月 劉曜
328年12月 - 329年9月 劉煕
変遷
漢の建国 304年
国号を趙に改める 319年
後趙によって滅亡 329年

前趙(ぜんちょう、拼音:Qiánzhào、304年 - 329年)は、中国五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号はであり、劉曜の時代にに改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙漢趙とも呼称される。

歴史[編集]

前史[編集]

建国者の劉淵は、匈奴単于を輩出する屠各種攣鞮部の出身であった。匈奴は後漢末期には漢王朝に服属して長城付近に定住していたが、建安年間(196年 - 220年)に曹操により五部に分けられ、并州領内に住まうようになった。劉淵の父である左賢王劉豹は、左部を統括して大きな勢力を持っており、咸熙年間(264年 - 265年)、朝廷は劉豹を抑え込むために、劉淵を人質として洛陽に迎え入れた。劉淵は時の権力者である司馬昭司馬炎らに高く評価された。279年に父の劉豹が死ぬと、劉淵は父の役職であった左部帥を継いだ。289年11月には北部都尉に、290年10月には建威将軍・五部大都督に任じられ、漢光郷侯に封じられた。

司馬衷の時代、291年楊駿誅殺を皮切りに、八王の乱と呼ばれる皇族同士の大規模な内乱が勃発した。これに呼応して各地でも反乱が勃発し、強盗略奪が横行した。成都王司馬穎は匈奴の兵力を利用しようと目論み、劉淵を配下に迎えて本拠地であるに移らせ、行寧朔将軍・監五部軍事に任じた。304年に司馬穎が皇太弟丞相に上ると、東海王司馬越・東嬴公司馬騰・安北将軍王浚らが反発して八王の乱は激化し、これに伴い劉淵は輔国将軍、冠軍将軍と昇進を重ねた。

并州にいた劉淵の従祖父である劉宣らは、中央の混乱を反乱の好機と捉え、密かに劉淵を大単于に推戴した。だが、劉淵自身は鄴から離れることが出来なかった為、表向きは司馬穎に呼応するためと称して、劉宣らに命じて五部匈奴を集結させた。司馬騰らが鮮卑段部烏桓の力を借りて司馬穎を攻撃すると、司馬穎は次第に形勢不利となった。司馬穎は劉淵を并州に戻し、五部匈奴を救援として引き連れてくるよう命じ、北単于・参丞相軍事に任じた。劉淵は并州の左国城に到着すると、劉宣らより上大単于の称号を授かった。

劉淵の時代[編集]

皇帝即位[編集]

304年10月に劉淵は晋朝からの自立を宣言した。かつて冒頓単于と兄弟の契りを結んでその皇族を娶っていたことから、自らを漢の後継者と称した。そのため、国号を漢と定め、漢王朝復興を大義名分として掲げた。そして、漢王に即位して年号を元煕と定め、離石を都に定めた。劉禅を孝懐皇帝と追尊し、漢の高祖(劉邦)以下、三祖五宗の神主を祭った。百官を置き、劉宣を丞相に任じた。

劉淵自立を知った司馬騰は将軍聶玄に攻撃させたが、劉淵は大陵でこれを撃退し、司馬騰を山東に逃走させた。勝ちに乗じて進出すると、養子の建武将軍劉曜太原泫氏屯留長子中都を続けざまに陥落させた。305年に司馬騰は将軍司馬瑜らに再び劉淵を攻撃させたが、武牙将軍劉欽が全て打ち破った。この年、離石は大飢饉に見舞われたので拠点を黎亭に移した。并州刺史劉琨が劉淵を攻撃すると、大将軍劉景が迎撃するも敗れ、劉琨は晋陽を占拠した。この時期、羯族石勒漢族王弥劉霊らが傘下に入り、劉淵の勢力は拡大した。

308年1月、石勒らをの地方に派遣して各地の攻略に当たらせた。7月には河東に進出して太守の路述を戦死させて河東地域を占領し、さらに平陽を攻め落として太守の宋抽を敗走させた。続けざまに蒲阪を陥落させると、蒲子へ進出してここを都とした。これにより河東・平陽に属する県砦は全て劉淵の下に帰属した。9月には王弥と石勒がを陥落させ、守将の和郁は城を捨てて逃走した。

同年10月に劉淵は皇帝を名乗り、年号を永鳳と改元した。さらに、309年1月には平陽に遷都した。この時期、伝国の玉璽を手に入れ、河瑞と改元した。

洛陽へ侵攻[編集]

309年3月、晋の左積弩将軍朱誕が漢へ亡命し、劉淵に洛陽攻撃を勧めた。劉淵は同意し、まず朱誕と劉景を黎陽に派遣した。劉景らは黎陽を攻略し、さらに進撃して延津を守る王堪を撃ち破ると、3万人余りの男女を河へ投げ込んで殺した。その後、王弥・劉聡・石勒が壺関を攻撃すると、并州刺史劉琨は救援軍を派遣したが、これを撃破して皆殺しにした。司馬越は淮南内史王曠と将軍の施融曹超を派遣して劉聡軍を防がせたが、劉聡は長平でこれを破り、王曠を撃退して施融・曹超を戦死させた。8月、劉聡と王弥が洛陽攻略に向かい、司馬越配下の平北将軍曹武らを破り、続けざまに平昌公司馬模配下の将軍淳于定らも撃退した。だが、弘農太守垣延の夜襲を受けたので、大敗して帰還した。10月、劉聡・王弥らが再び洛陽攻略に向かい、河南で晋軍を打ち破ったが、護軍賈胤北宮純の夜襲を受けて一旦軍を退いた。その後、再び宣陽門に進駐すると、劉曜・王弥・劉景が洛陽の各門を攻撃したが、劉聡が孫詢らに大敗を喫した為に軍を帰還させた。

310年1月に劉淵は長子の劉和を皇太子に立てた。

7月、劉聡・劉曜・石勒らが河内太守の裴整を包囲した。晋朝は救援軍を派遣したが、石勒と王桑がこれを撃退すると、河内の住民は裴整を捕らえて降伏した。

同月、劉淵は病床に伏すと太宰劉歓楽太傅劉洋らを禁中に呼び出し、遺詔を与えて朝政の補佐を命じた。8月、劉淵はこの世を去り、劉和が位を継いだ。

劉聡の時代[編集]

劉和の反逆[編集]

劉和は猜疑心が強く、西昌王劉鋭と宗正呼延攸に唆され、強大な軍権を有していた楚王劉聡・北海王劉乂・魯王劉隆・斉王劉裕を排除しようと画策した。彼らは皆、劉和の弟であった。

310年8月、劉和は時機を見図らって決起し、劉聡・劉乂・劉隆・劉裕を攻撃した。だが、尚書田密と武衛将軍劉璿らは、事前に劉乂に計画を漏らしており、劉乂は劉聡の下に至って計画を全て伝えた。劉聡は防備を整えて待ち構えたので、劉聡を攻撃する予定であった劉鋭は軍を返して劉隆・劉裕の攻撃に向かった。呼延攸と劉鋭らは二日の内に劉裕と劉隆を斬り殺したが、劉聡はその翌日に攻勢に転じて西明門を攻略した。驚いた劉鋭らは南宮に逃げ込んだが、これを追いかけて光極西室にいる劉和を捕らえて殺し、劉鋭・呼延攸らを晒し首とした。劉和の在位期間はわずか1ヶ月だった。劉聡はこうして後を継ぎ、光興と改元した。

劉聡は同母兄に劉恭がいたが、序列を越えて即位したのでその存在を邪魔に思い、就寝中を見計らって刺客を放って刺し殺させた。劉恭・劉聡の生母である張氏は、衝撃の余り病を患った。

310年9月、劉淵を永光陵へ葬り、諡号を光文皇帝、廟号を高祖とした。

永嘉の乱[編集]

10月、劉粲・王弥・劉曜・石勒らが三度目の洛陽攻略に向かい、監軍裴邈を澠池で破ると洛川に入り、梁国、陳留、汝南、潁川一帯を攻め、砦100余りを陥落させた。趙固と王桑は彭城を攻めて徐州刺史の裴盾を殺した。311年4月、病死した東海王司馬越の後を継いだ王衍率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。これを受け、5月には呼延晏率いる漢軍が四度目の洛陽攻撃に向かい、河南へ侵攻すると晋軍に連勝した。洛陽に至ると平昌門を陥落させ、東陽門・宜陽門と諸々の役所に火を放ち、さらに河南尹劉黙を杜門において撃ち破った。懐帝は河を渡って東へ逃れようとしたが、呼延晏が阻んだ。6月に王弥・劉曜が合流すると、再び呼延晏とと共に洛陽を包囲した。この時、洛陽城下では酷い食料不足となっており、人が互いに食い合う程であり、百官は離散した。王弥・呼延晏は宜陽門を落とすと、南宮に入って太極前殿に上り、兵を放って大掠奪を行った。劉曜は諸王公及び百官を虐殺し、洛水の北に死体を積み上げて京観を築いた。また、懐帝と恵帝の皇后羊氏を捕らえて平陽へ送還し、伝国の六璽も平陽へ送った。この事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。劉聡はこれを受けて嘉平と改元した。

西晋の復権[編集]

次に劉聡は、第二の都である長安攻略に取り掛かった。311年8月に趙染と劉雅が南陽王司馬模の守る長安を攻撃し、趙染は潼関で晋軍を破って将軍呂毅を討ち取った。漢軍が下邽に至ると、司馬模は趙染に降伏し、劉粲は司馬模と子の范陽王司馬黎を殺害した。劉聡は劉曜に長安防衛を命じた。10月、晋の従事中郎索綝・護軍麹允らが安定太守賈疋を盟主に奉戴して長安を攻撃し、麹特竺恢らもこれに呼応した。劉雅・趙染が迎撃するも敗れ、劉曜は長安の精鋭を率いて黄丘で戦ったが、再び大敗を喫して甘渠まで退いた。賈疋はさらに漢の涼州刺史彭蕩仲を討伐し、麹特配下の王禿紀特らが新豊で劉粲を攻撃して平陽に追い返した。劉曜は池陽を陥れると、1万人余りを攫って長安の守備を固めた。12月、晋の豫州刺史閻鼎らは秦王司馬鄴を皇太子に奉り、雍城に入ると関中の民は皆これに応じた。賈疋・麹特らは長安を数か月に渡って包囲し、劉曜は幾度も破れたので、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が長安から撤退すると、司馬鄴は長安に入った。

312年、劉琨配下の牙門将邢延新興郡ごと漢に降伏し、劉聡に并州攻撃を求めた。これを受けて靳沖卜珝が劉琨の守る晋陽を攻めて包囲したが、3月に代公拓跋猗盧が兵を率いて晋陽救援に到来すると、漢軍は敗れて撤退した。この時期、趙固と王桑が寝返って劉琨に帰順した。

4月、劉曜は晋の司徒傅祗が守る三渚を攻撃し、傅祗の病死に伴い城を落とし、劉曜は2万戸余りを平陽に移住させた。

6月、趙固と王桑は再び漢に帰順しようと思い、劉聡に救援を依頼した。劉聡は梁伏疵を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑配下の臨深牟穆が晋の鄴郡太守劉演に投降した。趙固は梁伏疵と合流して西に向かったが、王桑は漢に帰るのを止めて東の青州に逃走した。趙固は王桑を追撃して曲梁で討ち取り、王桑の残兵は劉演に投降した。劉聡は趙固に洛陽の守備を任せた。

8月、劉易・劉粲・劉曜らが晋陽の劉琨を攻撃すると、劉琨は張喬に防戦させたが返り討ちに遭い、太原太守高喬らは晋陽ごと劉粲に降伏した。劉琨は常山へ撤退し、代王拓跋猗盧へ救援を要請した。劉聡は劉豊に晋陽の守備を任せた。10月、拓跋猗盧は拓跋六脩・拓跋普根らを前鋒とし、自身は20万を統べ後継となり、晋陽へ向かった。劉粲は恐れて逃走し、劉曜は汾東で戦うも大敗を喫した。11月、拓跋猗盧は追撃し、藍谷で劉粲を破った。邢延を始め、劉儒・劉豊・簡令張平といった将が討死し、劉豊が捕縛された。

懐帝は捕虜となった後も丁重に扱われ、特進・左光禄大夫に任じられ、平阿公に封じられた。洛陽陥落の翌年には儀同三司・会稽郡公に封じられ、貴人の劉氏を下賜された。また、懐帝の側近である庾珉らにも官職を与えられた。だが、関中の司馬鄴政権が次第に活発となると、劉聡は懐帝の存在を疎ましく思うようになった。

313年1月、劉聡が懐帝に命じて人々に酒を注がせると、晋の旧臣である庾珉・王儁らは立ち上がって慟哭したため、劉聡は益々不快に思った。この時期、王儁らが劉琨に呼応して反乱を起こそうとしていると密告する者がおり、これを機会に劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。懐帝の崩御を聞くと、司馬鄴は長安で即位した。

長安攻防[編集]

313年6月、劉琨と拓跋猗盧が平陽攻略の為に共同で軍を起こし、7月には劉琨は藍谷に進軍し、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉粲・劉易らが迎撃に当たると、劉琨らは退却した。

劉曜・趙染らが再度長安攻略に向かい、9月には黄白城を守る晋の大都督麹允を幾度も破った。10月に趙染は長安へ奇襲攻撃を掛け、その途上で晋軍を渭陽で破り将軍王広を討ち取った。夜に乗じて長安外城に入ると、愍帝は射鴈楼に逃れた。趙染は晋軍の諸陣営を焼き払い、明け方に軍を返した。麹鑒は追撃を掛けるも、零武で劉曜が待ち構えて大いに破った。だが、劉曜は勝利に驕って備えを設けておらず、11月に麹允が兵を率いて奇襲すると、大敗を喫して喬智明が戦死し、劉曜は平陽に帰還した。

劉曜は河南尹に出兵して石梁魏浚を包囲した。劉演と河内太守の郭黙が救援したが、劉曜は黄河の北でこれを破り、逃走を図った魏浚を捕えて殺害した。

314年5月、劉曜と趙染が三度目の長安攻略に向かった。索綝が兵を率いて迎え撃つと、趙染は敵を軽んじており大敗を喫した。趙染らは体制を立て直して馮翊に進むと、迎え撃ってきた雍州刺史麹允を撃退したが、その夜に麹允が夜襲を掛けると、将軍の殷凱が敗死した。劉曜は軍を戻して懐城の郭黙を包囲すると、食糧が尽きた郭黙は妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。漢軍が郭黙に食糧を提供すると、郭黙は再び城門を閉じて城を守ったので、激怒した劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めて攻撃を再開した。だが、劉琨配下の張肇鮮卑500騎余りを率いて到来し、さらに劉聡からも撤退命令が下されると、劉曜は蒲坂に兵を戻した。趙染は単独で北地を攻めたが、城を攻める最中、矢に当たって戦死した。

同月、劉聡は劉粲を丞相・領大将軍・録尚書事に任じて晋王に進封した。

314年11月、劉聡は建元と改元した。また、劉粲を相国に進めた。

315年8月、劉曜が盟津を渡って河南を攻撃すると、晋の将軍魏該は逃亡した。劉曜は進軍して滎陽李矩を攻め、李矩は将軍李平を成皋に派遣したが劉曜はこれを滅ぼした。李矩は恐れを抱いて人質を送って降伏を請うた。劉曜はその後、四度目の長安攻撃を行ったが、幾度も晋軍に敗れたので軍を引いて帰還した。劉曜は上党に軍を進めて郭邁を討った。

西晋滅亡[編集]

315年10月、劉曜は五度目の長安攻撃の為に軍を進め、粟邑に駐屯した。麹允が迎撃に出たが、餓えが酷かったので軍を退いて霊武に入った。劉曜が上郡を攻めると太守張禹と馮翊太守梁粛は逃走し、関右の地はみな劉曜に応じ、劉曜は軍を進めて黄阜に拠った。316年7月、北地での飢饉が悪化して人々は互いに食い合うまでとなった。劉曜が北地太守の麹昌を包囲すると、羌族酋長は物資・兵糧を麹昌に供給したが、劉雅がこれを破った。麹允は北地に向かったが、劉曜がこれを破り、追撃を掛けると磻石谷で再び破った。麹允は再び霊武に戻り、劉曜は北地を占領した。劉曜はさらに涇陽に進んで渭北の諸城を陥落させた。8月、安定太守の焦嵩等が長安救援に向かい、散騎常侍の華輯が京兆を始め4郡の兵を監督して壩上に駐軍したが、漢軍を恐れて前進を止めた。相国の司馬保は胡嵩を長安に向かわせ、霊台で劉曜を破ったが、胡嵩は麹允や索綝と対立していたので、攻撃を止めて槐里に戻った。劉曜は長安外城を攻め落とすと、麹允と索綝は小城に撤退した。長安城は内外が遮断され、食糧が尽き、多数の死者が出た。11月、愍帝は遂に降伏を決意し、侍中宋敞を遣わして劉曜に書状を送った。愍帝は羊車に乗り、降伏の礼を整えて出降した。愍帝が平陽へやって来ると、劉聡は光禄大夫車騎将軍に任じ、懐安侯に封じた。劉粲に命じて太廟(劉淵の墓)に報告させ、麟嘉と改元した。

317年1月、漢軍が長安から東に兵を派遣して弘農郡を攻撃した。太守の宋哲江東に逃走した。

劉聡の従弟劉暢が晋の滎陽太守李矩を攻撃すると、李矩は偽って劉暢に降伏した。劉暢は喜んで宴会を開くと、李矩配下の郭誦が夜襲を仕掛け、劉暢は敗走した。317年8月、趙固が臨潁を攻略して晋の衛将軍華薈を殺害した。だが、長史の周振と対立したため晋に降り、李矩の命により洛陽を守った。

趙固・郭黙が河東を攻めると、劉勲が迎撃して趙固らを破った。劉頡はこれを追撃したが、返り討ちに遭った。劉粲と劉雅らは趙固の守る洛陽を攻撃し、趙固は陽城山へ撤退した。318年3月、李矩が郭黙・郭誦に命じて趙固を救援させ、耿稚らを密かに渡河させて劉粲を襲った。劉翼光がこれを察知して劉粲に告げたが、劉粲は備えなかった。この夜、耿稚らは劉粲の軍を襲って破り、劉粲は陽郷に撤退した。劉雅が救援に駆けつけ、砦外に陣営を設けて耿稚と対峙した。劉聡は劉粲の敗北を聞くと范隆を救援の為に派遣し、耿稚らは恐れて包囲を突破して北山に逃走した。劉勲がこれを追撃し、河陽で戦って耿稚軍を大破した。

317年10月に劉聡は上林で猟を行うと、愍帝に戎服を着用させて戟を持たせ、隊列を先導させて見世物にした。晋の旧臣はそれを見て嘆き悲しんだ。劉粲は劉聡へ、愍帝を殺して敵対勢力の士気を削ぐよう勧めたが、劉聡はむしろ反乱を招く恐れがあるとして同意しなかった。その後、劉聡が光極殿に群臣を集めて宴を開くと、愍帝に酒を注がせたり、杯を洗うよう命じた。また、劉聡が厠に入った時は、蓋をとるよう命じた。その姿を見て晋の旧臣が慟哭し、尚書郎辛賓は愍帝を抱きかかえた。劉聡は怒って辛賓を処刑した。晋の残党勢力が愍帝奪還を掲げて活発になると、劉聡は不快になった。劉粲が愍帝殺害を進言すると、遂に劉聡は愍帝を処刑した。

劉聡暴政[編集]

劉聡は即位当初から女色に耽て忠臣を殺害する等、暴君の振る舞いが見られた。後宮に籠って政務を顧みなくなると、国事は全て中黄門が執り行い、左貴嬪の劉英が認可した。次第に暴虐な振る舞いも増え、左都水使者劉攄は食膳に魚蟹を供出しなかったという理由で死罪となり、将作大匠靳陵は宮殿を完成させるのが遅かったという理由で斬られた。また、遊猟にはも節度がなく、朝早く出かけて夜遅く帰るような日が続いた。中軍の王彰が諫めると、劉聡は激怒して処刑しようとしたが、諸公卿列侯100人余りが諫めたのでこれを許した。313年3月には皇后劉娥のために宮殿の建造を始めたが、この時期には飢饉疾疫が重なっており、また外征を繰り返して兵は疲弊していたので、廷尉陳元達が難く諫めた。劉聡は激怒して陳元達を妻子共々処刑しようとすると、劉易・朱紀らは叩頭してこれを諫め、劉娥は劉聡へ「死して陛下の行き過ぎをお止め致します」という手紙を送ったので、過ちに気づいて陳元達らに謝罪した。

315年中頃より宦官王沈郭猗らが朝政を仕切るようになり、功績のある旧臣が賞されず、奸佞の小人二千石の官に至ることもあった。王沈らは宦官と対立する人物を劉聡へ讒言し、劉聡はこれを信じて全て誅殺した。卜幹は涙を流してその行いを諫めたが、劉聡は聞き入れずに庶人に落とした。劉聡は皇后劉娥が亡くなると女漁りがさらに激しくなり、何人もの皇后が同時に立てられるようになった。王沈らの専横が激しくなると、陳元達と劉易らは王沈らの官を免じるよう上表したが、劉聡はこの上表を無視した。劉易が再び上疏して王沈らを弾劾すると、劉聡は大怒して上表文を破り、劉易は怒りの余り死去した。陳元達は大いに悲しみ、家に戻ると自殺した。さらに朝廷の内外の綱紀が緩んで賄賂が横行するようになり、劉敷は何度も泣いて劉聡に改める様求めたが、却って劉聡の怒りを買い、劉敷は憂いと憤りのあまり病を発して亡くなった。劉聡が王沈の養女を左皇后に立てると、王鑒・崔懿之らはこれに反対したので、劉聡は激怒して王鑒らを捕らえた。王延が急行して劉聡を諫めようとしたが、王沈は構わずに彼らを処刑した。

劉聡の末弟は劉乂と言い、世子の劉粲を差し置いて皇太弟となっていた。外戚の靳準や宦官の王沈・郭猗は劉乂と対立しており、彼を排除して劉粲の擁立を密かに目論んだ。郭猗は劉粲へ、劉乂が造反するつもりであると偽りの発言を行い、劉粲の部下王皮劉惇もこれに加担して郭猗に同調したので劉粲は信用した。さらに、靳準は劉粲へ向けて、劉乂を誅殺して皇太子になることを勧め、劉粲は同意した。317年3月に劉粲は劉乂へ、都に異変が起ころうとしていると偽りの発言をした。劉乂はこれを信じて宮臣に命じて武具を集めさせた。靳準は劉乂が謀反を為そうとしていると劉聡に報告すると、劉聡は大いに驚くも半信半疑であったが、王沈らが声を揃えて話すので遂に信用した。劉粲は東宮を包囲すると、王沈・靳準に命じての酋長10人余りを捕えて拷問に掛け、劉乂と共に反逆を謀ったと嘘の自白をさせた。また、劉乂の側近数10人を誅殺した。劉聡はこの一件で王沈らを深く信頼し、その忠節を称えた。4月、劉乂は皇太弟から廃され、間もなく劉粲の命により靳準が刺客を放ち、殺害された。 劉乂が死んだと聞くと劉聡は慟哭した。東宮の兵1万5000人余りは連座して生き埋めとなり、平陽の町は空虚となった。また、氐・羌の10万部落余りが反乱を起こしたので、靳準が討伐した。7月、劉粲を皇太子に立て、相国・大単于に任じ、以前通りに朝政を統括させた。

318年夏、平陽の螽斯則百堂で火災が発生し、劉聡の子である会稽王劉衷以下21人が焼死した。劉聡はこれを聞いて悲しみのあまり気絶した。7月、劉聡は病に倒れると、劉曜を丞相に、石勒を大将軍に任じ、遺詔を与えて政治の補佐を命じた。間もなく劉聡が亡くなると、子の劉粲が即位し、漢昌と改元した。劉聡を宣光陵に埋葬し、諡は昭武皇帝、廟号は烈宗とした。

劉曜の時代[編集]

靳準の乱[編集]

劉粲は皇太后らを後宮に入れると、日々歓楽に耽って劉聡への哀傷の姿を見せず、服喪の礼を行わなかった。318年8月、外戚の靳準は異謀を抱いて劉粲へ向け、諸卿が劉驥を君主に立てようとしている、と偽りの進言をした。さらに、二人の靳夫人(靳皇太后と靳皇后)もこれに同調したので、劉粲は信用して劉驥・劉景劉顗劉逞劉勱らを捕らえると、全員処刑した。朱紀・范隆は長安へ逃走して劉曜を頼った。劉粲は酒に溺れて後宮に入りびたりとなり、靳準を大将軍・録尚書事に任じて政務・軍務問わず一切を任せ、靳準は劉粲の命だと偽り、自らの親族を将軍に任じた。靳準は機を見計らって決起すると、劉粲を捕えて処刑した。劉粲は隠帝と諡された。靳準は劉氏を老若男女問わず全て斬首し、永光・宣光の二陵(劉淵と劉聡の墓)を掘り返して宗廟を焼き払った。靳準は大将軍・漢天王を名乗り、百官を任命した。これにより、漢は一旦滅亡した。

靳準は東晋の司州刺史李矩へ使者を派遣し東晋に帰順する旨を伝えた。北宮純らは靳準に反発し、漢族を集めて東宮を守ったが、靳康がこれを攻略して皆殺しにした。劉曜が靳準の謀反を知ると、長安から平陽に向かい、石勒も靳準討伐を掲げて襄陵北原に駐軍した。靳準は石勒を攻撃したが、石勒は守りを固めて靳準の鋭気を削いだ。10月、劉曜が河東の赤壁に至ると、呼延晏ら漢の重臣は劉曜に即位するよう勧めた。これを受けて劉曜は皇帝の位に即いた。石勒が平陽を攻撃すると、巴族・羌族・羯族の人々が石勒に帰順し、石勒の動きに呼応して劉曜は劉雅、劉策を汾陰に駐軍させ、共に靳準を討つよう命じた。11月、靳準は侍中卜泰を派遣して石勒に和を請うたが、石勒は卜泰を捕えると劉曜に送った。劉曜は卜泰へ、靳準がもし降伏するならば全てを許して政事を任せると伝えた。卜泰は平陽に帰って事の次第を報告したが、靳準は劉氏の一族を皆殺しにしたため、投降を躊躇った。12月、喬泰王騰・靳康らは、靳準を見限って殺害すると、靳明を新たな主君に立てた。靳明らは卜泰を再び劉曜の陣営に送り、伝国璽を返上して帰順を求めたので、劉曜は劉雅らに靳明を迎え入れさせるよう命じ、靳明は平陽の士女を率いて帰順した。劉曜が平陽に入ると、靳氏一族を許さず、老若男女問わず皆殺しにした。

国家再興[編集]

石勒は漢の有力な武将であったが、の地の攻略を任されると各地を併呑して徐々に勢力を拡大した。その後も漢の大将軍王弥を殺害してその軍を吸収し、さらにの地に割拠していた曹嶷を滅ぼすなど、劉聡ですら手出し出来ない程の勢力を有するようになった。劉聡は常に石勒を危険視していたが、その反乱を恐れて315年9月には皇帝に代わって軍事を司り、刺史・将軍・郡県長を任命し、列侯を封じる権利を与えるなど、特別待遇を受けていた。

319年、石勒は左長史の王脩を派遣し、劉曜に靳氏討伐の戦勝報告を行った。劉曜は石勒を太宰・領大将軍に任じ、趙王に封じて皇帝と同等の特権を与えた。これらの旨を伝えるため、司徒郭汜を石勒の下へ派遣した。

だが、王脩の舍人である曹平楽が劉曜へ、石勒に謀反の意志があると伝えると、劉曜はこれを信じ、詔を中止して郭汜を呼び戻し、王脩を処刑した。襄国に帰還した石勒がこの事を知ると、激怒して自立を決心した。

漢の都は平陽だったが、靳準の乱により荒廃した為、劉曜は長安に遷都した。また、子の劉煕を皇太子に立てた。劉曜は国号を改める事を宣言し、劉曜自身がかつて中山王に封じられており、中山は趙から分かたれた地である為、国号は趙とした。11月、石勒は諸将の求めに従い、趙王の位に即いて劉曜から離反した。これにより、趙を国号とする国が同時に二つ並び立つこととなった。史書では両者を区別する為、劉曜が再興した国を前趙(劉曜以前の時代も遡って前趙と呼称される)、石勒の建てた国を後趙と称する。

秦隴平定[編集]

319年末、屠各の路松多が、新平扶風で挙兵し、晋王司馬保に帰順した。司馬保は楊曼王連陳倉を、張顗周庸陰密を守らせた。路松多が草壁に拠ると、秦隴の氐・羌の多くが、路松多に呼応した。劉雅と劉厚は陳倉の楊曼を攻撃したが、20日経っても勝てなかったので、劉曜は自ら軍を率いて加勢に向かった。320年1月、劉曜が陳倉を攻めると、楊曼と王連は全軍で城を背にして陣を布いたが、劉曜はこれを撃破して王連を討ち取り、楊曼を南氐に敗走させた。劉曜は続けざまに草壁に進攻し、これを陥落させて路松多を敗走させた。劉曜はさらに安定を陥落させると、司馬保は恐れて桑城に退いた。劉曜は軍を引いて長安に戻った。

東晋の司州刺史李矩により金墉(洛陽城内の西北の角にある小城)が攻め落とされると、前趙の宋始尹安らは寝返って洛陽ごと石勒に降伏した。劉岳が洛陽奪還に向かったが、三軍に疫病が流行ったので進軍を取りやめた。石勒は石生を派遣して宋始らを捕らえて帰還した。

5月、張春楊次が司馬保を捕えて殺害し、司馬瞻を後継に立てた。漢に降伏した秦州刺史陳安は、かつて司馬保に仕えていた為、劉曜に司馬瞻討伐を請い、劉曜は陳安を大将軍に任じた。陳安は司馬瞻を攻撃して殺した。

6月、前趙の尹車解虎が謀反を画策し、密かに巴氐族の酋長句徐厙彭らと計画を進めた。だが、事が露見すると尹車らは誅殺され、句徐・厙彭を始め巴氐族50人余りも処刑された。巴氐族の酋長句渠知は劉曜への復讐を掲げて挙兵し、国号を大秦として自立した。周辺の氐・羌・巴・30万人以上がこれに呼応すると、関中は大混乱に陥った。劉曜は游子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事に任じ、乱の平定を任せた。游子遠が雍城に入ると10万を超える人が帰順し、さらに安定に軍を進めると氐・羌もこぞって降伏した。句渠知は陰密に拠って対抗したが、游子遠は瞬く間に攻め滅ぼして陰密を平定した。

上郡の酋長虚除権渠は、氐・羌10万家余りを纏め上げると、秦王を名乗った。游子遠が虚除権渠の砦に迫ると、迎撃に出た虚除権渠を5度に渡って破った。虚除権渠は戦意喪失したが、子の虚除伊余は軍を率いて游子遠の砦門に到達した。諸将は迎撃を主張したが、游子遠は守りを固めた。敵軍の弱気な姿勢を見た虚除伊余は、警戒を怠るようになった。游子遠はこれを知ると奇襲を掛け、虚除伊余の兵を大いに破った。游子遠は虚除伊余を生け捕りにし、その将兵を尽く捕虜とすると、虚除権渠は游子遠に投降した。虚除権渠が降伏すると、全ての西戎が前趙に服属し、大乱は平定された。

陳安討伐[編集]

322年2月、劉曜は親征して仇池楊難敵を攻撃した。楊難敵は兵を率いて迎え撃ったが、劉曜軍の前鋒がこれを蹴散らした。楊難敵は仇池に撤退し、仇池の諸氐・羌は劉曜に降伏した。劉曜はそのまま西に軍を進め、かつて晋王司馬保に仕えていた南安の楊韜に攻撃を掛けると、楊韜は恐れて隴西太守梁勲と共に降伏した。劉曜は隴西の1万戸余りを長安に移した。劉曜はさらに仇池へ進撃したが、前趙軍で疫病が流行り、劉曜も病にかかったため、やむなく撤兵した。劉曜は背後を突かれることを恐れ、楊難敵に帰順を誘うと、楊難敵は前趙の藩臣になることを約束した。劉曜は楊難敵に官爵を送り、武都王に封じた。

秦州刺史陳安は劉曜に謁見しようとしたが、劉曜は病のため拒否した。これに陳安は怒り、略奪をして引き返した。劉曜は病が重く輿で長安に帰り、配下の呼延寔に輜重部隊を任せて後方に置いた。陳安は精騎兵を率いてこれを襲撃し、呼延寔を捕えて輜重を奪った。陳安は呼延寔を殺し、呼延寔の長史魯憑を参軍にした。陳安は陳集魯集に前趙軍を追撃させたが、前趙の衛将軍呼延瑜が迎撃して陳集らを斬り、その兵を捕虜とした。陳安は恐れて上邽に帰った。陳安配下の劉烈趙罕が汧城を攻め落とし、隴上の氐や羌は尽くが陳安に帰順し、陳安は10万余りの兵を擁するようになり、涼王を自称した。

匈奴の休屠王石武が桑城を挙げて前趙に降ると、劉曜は石武を酒泉王に封じた。

323年6月、陳安は南安に進軍し、前趙の劉貢を包囲攻撃した。石武は桑城から出撃し、陳安の根拠地である上邽を攻撃した。陳安は背後を突かれる事を恐れ、南安の包囲を解いて上邽に戻った。陳安と石武は瓜田で会戦したが、石武は兵が少なかった為、撤退して張春の旧砦に拠った。陳安は軍を率いて石武を追撃すると、石武は砦の守りを固めて陳安を防いだ。劉貢が陳安の後軍に攻撃を掛け、これを破った。陳安は軍を返して後軍の救援に向かったが、返り討ちに遭った。さらに石武が到来すると、陳安は挟み撃ちに遭って大いに潰走し、隴城に逃げた。劉貢は石武に後方の軍を監督させると、自ら兵を率いて陳安を再び破り、遂に隴城を包囲した。7月、劉曜は自ら親征して陳安の征伐に乗り出し、隴城の包囲に加わると、別働隊に上邽を包囲させた。劉曜は陳安を数度に渡って破った。劉幹が平襄を陥落させると、隴上の諸県は尽く降伏した。陳安は将軍の楊伯支らに隴城を守らせると、自ら出撃して包囲陣を突破した。陳安は南の陝中へと奔ると、劉曜は将軍の平先丘中伯らを陳安の追撃に向かわせた。平先軍は何度も陳安軍に攻撃を加えると、陳安は陝中で決戦を挑んだ。平先は陳安に接近すると、一騎打ちを仕掛け、3合斬り合って陳安の蛇矛を奪い取った。陳安は馬を捨てると、側近5、6人と共に山嶺を越え、渓谷に身を潜めた。翌日に劉曜は山狩りを行ったが、所在を掴めなかった。さらに翌日、呼延青人は捜索を再開すると、陳安を山谷で発見してその場で斬り殺した。陳安の死を知った楊伯支は隴城ごと前趙に降伏した。別将の宋亭は上邽の守将である趙募を斬って降伏した。氐族や羌族も尽く人質を送って前趙に帰順した。

仇池の楊難敵は陳安が滅ぼされたと聞くと、前趙の襲来を恐れて弟の楊堅頭と共に南下して漢中に奔った。鎮西将軍の劉厚がこれを追撃し、輜重1000両余りを奪い、士女6000人余りを捕え、仇池に戻らせた。劉曜は大鴻臚田嵩を鎮南大将軍・益州刺史に任じ、仇池を守らせた。だが、翌々年の春に楊難敵は漢中から仇池へ侵攻し、これを陥落させて田嵩を斬り殺した。

内政[編集]

劉曜は儒学を貴んで儒教教育の復興を推進しており、太学を長楽宮の東に建て、小学を未央宮の西に建てた。教育に適した者を選んで入学させ、儒学に通じ、経に明るく学に篤い者に教授させた。また、宮殿や陵墓の建造を行ったが、民衆には過酷な役務となったので侍中喬豫和苞が諫めた。劉曜は過ちを認めて全ての宮室建設を中止し、寿陵の規模を縮小した。また、劉曜は皇室の養魚区を貧民に開放した。

322年には、劉曜は無官の人が許しなく乗馬する事、俸禄800石以上の婦女が錦繍の衣を着る事、晩秋から農耕が終わるまでの時期に飲酒する事、宗廟や社稷の祭り以外で牛を殺すことを全て禁じた。これらの禁令を違反した人は、みな死刑になった。また、劉曜は太学に臨み、試験の成績が優秀な者を郎中に取り立てた。孤児・老人・貧乏・病気の者で、生活出来ないほど苦しい者に、それぞれ帛を下賜した。

また、劉曜は公卿に命じ、博識であり自分に直言できる人物を一人ずつ推挙させ、災変の禍や政治の欠について詳しく述べさせ、その誤ちを正した。

同年12月には劉曜は父と妻の葬儀の為に粟邑に赴き、墳墓を作らせた。昼夜休まず工事が続けられ、民衆は労役に苦しんだ。游子遠はこれを諫めたが、劉曜は聞き入れなかった。この時期、疫病が蔓延して10人のうち3、4人が死んだ。大雨が続いて大きなつむじ風が吹くと、父の寝堂が吹き飛んだ。これを聞いた劉曜は喪服を着て5日間の哭礼を行ない、劉襲や梁胥らに父の陵墓を修繕させた。この為、松柏や衆木は尽く使われ、全て無くなった。

劉曜の次子は劉胤と言い、靳準の乱の際に行方不明となっていたが、陳安を敗った時期に長安に帰還した。劉曜は劉胤に期待を掛けており、劉煕を廃して劉胤を新たに皇太子に立てる事を宣言した。太傅の呼延晏らは皆賛成したが、左光禄の卜泰・太子太保の韓広は猛反対し、劉胤は涙ながらに自らを劉煕の補佐に回してもらうよう求めた。結局廃立は取り止めとなり、劉胤を永安王に封じて皇子と号すると、劉煕には劉胤へ家人の礼を尽くすよう命じた。翌々年には劉胤を大司馬に任じ、南陽王に進封させた。

後趙との争い[編集]

324年1月、後趙の司州刺史石生が新安を攻め、河南太守の尹平を殺した。ここから両国の戦いが始まり、河東、弘農一帯の戦禍が絶えなくなり、民が苦難に陥った。

325年3月、北羌王の盆句除は劉曜の傘下に入った。後趙の将軍石他が、上郡へと侵入して盆句除に攻撃し、民と物資を強奪して去った。劉曜は激怒し、この日の内に渭城まで軍を進めて劉岳に追撃を命じ、劉曜自らは富平に進軍して劉岳を援護した。劉岳は石他軍と河濱で戦い、大勝を収めて石他を討ち取った。劉岳は捕虜や家畜を悉く奪還し、帰還した。

5月、後趙の石生が洛陽へ駐屯し、河南を荒らし回った。李矩・郭黙は迎撃したが度々敗北し、兵糧が欠乏したこともあり、前趙へ降伏の使者を派遣して救援を求めた。劉曜は劉岳を盟津から渡河させ、呼延謨を崤澠から東へ進軍させた。劉岳は盟津、石梁の二砦を攻め落とすと、さらに金墉へ進んで石生を包囲した。中山公石虎が成皋関から救援に向かうと、劉岳は陣を布いて待ち受けた。両軍は洛西で衝突したが、劉岳軍は押し込まれ劣勢となり、石梁まで退き下がった。優位に立った石虎は劉岳軍を包囲して外からの救援も遮断した。包囲された劉岳軍は兵糧が底を突き、馬を殺して飢えを凌いだ。さらに石虎は呼延謨を破ってその首級を挙げた。劉曜は自ら軍を率いて劉岳の救援に向かうと、劉黒が石虎配下の石聡を八特坂で撃破した。劉曜は金谷まで軍を進めたが、その夜に突如として兵士たちは石虎を恐れて動揺し、散り散りに逃亡してしまい、劉曜は澠池まで退き下がった。しかし夜になると再び士卒が恐怖に駆られ逃げ出したので、仕方なく長安に戻った。6月には劉岳を始めとして、部下の王騰ら80人余りが石虎によって生け捕りにされ、襄国へと護送されて生き埋めにされた。 劉曜は怒りの余り発病した。郭黙は妻子を棄てて建康へ逃走し、李矩は郭誦らを従えて、魯陽まで退いた。 司州、豫州、徐州、兗州は全て後趙の領土となった。

河南制圧[編集]

涼州には前涼の張駿が割拠していたが、323年8月に劉曜は侵攻して西河に布陣し、劉咸に冀城の韓璞を、呼延晏に桑壁の寧羌護軍陰鑒を攻撃させた。張茂は自ら親征して石頭に進み、参軍の陳珍を派遣して南安を奪還したが、最終的には前趙の勢いを恐れて称藩し、劉曜は張茂を涼王に封じて九錫を与えた。

327年、劉曜が後趙に大敗したと聞くと、張駿は劉曜から賜った官爵を撤廃して晋の大将軍・涼州牧を自称し、将軍韓璞・金城太守張閬・武興太守辛岩らに命じて前趙の秦州諸郡を攻略させた。 南陽王劉胤が迎撃に当たり、狄道へ駐屯して枹罕護軍の辛晏を攻撃した。韓璞と辛岩が救援に向かい、沃干嶺に陣取ると、両軍は川を挟んで70日余り睨み合った。10月、韓璞が兵糧を金城へ運ぶよう辛岩へ命じると、劉胤は冠軍将軍の呼延那に輸送路を断たせ、自身は沃干嶺の辛岩を襲撃してこれを破った。そのまま彼等は渡河して韓璞の陣営を強襲した。韓璞軍は総崩れとなり撤退を始め、 劉胤は勝ちに乗じて追撃し、令居で追いつくと2万の首級を挙げた。劉胤軍は振武まで進撃したので、河西地方は震撼した。 取り残された張閬と辛晏は前趙へ降伏した。これによって劉曜は、河南の地を全て支配下に入れた。

洛陽決戦[編集]

328年7月、石勒は石虎に河東を攻撃させた。石虎に呼応したのは50県余りに上り、石虎は易々と蒲坂まで軍を進めた。劉曜は救援軍を派遣しようとしたが、張駿と楊難敵に背後を強襲されるのを恐れ、河間王劉述に氐・羌の兵を与えて両陣営に備えさせた。劉曜は自ら蒲坂救援に向かい、衛関から北へ渡河すると石虎は恐れて退却を始めた。劉曜はこれに追撃を掛け、8月に入ると高候で追いつき、石虎軍を潰滅させて将軍石瞻を斬り、石虎は朝歌に逃げ込んだ。劉曜は一気に進撃して金墉を守る石生に攻撃を仕掛けると、千金堤を決壊させて水攻めにした。11月、石勒は自ら洛陽救援へ出向き、石堪石聡・豫州刺史の桃豹らと滎陽で合流し、石虎は石門まで進軍した。劉曜は滎陽の守備兵を追加して、黄馬関を閉じさせた。12月、後趙の諸軍は成皋関に集結した。石勒は前趙の兵卒が備えをしていないのを見ると、間道から敵へ迫った。この時、劉曜は士兵を労わる事無く、寵臣と共に酒と博打に耽っていた。左右の側近が諫めると、劉曜は怒り心頭となってその場で斬り捨てた。石勒自身が到来したと聞くと、金墉城の包囲を解いて撤退し、洛西の南北10里余りに渡って布陣しなおした。石勒は洛陽へ入城すると、石虎が城北から西進して前趙の中軍を攻撃し、石堪・石聡が城西から北進して前趙の先鋒を攻撃した。石勒自身は洛陽西面の最北の門から突撃し、敵を挟撃した。劉曜は出撃すると西陽門に至ったが、布陣が終わる前に石堪の急襲を受け、完全に虚を突かれた劉曜軍は壊滅し、大敗して5万余りの将兵が戦死した。劉曜はこの時、数斗の酒を飲んで酩酊状態になっており、前後不覚のまま敗走し、馬を御する事もままならなかった。馬が石渠に脚を取られると、劉曜は氷上に叩きつけられ、深手の傷を負った。石堪はこれを捕らえて、石勒の下へと護送した。

劉曜は傷が激しかったので、金瘡医の李永に傷の治療を受けた。石勒は劉曜を襄国へと護送し、を与えられて厳重に周囲を警備された。石勒は劉煕への降伏勧告の書を劉曜に書かせようとしたが、劉曜は「諸大臣と共に社稷を維持せよ」と記した勅書を書いた。石勒がこれを見ると大いに気分を害し、しばらくしてから劉曜を暗殺した。劉曜の在位期間は10年であった。

滅亡[編集]

329年1月、劉曜が捕まった事を知った劉煕は衝撃を受け、劉胤、劉咸らと共に協議し、西の秦州へ遷都することを決めた。 尚書の胡勲はこれに反対したが、劉胤は怒って斬り殺してしまった。そして、劉煕らは百官を率いて上邽へと撤退し、劉厚・劉策は守備を放棄して逃亡した。これにより、関中は騒乱に陥った。将軍の蒋英辛恕は、兵数10万を擁して長安に拠ると、石勒に降伏してその軍を招き入れた。石勒は、石生に洛陽の兵を与え、長安に向かわせた。8月、劉胤と劉遵が石生の守る長安を攻撃すると、石勒は石虎に劉胤を迎え撃たせた。9月、劉胤は石虎軍に破れて上邽へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、上邽を攻め落とした。屍は1000里に渡り、劉煕、劉胤を始め、将王公卿校以下3000人余りが生け捕られ、石虎に皆殺しにされた。石虎は関東の流民、秦雍の豪族9000人余りを襄国へと移し、王公と5郡の屠各5000人余りを、洛陽で生き埋めにした。ここに前趙は前身の漢の建国から26年目に滅亡した。

統治機関[編集]

劉淵は皇帝に即位すると同時に大司馬・大司空・大司徒・相国・御史大夫太尉などの中国王朝官制を整備した。

314年、劉聡の時代には国土の大幅な拡大もあって官職の整理が行なわれ、漢族に対しては左右司隷を設置して20数万戸を統括し、五胡に対しては単于左右輔を置いてそれぞれ10万落を統括させた。これは以前から行われていた次期皇帝予定者を大単于とする制度とともに、五胡と漢族両世界に目を配った二重統治体制あるいは民族分治であり、それまでの中国王朝や遊牧国家には見られない画期的な新体制で以後の王朝のモデルにもなった。しかし劉聡の代になると、漢人名族の劉胤の娘2人と孫娘4人を貴人に取り立て、さらに上左右の3皇后制度を制定し、さらに靳準の娘を上皇后・右皇后に取り立てて後宮の拡大を行ない、遂には3人の皇后の他に皇后の璽綬を持つ者が7人にも及ぶという異常事態となり、かつての前漢・後漢・蜀漢のように外戚や宦官の政治介入を招いて国家の衰亡を招いた。

劉曜の時代には漢の国号を廃してかつての民族性を取り戻すため、冒頓単于を天に配して匈奴民族主義の強化を図った。ただし劉曜は漢人の文化にも理解を示し、大学・小学を建てて儒教を奨励し、国子祭酒・崇文祭酒を設置して漢人文化の吸収にも務めた。

前趙の歴代皇帝[編集]

  1. 高祖光文帝(劉淵、在位:308年 - 310年) - 皇帝と称する。
  2. 梁王/帝和(劉和、在位:310年)
  3. 烈宗昭武帝(劉聡、在位:310年 - 318年
  4. 少主隠帝(劉粲、在位:318年)
  5. 趙主(劉曜、在位:318年 - 329年) - 国号を趙と改める。
  6. 末主(劉煕、在位:329年)

元号[編集]

  1. 元熙304年 - 308年
  2. 永鳳(308年)
  3. 河瑞309年 - 310年
  4. 光興(310年 - 311年
  5. 嘉平(311年 - 315年
  6. 建元(315年 - 316年
  7. 麟嘉(316年 - 318年
  8. 漢昌(318年)
  9. 光初(318年 - 329年

関連項目[編集]

参考文献[編集]