銭カイ

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本来の表記は「銭璯」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

銭 璯(せん かい、? - 310年)は、西晋末から五胡十六国時代の人物。呉興郡の出身。

生涯[編集]

西晋に仕えていた。

305年揚州陳敏の乱がおこると、銭璯は義兵を興して反乱鎮圧に貢献した。これにより、司馬越より建武将軍に任じられた。

310年2月、東海王司馬越の命により、揚州刺史王敦と共に洛陽に召喚された。だが、広陵へ至った折に、漢の軍勢が洛陽に逼迫していると知り、恐れて進めなくなった。朝廷から軍期に従うよう促されると、銭璯は謀反を起こして王敦を殺そうとしたが、王敦は建業に逃走して琅邪王司馬睿に報告した。

銭璯は度支校尉陳豊を殺害して邸閣を焼き払うと、平西将軍を自称して自立した。また、孫晧の子孫充を推戴して呉王に封じたが、すぐに殺害した。呉興郡の陽羨県を攻撃した。司馬睿は将軍郭逸らに討伐を命じた。

3月、丞相倉曹属周玘が郷里の民をかき集めて郭逸に加勢し、銭璯は周玘に敗北して殺された。

参考文献[編集]