陰平郡

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陰平郡(いんぺい-ぐん)は、中国にかつて存在した三国時代から唐代にかけて、現在の甘粛省隴南市一帯に設置された。

概要[編集]

後漢広漢属国を前身とした。広漢属国は益州に属し、陰平道・甸氐道・剛氐道の3城を管轄した[1]

224年建興2年)、蜀漢により広漢属国を改めて陰平郡が立てられた。

が蜀漢を平定して梁州が置かれると、陰平郡は梁州に転属した。

269年泰始5年)、秦州が立てられると、陰平郡は秦州に転属した。西晋のとき、陰平郡は陰平平武の2県を管轄した[2]

永嘉末年、陰平太守の王鑑が粗暴だったため、郡民の毛深や左騰らによって追放され、陰平郡は李雄に降った。陰平郡は陰平・甸氐武平剛氐の4県を管轄した[3]

南朝宋のとき、北陰平郡南陰平郡が立てられた。永初年間、北陰平郡は陰平・綿竹・平武・資中・冑旨の5県を管轄した。464年大明8年)、北陰平郡は梁州に属し、陰平・平武の2県を管轄した。永初年間、南陰平郡は陰平県のみを管轄した。464年、南陰平郡は梁州に属し、陰平・懐旧の2県を管轄した[4]。また北陰平郡は益州に属して陰平・南陽・桓陵・順陽の4県を管轄し、南陰平郡は益州に属して陰平・綿竹の2県を管轄したともいう[5]

南朝斉のとき、北陰平郡は梁州に属し、陰平・平武の2県を管轄した。南陰平郡は梁州に属し、陰平・懐旧の2県を管轄した。また北陰平郡は益州に属して陰平・南陽・北桓陵・扶風・慎陽・京兆・綏帰の7県を管轄し、南陰平郡は益州に属して陰平・綿竹・南鄭・南長楽の4県を管轄したともいう[6]

西魏のとき、尉遅迥の南征により蜀が占領されると、北陰平郡は龍州に転属した。ほどなく北陰平郡は陰平郡と改められた。

北周のとき、陰平郡は静龍郡と改められた。南陰平郡は南陰平県に降格された。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、静龍郡は廃止されて、始州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、始州が普安郡と改称された。普安郡は普安永帰黄安・陰平・梓潼武連臨津の7県を管轄した[7]618年義寧2年)、武都郡曲水県に陰平郡が置かれた。

武徳年間、唐により陰平郡は文州と改められた。742年天宝元年)、文州は陰平郡と改称された。758年乾元元年)、陰平郡は文州と改称され、陰平郡の呼称は姿を消した[8]

脚注[編集]

  1. ^ 後漢書』郡国志五
  2. ^ 晋書』地理志上
  3. ^ 華陽国志』漢中志
  4. ^ 宋書』州郡志三
  5. ^ 宋書』州郡志四
  6. ^ 南斉書』州郡志下
  7. ^ 隋書』地理志上
  8. ^ 旧唐書』地理志四