楊元和

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楊 元和(よう げんか、生没年不詳)は、中国南北朝時代仇池氐首長。武都王。

経歴[編集]

楊保宗の子として生まれた。443年、楊保宗が北魏の河間公拓跋斉に捕らえられると、元和は南朝宋に亡命した[1]455年、南朝宋により征虜将軍の号を受けた。元和は楊氏の正統ではあったが、年少であり、楊文徳の従祖兄の楊頭が有力であったことから、南朝宋の雍州刺史王玄謨は楊頭を武都王とするよう推した。しかし南朝宋の孝武帝は元和を武都王とし、白水を治所とさせた[2]。元和は武都郡や白水郡の太守をつとめた。

後に元和は北魏に帰順し、北魏の文成帝により征南大将軍の号を受け、武都王に封じられ、都の平城に移された[1]

元和の死後、従叔父の楊僧嗣が自ら武都王として立った。

脚注[編集]

  1. ^ a b 魏書』氐伝
  2. ^ 宋書』氐胡伝