衛氏朝鮮

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衛氏朝鮮
衛氏朝鮮
箕子朝鮮 紀元前195年? - 紀元前108年 漢四郡
首都 平壌[1]
朝鮮王(ただし漢帝国からの呼称)
紀元前195 - 紀元前2世紀 初代・衛満
紀元前2世紀 - 紀元前2世紀 第2代(氏名不詳)
紀元前2世紀 - 紀元前108 第3代・衛右渠
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
衛氏朝鮮
朝鮮語表記
ハングル 위만조선
朝鮮の漢字 衛滿朝鮮
日本語読み: えいまんちょうせん
片仮名転写: ウィマンジョソン
ラテン文字転写: RR:Wiman Joseon
MR:Wiman Chosŏn
中国語表記
繁体字 衛滿朝鮮
簡体字 卫满朝鲜
ピンイン Wèimǎn Cháoxiǎn
英語表記
アルファベット Wiman Joseon

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない[2][3]朝鮮半島の最初の国家である。中国に出自を持つ[4]中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。


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-926
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百済

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-936
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統一
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体制[編集]

国名[編集]

「衛氏朝鮮」という名は後世、箕子朝鮮や李氏朝鮮と区別するための便宜上の名である。『史記』は単に「朝鮮」とよぶが、この名も当時すでに国名が不明になっていたので司馬遷が地名を借りて表現したまでで、彼らが自称した国名ではない。

[編集]

三代続いたというが二代めの王の名は不明である。初代の衛満も最後の衛右渠も、「衛」という姓は後世になってからの情報で、『史記』には単に「満」「右渠」としかない。衛氏朝鮮の他の貴族たちの場合は姓名がはっきりしているので、これらは名ではなく官職名とも考えられる。『史記』の年表では右渠の息子の長(衛長降)を「張路」としており、これが正しければ王家の姓は衛氏ではなく張氏だったことになる。

官制[編集]

衛氏朝鮮の国家組織は、ある程度整っていたらしく、朝鮮王のもとに「稗王」「太子」がおり、「大夫」「大臣」「」「将軍」が合議して国家運営にあたり、「博士」なども任命された[5]。王の下に、「大臣」「将軍」及び複数の「相」がいた。「相」の中には「朝鮮相」と「尼谿相」がいたので他の「相」も「○○相」の略称と思われる。合議メンバー4人組の朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相、将軍王唊の4人の素性から、路人と韓陰は「朝鮮相」で、王唊は朝鮮の将軍であり、政治軍事を分担していた[6]。韓陰と王唊は、の姓氏から、中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物であり、路人も中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物だった[7]。参は、1人だけ姓氏を持たず、「朝鮮相」ではなく、在地の根拠地の尼谿の「相」であり、衛氏朝鮮はこれら含みながら、緩やかに連携した連合国家だった[8]

沿革[編集]

前史[編集]

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[9]紀元前334年の段階ではすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有[10]していた。紀元前284年は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。また、中国商人の権益を保護していた[11]代(燕がに滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった[12]。秦末(紀元前209年)、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり[13]、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた[14]紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる[15]。その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった[16]

建国[編集]

史記』によれば、前漢高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(現在の鴨緑江)を渡河、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命した[17]。さっそく衛満は、我ら亡命者朝鮮を護ると箕子朝鮮王準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った[18]の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていた[19]。さらに衛満はからの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、ある時、衛満は芝居をうった[20]前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で、王都に乗りこんだのである[21]。その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と戦況を記した。芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である[22]。衛満は、中国人(燕・の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就き、衛満朝鮮を建国した[23]。『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(→箕子朝鮮)が[24]、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となった。

全盛[編集]

漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ[25]

滅亡[編集]

3伝して孫の衛右渠に至る。は、衛右渠が一度も呼び出しに応じない、周辺諸国を規制していることを詰問したが[26]、それでも衛右渠は漢の意の従わず、武帝は朝鮮を帰服させるため(実は匈奴を牽制するためともいわれ、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしたとき、これを「匈奴の左を断った」とする評があった[27])、紀元前109年-紀元前108年、遠征を行う。合議メンバーの朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相、将軍王唊の4人うち亡命者或いは亡命者ゆかりの人物の路人韓陰王唊衛右渠を残したまま降伏した[28]だけは抗戦するが、翌年衛右渠を刺客に殺させ、降伏した。衛右渠殺害後も大臣らが抗戦していたが、前漢は、すでに降伏していた衛右渠の子の衛長降と路人の子のを差し向け、大臣を殺して降伏させた[29]。衛氏朝鮮は滅ぼされ、故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ漢の領土となった。『史記』朝鮮伝は、「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記した[30]。『史記』孝武本紀には、「朝鮮を伐つ」とある[31]

韓国・北朝鮮での捉え方[編集]

論点[編集]

韓国北朝鮮ナショナリストは、朝鮮史における最初の国家が、中国)人である衛満によって建国された中国系の国家であることは、朝鮮の歴史が中国の支配から始まったかのように暗示されるため、衛満のを「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降であること、衛満が朝鮮に入国する際に朝鮮のを着ていたことを理由に、衛満はもともとは古朝鮮出身でありながら、に移住して、で暮らしていた「朝鮮人」と「偽装」している[32]朝鮮史の歴史的舞台である中国東北から朝鮮半島が、中国大陸と直接的に接している以上、朝鮮史は中国大陸諸情勢の影響を受けるのだが、中国人の朝鮮半島への流入、中国による朝鮮直接支配など、中国による朝鮮史への関与をどう位置づけ、教科書で論述するかは教科書を編纂するなかで大きな問題だったと考えられる[33]。衛氏朝鮮の建国者である衛満は『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、箕子と同様に教科書にどう位置付けるか、ということが問題であったと考えられる[34]

韓国の教科書における衛氏朝鮮[編集]

古朝鮮とは、14世紀以後の李氏の朝鮮王朝に対して呼ぶもので、檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮をまとめた呼称である。ただし、檀君朝鮮・箕子朝鮮は、神話伝説の時代であり、具体的な歴史事実は明らかではない。その点でいえば、衛氏朝鮮から、歴史が始まることになる」というような理解が通説であるが[35]、韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として壇君神話を紹介している[36]。このように檀君についての記述が小学『社会』からみられるのに対して、朝鮮最初の国家であるにもかかわらず、小学『社会』には衛氏朝鮮に関する記述はみられず、中学『国史』以降で論述される[37]。檀君朝鮮が小学『社会』から論述されるのに対して衛氏朝鮮が小学『社会』にみられないことから、同じ古朝鮮でも、檀君朝鮮の方が衛氏朝鮮よりも学習上重要視されている[38]

燕地域から部下を率いて古朝鮮にやってきた —  中学『国史』 (1996年)

衛満の古朝鮮は檀君の古朝鮮を継承したものといえる —  高校『国史』 & 学習の手助け 衛満朝鮮の意味 (1996年)

高校『国史』では、衛満が中国から朝鮮に来た人物としつつも、「学習の手助け 衛満朝鮮の意味」という項目を設けて、衛満が朝鮮のを着ていたこと、国号を朝鮮にしたこと、土着民が政権の中枢に存在したことをわざわざ論述する[39]。わざわざ服装や国号、土着民の存在など朝鮮系要素を強調するかのごとく論述されるのは、衛満が中国)人であること[40]、小学『社会』において、檀君についての記述がみえるものの、衛満に関する記述がないのも衛満が中国)人であることと無関係ではない[41]

40年代-60年代にかけて崔南善が執筆した教科書は、衛満は、本来「朝鮮人」であったが、に居住していて、再度朝鮮に戻り王になったと記述している[42]。衛満を「朝鮮人」に「偽装」することで、衛氏朝鮮を教科書に位置付けようとする[43]

西方から二千百年ほど前に長らく中国で暮らし、中国人の性格をよく知る衛満という人物が戻ってきたので、朝鮮では中国人に関する問題を彼に担当させた —  崔南善『中等国史』 (1947年)

燕に行き役人となっていた —  崔南善『高等国史』 (1957年)

長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る —  崔南善『国史』 (1962年)

60年代になると、衛満が中国)人であることを完全には否定しないが、教科書に中国)人である衛満の活動を記述することに対する配慮から、衛満の出自を具体的に燕人と記さない記述がみえてくる[44]

長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る —  『わが国の文化史』 (1965年)

こうした理解と関わり、90年代に編纂された国史編纂委員会高校『国史』註では、衛満が朝鮮に入国する際に、を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定している[45]。これらは40年代-60年代崔南善の主張と酷似している[46]

燕に居住していた朝鮮人とおもわれる —  国史編纂委員会『国史』 (1996年)

教科書における衛満・衛氏朝鮮に関する記述は檀君・檀君朝鮮に関する記述に比して全体的に少ないのである。このことは、教科書執筆者たちが、事実上衛満を「朝鮮人」に「偽装」することができなかったことを示唆している[47]

韓国の教科書における燕人の変遷[編集]

準王の時にはやく帰化し西部国境に勢力を置いていた燕人衛満が国を開いた —  震檀学会『国史教本』 (1946年)

西方から2100年前に長らく支那に入っていて支那人の性質をよく知っていた衛満 —  崔南善『中等国史』 (1947年)

前194に燕人衛満が侵入 衛満朝鮮が成立 —  申奭鎬『中等国史』 (1948年)

衛満は燕人、朝鮮に亡命したと記す[48]

衛満は燕から亡命 —  金痒基『高等国史』 (1957年)

燕に行き官吏となっていた —  崔南善『高等国史』 (1957年)

漢から亡命して帰化 —  曺佐鎬『中等国史』 (1959年)

燕人の衛満 —  歴史教育研究会『中等国史』 (1960年)

長期間燕に居住し中国人をよく知る衛満が朝鮮に戻ってくる —  崔南善『国史』 (1962年)

衛満=朝鮮人で燕国に居住していた人物と記す[49]

前194年に燕人の衛満が古朝鮮と濊貊・真番・臨屯を滅ぼし、衛満朝鮮を建国 —  申奭鎬『中学国史』 (1965年)

衛満が逃亡してきて、朝鮮の王となった —  『高等国史 わが国文化史』 (1965年)

衛満が燕人であることは記さない[50]

衛満が中国から亡命してきた人々を率いて古朝鮮を滅亡させた —  金痒基『国史』 (1967年)

衛満が燕人であることは記さない[51]

衛満朝鮮 中国から亡命してきた人物 —  歴史教育研究会『高等国史』 (1967年)

衛満が前2世紀に政権奪取 —  『高等 最新国史』 (1968年)

衛満が燕人であることは記さない[52]

衛満が朝鮮に帰化 —  申奭鎬『高等 国史』 (1969年)

衛満が建国(前194年) —  閔泳珪『高等 国史』 (1969年)

衛満が燕人であることは記さない[53]

大陸から多数の漢人が朝鮮半島に流入、衛満もまたその一人 —  歴史教育研究会『高等 国史』 (1972年)

斉・燕からの亡命人が朝鮮に入る 衛満もその一人 —  李丙燾『高等 国史』 (1972年)

直接的な表現ではないが、衛満を燕人とする[54]

遼東からきた衛満が政権を奪取 —  李弘稙『高等 国史』 (1973年)

衛満が燕人であることは記さない[55]

遼東からきた衛満が政権を奪取 —  邊太燮『高等 国史』 (1973年)

衛満が燕人であることは記さない[56]

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 —  文教部『中学 国史』 (1975年)

北中国方面にいた移動民の勢力の代表である衛満が古朝鮮の準王を追い出して王となった —  文教部『高等 国史』 (1977年)

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 —  国史編纂委員会『中学 国史』 (1979年)

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 —  国史編纂委員会『中学 国史』 (1982年)

前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となった —  国史編纂委員会『高等 国史』 (1982年)

衛満が燕人であることは記さない[57]

西側地方で勢力を拡大させた衛満が準王を追い出して古朝鮮の王となる —  国史編纂委員会『中学 国史』 (1996年)

衛満が燕人であることは記さない[58]

前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となる —  国史編纂委員会『中学 国史』 (1996年)

衛満の出自を中国人・燕人と明確に記さない[59]

中国からの流移民を古朝鮮西方に安置させたが、そのなかでも衛満は準王を追い出し王となった —  国史編纂委員会『高等 国史』 (1996年)

燕に住んでいた朝鮮人であるとおもわれる —  国史編纂委員会『高等 国史』註 (1996年)

衛満の古朝鮮は檀君の古朝鮮を継承したものとみることができる —  国史編纂委員会『高等 国史』註 (1996年)

衛満=朝鮮人で燕国に居住していた人物と記す[60]

北朝鮮における衛氏朝鮮[編集]

当然のことながら、北朝鮮ナショナリストも衛満を「朝鮮人」と「偽装」しており、朝鮮総連機関紙朝鮮新報』において、歴史評論家の朴春日は「その昔、古朝鮮に魏満(ウィマン)という人物がいて、燕の国が強大になるとそこへ移り、燕が匈奴(きょうど)に圧迫されると、再び古朝鮮へ戻ったりした。魏満は古朝鮮の準王に取り入って信任を得ると、機会を狙って政変を起こし、準王を追放して王座を奪った。そこで南方へ逃れた準王は、韓という国で王になった。」と記している[61]

日本や中国やアメリカでの捉え方[編集]

  • 武田幸男 は、「もと燕人の衛満は、紀元前195年、思わぬことで亡命するはめになった。仕えていた燕王の盧綰が前漢にそむき、匈奴降伏した。突然、衛満の身辺にも危険がせまり、衛満は朝鮮に逃れることにしたのである。」と評する[62]
  • ペンシルベニア大学のRobert W. Preucelとマサチューセッツ大学のStephen A. Mrozowski は、「一部の北朝鮮考古学者は、衛満が純粋な朝鮮人であったと考えることを好みます。」と評する[63]
  • 田中俊明は、「功臣の一人盧綰が領有したのが燕であったが、高祖の皇后呂后の時代になると、功臣の王国とりつぶしが始まり、危険を感じた盧綰は匈奴へ亡命した。前195年ころのことで、そのとき、燕に仕えていた満という人物が、徒党1000人余りを率いて朝鮮へいき、そこに国をひらいた。それが衛氏朝鮮の始まりである[64]。」「『朝鮮』の語は紀元前三世紀頃から知られていたが、歴史的実態が明らかな存在としては、衛氏朝鮮国が最初である。その成立は、前二世紀の初めであり、現在の平壌を中心に、朝鮮半島西北部を領域とした。その建国者衛満は、漢帝国の中の燕国から亡命してきたのであったが、そのときすでに平壌地方にはある政治勢力があった。それを箕子の末裔だと称することがある。」と評する[65]
  • 森鹿三 は、「さてに滅ぼされると、亡命者が満州や朝鮮に流れこんだが、短命に終わった秦の末年から前漢のはじめのころにも、戦乱を避けて大量の難民が半島へ移ってきた。当時、朝鮮には殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし、朝鮮王となって今の平壌を都とした。」と評する[66]
  • 日比野丈夫 は、「つぎは秦の始皇帝が中国を統一したさい、前二二六年燕の国都を陥れ、逃亡する燕王たちを追跡して遼東に進み五年目ついにこれを捕虜としたときであった。このとき多数の燕の遺民たちが朝鮮半島に逃げこんだことは疑いなく、やがて秦が滅び楚漢戦争が始まると、中国人の流入するものはますます多くなったのであろう。漢のはじめ衛満というものが中国から亡命して今日の平壌に都をさだめ朝鮮国を立てたのは、じつにこのような地番があったからである。」と評する[67]
  • 藤永壯は、「燕からの亡命者・衛満が箕子朝鮮を滅ぼし、前王の故都王倹城を首都とする」「檀君朝鮮箕子朝鮮は説話的要素が強いのに対し、衛氏朝鮮は実在の国家と見られる」と分析する[68]

脚注[編集]

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  1. ^ 遼史 第三十八卷 志第八 地理志二 元 脫脫 等, 元魏太武遣使至其所居平壤城
  2. ^ 金元龍『韓国考古学槪論』東出版、82頁「この青銅ならびに鉄器文化をたずさえて入ってきた中国系移住民の来往が、はっきりと文献に現われるのは、まさに衛満の移住と建国であるといえよう。平安道地方に出現する衛満朝鮮は、いうならば鉄器文化の波及の一つの頂点を表わしているものである。」
  3. ^ 岡崎敬『シルクロードと朝鮮半島の考古学』第一書房、175頁「これらの土壙墓の中に木材木棺をともなうものがあることから、楽浪郡木槨墓の先縦とし遼東郡地方にいた衛満などの中国人が、西北鮮に建設した衛氏朝鮮の支配階級となり、楽浪郡設置後も引き続き残した墓制とする見解も行われている。」
  4. ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、中国人となる。
  5. ^ 武田 1997, pp. 266
  6. ^ 武田 1997, pp. 267
  7. ^ 武田 1997, pp. 267
  8. ^ 武田 1997, pp. 267
  9. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
  10. ^ 『史記』蘇秦列伝には燕領として遼東と朝鮮が併記されているが、考古学的にはこの時期すでに遼東半島は燕の領有に帰していたと考えられるので、朝鮮も領有されていたとする史記の説も肯定的にみる説がある。
  11. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
  12. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
  13. ^ この時、駐留していた秦の官吏と駐屯軍が清川江以南から撤退し、朝鮮・真番は放棄されて権力の空白地帯となったとみる説もあるが、難民が発生するような混乱の中にわざわざ戻った者ばかりではなく、戻りたくても戻れない者や、あるいは秦の亡民が半島に移住土着したという三国志韓伝の記述からは、安全確保のためむしろ朝鮮に留まった者も多かったと推測される。
  14. ^ この段階でも燕はまだ朝鮮を領有していたのか、または韓広の勢力範囲は朝鮮まで及んでいなかったのかは両方の可能性があり不明。
  15. ^ 遼東王というのは遼東半島だけの王という意味ではなく満洲の中央を流れる遼河以東の王という意味ともとれる。従ってこの段階でも韓広が朝鮮を支配していた可能性もないではない。
  16. ^ 遼東半島だけを併合し朝鮮は放棄されたと思われるが定かではない。
  17. ^ 武田 1997, pp. 265
  18. ^ 武田 1997, pp. 265
  19. ^ 武田 1997, pp. 266
  20. ^ 武田 1997, pp. 266
  21. ^ 武田 1997, pp. 266
  22. ^ 武田 1997, pp. 266
  23. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
  24. ^ 礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、264頁「そしてその朝鮮では、王位は箕否から最後の箕準へとうけ継がれた。この朝鮮がいわゆる箕子朝鮮であった。」「確実なのは朝鮮はかなり古くから、遅くとも紀元前四~三世紀ごろには実在していたということである。」
  25. ^ 『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』は穢族も衛氏朝鮮に服属していたという。穢の地は朝鮮半島東北部と中国吉林省東部、遼寧省の一部で後の玄菟郡に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた漢四郡の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。
  26. ^ 武田 1997, pp. 267
  27. ^ 武田 1997, pp. 265
  28. ^ 武田 1997, pp. 268
  29. ^ 武田 1997, pp. 268
  30. ^ 武田 1997, pp. 268
  31. ^ 武田 1997, pp. 267
  32. ^ 武田幸男編集『朝鮮史』所収田中俊明論文、山川出版社2000年ISBN 978-4634413207
  33. ^ 井上 2010, p. 416
  34. ^ 井上 2010, p. 419
  35. ^ 井上 2010, p. 415
  36. ^ 藤田 2003, p. 79
  37. ^ 井上 2010, p. 415
  38. ^ 井上 2010, p. 415
  39. ^ 井上 2010, p. 415
  40. ^ 井上 2010, p. 415
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

先代:
箕子朝鮮
朝鮮の歴史
紀元前195年? - 紀元前108年
次代:
漢四郡