衛氏朝鮮

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衛氏朝鮮
衛氏朝鮮
箕子朝鮮 紀元前195年? - 紀元前108年 漢四郡
首都 平壌[1]
朝鮮王(ただし漢帝国からの呼称)
紀元前195 - 紀元前2世紀 初代・衛満(衛という姓は後世の記述)
紀元前2世紀 - 紀元前2世紀 第2代(名不詳)
紀元前2世紀 - 紀元前108 第3代・衛右渠([史記]年表では「張路」)
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
衛氏朝鮮
朝鮮語表記
ハングル 위만조선
朝鮮の漢字 衛滿朝鮮
日本語読み: えいまんちょうせん
片仮名転写: ウィマンジョソン
ラテン文字転写: RR:Wiman Joseon
MR:Wiman Chosŏn
中国語表記
繁体字 衛滿朝鮮
簡体字 卫满朝鲜
ピンイン Wèimǎn Cháoxiǎn
英語表記
アルファベット Wiman Joseon

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は朝鮮半島の最初の国家である。中国に出自を持つ[2]中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは『三国志』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 楽浪郡
帯方郡


三国 伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
37 BC-668
新羅
356-
統一
新羅
熊津安東都護府
統一新羅
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

沿革[編集]

前史[編集]

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[3]。(戦国時代)、紀元前334年の段階ではすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有[4]していた。紀元前284年は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。また、中国商人の権益を保護していた[5]代(燕がに滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった[6]。秦末(紀元前209年)、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり[7]、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた[8]紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる[9]。その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった[10]

建国[編集]

史記』によれば、前漢高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前195年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、燕人[11]衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)も亡命し、清川江を南にこえ、千人余りの徒党と共に朝鮮に入り、中国人(燕・の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就いた。[12]その時が恵帝高后時だ。[13]

  • 異説として、後世に書かれた『三国志』『魏略』及び『後漢書』には、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(→箕子朝鮮)が、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となった[14]という記述がある。

全盛[編集]

漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ[15]

滅亡[編集]

三伝して孫の衛右渠に至る。右渠は漢の意のままにはならなかったため武帝は朝鮮を帰服させようとし(実は匈奴を牽制するためともいう)、紀元前109年-紀元前108年、遠征を行い、衛氏朝鮮は滅ぼされた。その故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ漢の領土となった。

体制[編集]

国名[編集]

「衛氏朝鮮」という名は後世、箕子朝鮮や李氏朝鮮と区別するための便宜上の名である。『史記』は単に「朝鮮」とよぶが、この名も当時すでに国名が不明になっていたので司馬遷が地名を借りて表現したまでで、彼らが自称した国名ではない。

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三代続いたというが二代めの王の名は不明である。初代の衛満も最後の衛右渠も、「衛」という姓は後世になってからの情報で、『史記』には単に「満」「右渠」としかない。衛氏朝鮮の他の貴族たちの場合は姓名がはっきりしているので、これらは名ではなく官職名とも考えられる。『史記』の年表では右渠の息子の長(衛長)を「張路」としており、これが正しければ王家の姓は衛氏ではなく張氏だったことになる。

官制[編集]

王の下に、「大臣」「将軍」及び複数の「相」がいた。「相」の中には「朝鮮相」と「尼谿相」がいたので他の「相」も「○○相」の略称と思われる。

脚注[編集]

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  1. ^ 遼史 第三十八卷 志第八 地理志二 元 脫脫 等, 元魏太武遣使至其所居平壤城
  2. ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、中国人となる。
  3. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
  4. ^ 『史記』蘇秦列伝には燕領として遼東と朝鮮が併記されているが、考古学的にはこの時期すでに遼東半島は燕の領有に帰していたと考えられるので、朝鮮も領有されていたとする史記の説も肯定的にみる説がある。
  5. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
  6. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
  7. ^ この時、駐留していた秦の官吏と駐屯軍が清川江以南から撤退し、朝鮮・真番は放棄されて権力の空白地帯となったとみる説もあるが、難民が発生するような混乱の中にわざわざ戻った者ばかりではなく、戻りたくても戻れない者や、あるいは秦の亡民が半島に移住土着したという三国志韓伝の記述からは、安全確保のためむしろ朝鮮に留まった者も多かったと推測される。
  8. ^ この段階でも燕はまだ朝鮮を領有していたのか、または韓広の勢力範囲は朝鮮まで及んでいなかったのかは両方の可能性があり不明。
  9. ^ 遼東王というのは遼東半島だけの王という意味ではなく満洲の中央を流れる遼河以東の王という意味ともとれる。従ってこの段階でも韓広が朝鮮を支配していた可能性もないではない。
  10. ^ 遼東半島だけを併合し朝鮮は放棄されたと思われるが定かではない。
  11. ^ 衛満は『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とある。
  12. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
  13. ^ 史記/卷115
  14. ^ が、これらの一連の話がどの程度史実と認められるかは論争がある。ほぼ同時代史料といえる『史記』にはこれらの記述は一切なく、衛満は何もない空白地帯に建国したように読める。実際には当時まだ馬韓という地名は存在せず、朝鮮半島南部に相当する真番の地も衛満の勢力圏だった。
  15. ^ 『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』は穢族も衛氏朝鮮に服属していたという。穢の地は朝鮮半島東北部と中国吉林省東部、遼寧省の一部で後の玄菟郡に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた漢四郡の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。

参考文献[編集]

  • 史記 朝鮮列伝第五十五
  • 漢書 西南夷両粤朝鮮伝第六十五
  • 三国志烏桓鮮卑東夷伝

関連項目[編集]

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朝鮮の歴史
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