衛氏朝鮮
| 衛氏朝鮮 | |
|---|---|
| 朝鮮語表記 | |
| ハングル: | 위만조선 |
| 朝鮮の漢字: | 衛滿朝鮮 |
| 日本語読み: | えいまんちょうせん |
| 片仮名転写: | ウィマンジョソン |
| ラテン文字転写: | RR:Wiman Joseon MR:Wiman Chosŏn |
| 中国語表記 | |
| 繁体字: | 衛滿朝鮮 |
| 簡体字: | 卫满朝鲜 |
| ピンイン: | Wèimǎn Cháoxiǎn |
| 英語表記 | |
| アルファベット: | Wiman Joseon |
朝鮮の歴史 | ||||||||||
| 考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 AD | |||||||||
| 伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
| 史前 | 箕子朝鮮 | |||||||||
| 燕 | ||||||||||
| 辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
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| 馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 |
沃 沮 | ||||||
| 三国 | 伽耶 42- 562 |
百済 前18-660 |
高句麗 前37-668 | |||||||
| 新羅 前57- | ||||||||||
| 南北国 | 唐熊津・安東都護府 | |||||||||
| 統一新羅 鶏林州都督府 676-892 |
安東 都護府 668-756 |
渤海 698 -926 | ||||||||
| 後三国 | 新羅 -935 |
後 百済 892 -936 |
後高句麗 901 -918 |
遼 | 女真 | |||||
| 統一 王朝 |
高麗 918- | 金 | ||||||||
| 元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
| 元朝 | ||||||||||
| 高麗 1356-1392 | ||||||||||
| 李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
| 大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
| 近代 | 日本統治 1910-1945 | |||||||||
| 現代 | 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
| 大韓民国 1948- |
朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
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粛慎 | |||||||||||||||||
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| 後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | ||||||||||||||||
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衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない[引用 1][引用 2]朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ[注釈 1]中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。
目次
体制[編集]
国名[編集]
「衛氏朝鮮」という名は後世、箕子朝鮮や李氏朝鮮と区別するための便宜上の名である。『史記』は単に「朝鮮」とよぶが、この名も当時すでに国名が不明になっていたので司馬遷が地名を借りて表現したまでで、彼らが自称した国名ではない。
王[編集]
三代続いたというが二代目の王の名は不明である。初代の衛満も最後の衛右渠も、「衛」という姓は後世になってからの情報で、『史記』には単に「満」「右渠」としかない。衛氏朝鮮の他の貴族たちの場合は姓名がはっきりしているので、これらは名ではなく官職名とも考えられる。『史記』の年表では右渠の息子の長(衛長降)を「張路」としており、これが正しければ王家の姓は衛氏ではなく張氏だったことになる。
官制[編集]
衛氏朝鮮の国家組織は、中国前漢の制度を元にしてある程度整っていたらしく、朝鮮王のもとに「稗王」「太子」がおり、「大夫」「大臣」「相」「将軍」が合議して国家運営にあたり、「博士」なども任命された[2]。「相」の中には「朝鮮相」と「尼谿相」がいたので他の「相」も「○○相」の略称と思われる。合議メンバー4人組の朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相参、将軍王唊の4人の素性から、路人と韓陰は「朝鮮相」で、王唊は朝鮮の将軍であり、政治と軍事を分担していた[3]。韓陰と王唊は、王・韓の姓氏から、中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物であり、路人も中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物だった[4]。参は、1人だけ姓氏を持たず、「朝鮮相」ではなく、在地の根拠地の尼谿の「相」であり、衛氏朝鮮はこれら含みながら、緩やかに連携した連合国家だった[5]。
沿革[編集]
前史[編集]
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[6]。紀元前334年の段階で燕はすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有[注釈 2]していた。紀元前284年、燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(燕の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。また、中国商人の権益を保護していた[7]。秦代(燕が秦に滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった[8]。秦末(紀元前209年)、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり[注釈 3]、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた[注釈 4]。紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる[注釈 5]。その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった[注釈 6]。
建国[編集]
『史記』によれば、前漢の高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(現在の鴨緑江)を渡河、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命した[9]。さっそく衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った[10]。秦・漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていた[11]。さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、ある時、衛満は芝居をうった[12]。前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で、王都に乗りこんだのである[13]。その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と戦況を記した。芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である[14]。衛満は、中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就き、衛満朝鮮を建国した[15]。『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(→箕子朝鮮)が[引用 3]、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となった。
全盛[編集]
漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ[注釈 7]。
滅亡[編集]
3伝して孫の衛右渠に至る。漢は、衛右渠が一度も呼び出しに応じない、周辺諸国を規制していることを詰問したが[16]、それでも衛右渠は漢の意に従わず、武帝は朝鮮を帰服させるために紀元前109年-紀元前108年遠征を行う。しかし、実は武帝が朝鮮に遠征したのは匈奴を牽制するためともいわれ、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしたとき、これを「匈奴の左臂を断った」とする評があり[17]、杉山正明は、漢の武帝が衛氏朝鮮を征服した理由として、衛氏朝鮮が漢より匈奴の支配下にあり、その傍証として匈奴の「左賢王」「右賢王」用語が5世紀の百済においてもなお使用されている事実を挙げている[18]。漢が朝鮮へ侵攻してくると、合議メンバーの朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相参、将軍王唊の4人うち亡命者或いは亡命者ゆかりの人物の路人、韓陰、王唊は衛右渠を残したまま降伏した[19]。参だけは抗戦するが、翌年衛右渠を刺客に殺させ、降伏した。衛右渠殺害後も大臣らが抗戦していたが、前漢は、すでに降伏していた衛右渠の子の衛長降と路人の子の最を差し向け、大臣を殺して降伏させた[20]。衛氏朝鮮は滅ぼされ、故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ漢の領土となった。『史記』朝鮮伝は、「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記した[21]。『史記』孝武本紀には、「朝鮮を伐つ」とある[22]。
韓国・北朝鮮での捉え方[編集]
論点[編集]
伝統的な朝鮮の史学では中国人起源の衛氏朝鮮は重視されなかった。李氏朝鮮中期の実学者安鼎福(朝鮮語: 안정복)は、衛氏朝鮮は、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあるように燕人(中国人)の亡命者が王統を簒奪した「簒賊の支配した国家」として、正統から除外した[23]。また、朝鮮民族主義歴史学を確立した申采浩の史観では「中国の燕王の部下衛満」の支配した衛氏朝鮮と続く漢四郡による支配を過小視し、申采浩は、漢人の支配が朝鮮に及んだとしても朝鮮の国土のごく一部に及んだに過ぎないと主張した[23]。
現代の韓国や北朝鮮のナショナリストは、朝鮮史における最初の国家が、中国(燕)人である衛満によって建国された中国系の国家であるとすれば、朝鮮の歴史が中国の支配から始まったことになるので、衛満の姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降であるとし、さらに衛満が朝鮮に入国する際に朝鮮の服を着ていたことから、衛満はもともとは古朝鮮出身で燕に移住して、燕で暮らしていた「朝鮮人」と「捏造」している[24]。朝鮮史の舞台である朝鮮半島が、中国大陸と直接に領土を接しているため、朝鮮史は中国情勢の影響を受けるが、中国人の朝鮮半島への流入、中国による朝鮮半島支配など、中国による朝鮮史への関与を教科書に論述することを認めたくないため[25]、衛満を燕人(中国人)を教科書に論述するかは教科書執筆者にとって難問であった[26]。
韓国の教科書における衛氏朝鮮[編集]
「古朝鮮とは、14世紀以後の李氏の朝鮮王朝に対して呼ぶもので、檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮をまとめた呼称である。ただし、檀君朝鮮・箕子朝鮮は、神話伝説の時代であり、具体的な歴史事実は明らかではない。その点でいえば、衛氏朝鮮から、歴史が始まることになる」というような理解が通説である[27]。
しかし、韓国の教科書の高等『国史』には、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として檀君神話を紹介している[28]。このように檀君朝鮮が小学『社会』に記載されている対して、朝鮮最初の国家である衛氏朝鮮に関する記載が無く、中学『国史』以後論述されているように、檀君朝鮮の方が衛氏朝鮮よりも学習上重要視されている[29]。
燕地域から部下を率いて古朝鮮にやってきた — 中学『国史』 (1996年)
衛満の古朝鮮は檀君の古朝鮮を継承したものといえる — 高校『国史』 & 学習の手助け 衛満朝鮮の意味 (1996年)
高校『国史』では、衛満が中国から朝鮮に来た人物としつつも、「学習の手助け 衛満朝鮮の意味」という項目では、衛満が朝鮮の服を着ていたこと、国号を朝鮮にしたこと、土着民が政権の中枢に存在したことをわざわざ論述する[30]。服装や国号、土着民の存在など朝鮮系要素が強調されていて、小学『社会』において、檀君朝鮮についての記述がみえるものの、衛満に関する記述がないのは衛満が中国(燕)人だからである[31]。
40年代-60年代にかけて崔南善が執筆した教科書は、衛満は、本来「朝鮮人」であったが、燕に居住していて、再度朝鮮に戻り王になったと記述している[32]。衛満を「朝鮮人」に「偽装」することで、衛氏朝鮮を教科書に位置付けようとする[33]。
西方から二千百年ほど前に長らく中国で暮らし、中国人の性格をよく知る衛満という人物が戻ってきたので、朝鮮では中国人に関する問題を彼に担当させた — 崔南善『中等国史』 (1947年)
燕に行き役人となっていた — 崔南善『高等国史』 (1957年)
長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る — 崔南善『国史』 (1962年)
60年代になると、衛満が中国(燕)人であることを完全には否定しないが、教科書に衛満の出自を中国(燕)人と具体的に記さない記述がみえてくる[34]。
長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る — 『わが国の文化史』 (1965年)
90年代に編纂された国史編纂委員会高校『国史』註では、衛満が朝鮮に入国する際に、髷を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定している[35]。これらは40年代-60年代の崔南善の主張と酷似している[36]。
燕に居住していた朝鮮人とおもわれる — 国史編纂委員会『国史』 (1996年)
教科書における衛満・衛氏朝鮮に関する記述は檀君・檀君朝鮮に関する記述に比して全体的に少ない。このことは、教科書執筆者たちが、事実上衛満を「朝鮮人」に「偽装」することができなかったことを示唆している[37]。
韓国の教科書における燕人の変遷[編集]
準王の時にはやく帰化し西部国境に勢力を置いていた燕人衛満が国を開いた — 震檀学会『国史教本』 (1946年)
西方から2100年前に長らく支那に入っていて支那人の性質をよく知っていた衛満 — 崔南善『中等国史』 (1947年)
前194に燕人衛満が侵入 衛満朝鮮が成立 — 申奭鎬『中等国史』 (1948年)
衛満は燕から亡命 — 金庠基『高等国史』 (1957年)
燕に行き官吏となっていた — 崔南善『高等国史』 (1957年)
漢から亡命して帰化 — 曺佐鎬『中等国史』 (1959年)
燕人の衛満 — 歴史教育研究会『中等国史』 (1960年)
長期間燕に居住し中国人をよく知る衛満が朝鮮に戻ってくる — 崔南善『国史』 (1962年)
前194年に燕人の衛満が古朝鮮と濊貊・真番・臨屯を滅ぼし、衛満朝鮮を建国 — 申奭鎬『中学国史』 (1965年)
衛満が逃亡してきて、朝鮮の王となった — 『高等国史 わが国文化史』 (1965年)
衛満が燕人であることは記さない[40]。
衛満が中国から亡命してきた人々を率いて古朝鮮を滅亡させた — 金庠基『国史』 (1967年)
衛満が燕人であることは記さない[41]。
衛満朝鮮 中国から亡命してきた人物 — 歴史教育研究会『高等国史』 (1967年)
衛満が前2世紀に政権奪取 — 『高等 最新国史』 (1968年)
衛満が燕人であることは記さない[42]。
衛満が朝鮮に帰化 — 申奭鎬『高等 国史』 (1969年)
衛満が建国(前194年) — 閔泳珪『高等 国史』 (1969年)
衛満が燕人であることは記さない[43]。
大陸から多数の漢人が朝鮮半島に流入、衛満もまたその一人 — 歴史教育研究会『高等 国史』 (1972年)
斉・燕からの亡命人が朝鮮に入る 衛満もその一人 — 李丙燾『高等 国史』 (1972年)
直接的な表現ではないが、衛満を燕人とする[44]。
遼東からきた衛満が政権を奪取 — 李弘稙『高等 国史』 (1973年)
衛満が燕人であることは記さない[45]。
遼東からきた衛満が政権を奪取 — 邊太燮『高等 国史』 (1973年)
衛満が燕人であることは記さない[46]。
前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 — 文教部『中学 国史』 (1975年)
北中国方面にいた移動民の勢力の代表である衛満が古朝鮮の準王を追い出して王となった — 文教部『高等 国史』 (1977年)
前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 — 国史編纂委員会『中学 国史』 (1979年)
前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 — 国史編纂委員会『中学 国史』 (1982年)
前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となった — 国史編纂委員会『高等 国史』 (1982年)
衛満が燕人であることは記さない[47]。
西側地方で勢力を拡大させた衛満が準王を追い出して古朝鮮の王となる — 国史編纂委員会『中学 国史』 (1996年)
衛満が燕人であることは記さない[48]。
前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となる — 国史編纂委員会『中学 国史』 (1996年)
衛満の出自を中国人・燕人と明確に記さない[49]。
中国からの流移民を古朝鮮西方に安置させたが、そのなかでも衛満は準王を追い出し王となった — 国史編纂委員会『高等 国史』 (1996年)
燕に住んでいた朝鮮人であるとおもわれる — 国史編纂委員会『高等 国史』註 (1996年)
衛満の古朝鮮は檀君の古朝鮮を継承したものとみることができる — 国史編纂委員会『高等 国史』註 (1996年)
北朝鮮における衛氏朝鮮[編集]
当然のことながら、北朝鮮ナショナリストも衛満を「朝鮮人」と「偽装」しており、朝鮮総連機関紙『朝鮮新報』において、歴史評論家の朴春日は「その昔、古朝鮮に魏満(ウィマン)という人物がいて、燕の国が強大になるとそこへ移り、燕が匈奴(きょうど)に圧迫されると、再び古朝鮮へ戻ったりした。魏満は古朝鮮の準王に取り入って信任を得ると、機会を狙って政変を起こし、準王を追放して王座を奪った。そこで南方へ逃れた準王は、韓という国で王になった。」と記している[51]。
日本や中国やアメリカでの捉え方[編集]
- 武田幸男 は、著書のなかで衛満を「もと燕人の衛満」と記述している[52]。
- ペンシルベニア大学のRobert W. Preucelとマサチューセッツ大学のStephen A. Mrozowski は、衛満=朝鮮人説を「一部の北朝鮮の考古学者は、衛満が純粋な朝鮮人であったと考えることを好みます。」と評する[53]。
- 田中俊明は、「朝鮮」名は紀元前3世紀頃から知られていたが、歴史的実態が明らかなのは衛氏朝鮮が最初であり、「前195年ころのことで、そのとき、燕に仕えていた満という人物が、徒党1000人余りを率いて朝鮮へいき、そこに国をひらいた[54]。」「衛満は、漢帝国の中の燕国から亡命してきた」と記述している[55]。
- 森鹿三は、燕が秦に滅ぼされ、その亡命者が朝鮮に流入した後、秦末期から前漢初期にかけても、戦乱を避けて大量の難民が朝鮮へ移動した状況のなかで「朝鮮には殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし、朝鮮王となって今の平壌を都とした」と分析する[56]。
- 日比野丈夫によると、秦の始皇帝が中国を統一して、紀元前226年燕を陥れ、逃亡する燕王たちを追跡して遼東に進軍して5年目に捕虜としたとき、多数の燕人が朝鮮半島に流入した。その後楚漢戦争が始まると、中国人の流入はますます増大して、「漢のはじめ衛満というものが中国から亡命して今日の平壌に都をさだめ朝鮮国を立てたのは、じつにこのような地番があったからである」と分析する[57]。
- 藤永壯は、檀君朝鮮と箕子朝鮮は説話的であるが、衛氏朝鮮は実在したとして、「燕からの亡命者・衛満が箕子朝鮮を滅ぼし」たとする[58]。
- 矢木毅は、箕子の末裔と称する中国化した政治勢力が、「前漢の初めに燕人の衛満によって減ほされた」と記述している[59]。
- 石平は、「朝鮮半島最初の王朝・衛氏朝鮮は中国人が建国したという史実や、朝鮮の歴代王朝が中華帝国の属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族は建国物語『檀君神話』を生み出した」と指摘している[60]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、中国人となる。
- ^ 『史記』蘇秦列伝には燕領として遼東と朝鮮が併記されているが、考古学的にはこの時期すでに遼東半島は燕の領有に帰していたと考えられるので、朝鮮も領有されていたとする史記の説も肯定的にみる説がある。
- ^ この時、駐留していた秦の官吏と駐屯軍が清川江以南から撤退し、朝鮮・真番は放棄されて権力の空白地帯となったとみる説もあるが、難民が発生するような混乱の中にわざわざ戻った者ばかりではなく、戻りたくても戻れない者や、あるいは秦の亡民が半島に移住土着したという三国志韓伝の記述からは、安全確保のためむしろ朝鮮に留まった者も多かったと推測される。
- ^ この段階でも燕はまだ朝鮮を領有していたのか、または韓広の勢力範囲は朝鮮まで及んでいなかったのかは両方の可能性があり不明。
- ^ 遼東王というのは遼東半島だけの王という意味ではなく満洲の中央を流れる遼河以東の王という意味ともとれる。従ってこの段階でも韓広が朝鮮を支配していた可能性もないではない。
- ^ 遼東半島だけを併合し朝鮮は放棄されたと思われるが定かではない。
- ^ 『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』は濊族も衛氏朝鮮に服属していたという。濊の地は朝鮮半島東北部と中国吉林省東部、遼寧省の一部で後の玄菟郡に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた漢四郡の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。
引用[編集]
出典[編集]
- ^ 遼史 第三十八卷 志第八 地理志二 元 脫脫 等, 元魏太武遣使至其所居平壤城
- ^ 武田 1997, pp. 266
- ^ 武田 1997, pp. 267
- ^ 武田 1997, pp. 267
- ^ 武田 1997, pp. 267
- ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
- ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
- ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
- ^ 武田 1997, pp. 265
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- ^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008. ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
- ^ 武田 1997, pp. 267
- ^ 武田 1997, pp. 265
- ^ 伊藤英人「朝鮮半島における言語接触」東京外国語大学語学研究所論集、第18号、p62
- ^ 武田 1997, pp. 268
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- ^ a b 池明観『申采浩史学と崔南善史学』〈東京女子大学附属比較文化研究所紀要 No.48〉、1987年。p140
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- ^ 礪波護、武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、ISBN 978-4124034066 p265
- ^ Preucel, Robert W. (2010). Contemporary Archaeology in Theory: The New Pragmatism. Wiley-Blackwell. p. 335. ISBN 978-1-4051-5832-9.
- ^ 『朝鮮史』所収田中俊明論文、山川出版社、2000年、p31 ISBN 978-4634413207
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- ^ 「分裂の時代」『東洋の歴史4』人物往来社、1967年、p367
- ^ 「秦漢帝国」『東洋の歴史3』人物往来社、1966年、p295
- ^ アジア-ノート-後期、p1
- ^ 矢木毅 2008, p. 41
- ^ “朝鮮半島が高句麗の時代から繰り返されてきた騒動の原因を検証『朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由』石平著”. 産経新聞. (2017年7月8日). オリジナルの2017年12月8日時点によるアーカイブ。
参考文献[編集]
- 史記 朝鮮列伝第五十五
- 漢書 西南夷両粤朝鮮伝第六十五
- 三国志烏桓鮮卑東夷伝
- 井上直樹『韓国・日本の歴史教科書の古代史記述』日韓歴史共同研究報告書(第2期)、2010年3月。
- 礪波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮 世界の歴史6』中央公論社、1997年。ISBN 978-4124034066。
- 藤田昭造『韓国の日本史教科書批判』明治大学教職課程年報 25巻、2003年3月。
- 矢木毅『近世朝鮮時代の古朝鮮認識』東洋史研究67(3)、2008年12月。
関連項目[編集]
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