箕子朝鮮

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箕子朝鮮
殷 xxxx年 - 紀元前194年 辰国
首都 不明
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
箕子朝鮮
Han Dynasty.jpg
箕子朝鮮
各種表記
ハングル 기자조선
漢字 箕子朝鮮
発音 キジャジョソ
日本語読み: きしちょうせん
2000年式
MR式
Gija Joseon
Kicha Chosŏn
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箕子

箕子朝鮮(紀元前12世紀?[1] - 紀元前194年)とは、中国に出自を持つ[2]箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。統一国家では無く、地方政権ないし都市国家として存在したいわゆる古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略逸文などに具体的な記述がある。

概要[編集]

史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした大夫[3]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。

以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ[4]満潘汗[5]を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱によりから朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。

後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。


朝鮮歷史
朝鮮の歴史
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42-
562
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346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
統一
新羅
熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
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1948-
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人民共和国

1948-
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中国朝鮮関係史
Portal:中国

王統[編集]

このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって箕子朝鮮の王統が創作され、その内容は『葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。

各国の見解[編集]

箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる[6]中国古代金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた[6]人の東来は、古くから存在した[6]北京市順義県河北省東部、遼西大凌河で其や箕候という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある[7]。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった[6]。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。

忘却された箕子朝鮮[編集]

これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。

カーター・エッカートによると、19世紀以前には、「国民国家としての『朝鮮』という抽象概念や、『朝鮮人』としての半島の仲間の住民に対する忠誠心は、たとえあったとしても、ほとんどなかった。庶民にとっては、村、家族、王への忠誠が優先され、一方、朝鮮のエリートは、自分自身が『中国を中心とする世界文明』の一員だと考えた」[8]。李氏朝鮮中期 、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる王朝の長い連続だと考えた。箕子朝鮮と新羅はこのように価値づけられ、檀君朝鮮高句麗は重要だとは考えられなかった[9]。この見解によると、箕子が朝鮮半島に音楽医学貿易政治システムを持って来た物語は、トロイの難民アイネイアースによるローマ建国と同様に考えられていた[10]。しかし1930年代に、申采浩の歴史の影響を受けて、箕子朝鮮の建国物語より、の子で朝鮮半島に文明をもたらした檀君の建国物語の方が人気が出たが、後者は日本民話で一般的である[10]。箕子朝鮮の歴史は「封建的支配階級、事大主義信者、大国至上主義者によって、不道徳に歪められた」と主張する北朝鮮の歴史家によって攻撃され続けている[11]

東北工程と箕子朝鮮[編集]

中国社会科学院を中心に、古朝鮮高句麗扶余渤海まで歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史であるという東北工程の史観に対して韓国は大きく反発している。「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」「そもそも漢江北部までが中国領土だったが、新羅百済などの侵奪で領土を失った」「渤海建国の主導勢力は高句麗人だけでなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」など[12]、その内容が実証的であるとしても朝鮮半島の人々にとって面白いものではない。

韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」という韓国独自の民族主義史学を主張して大きく反発した。

箕子朝鮮に対する評価[編集]

  • ハワイ大学マノア校のMiriam T Stark は、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題があります。」と評する[13]
  • ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は韓国が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となりました。箕子神話は韓国が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用でした。」と評する[14]
  • ホーマー・ハルバートは、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、檀君が、彼の超自然的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々は直面します。」と評する[15]
  • 武田幸男は、「この神話に見える箕子は中国末の聖人で、箕国に封じられて箕子と称した。ときの紂王の無軌道ぶりを諫めていれられず、狂人をよそおって奴となった。やがてが殷を滅ぼすと、東方の朝鮮に逃れでて、周の武王は箕子をその地に封じ、箕子は礼儀田作・織作を教え、犯禁八条をつくって生活の規範としたという。八条の全部は伝わらないが、殺人には殺人傷害には穀物での弁償、窃盗すれば奴隷にされたという。この箕子東来説は中国の有名な故事として知られ、箕子は朝鮮教化の開祖として、後々までも尊崇された。つまり、北東アジアに君臨した檀君にかわって、中国人の箕子が東来し、檀君のあとをおそったのである。檀君が朝鮮開国の始祖ならば、箕子は中国きっての聖人であった。」「そしてその朝鮮では、王位は箕否から最後の箕準へとうけ継がれた。この朝鮮がいわゆる箕子朝鮮であった。ただ、これがたしかに箕子の開いた朝鮮だ、という保証はなにもない。確実なのは朝鮮はかなり古くから、遅くとも紀元前4~3世紀ごろには実在していたということである。その朝鮮を箕子朝鮮とする伝説も、かなり前から唱えられていた。前漢司馬遷は『史記』世家に『武王は箕子を朝鮮に封ず』とかき、班固も『漢書』地理志で『箕子は殷を去って朝鮮にゆく』とのべ、例の犯禁八条を特筆大書しながら、箕子の人民教化を称賛する。すでに二人とも、箕子東来説を信じていた。箕子と朝鮮との出会いには、それなりの歴史的背景が考えられる。中国古代の金属文化圏についてみると、紀元前十世紀のころから後、山東地方に根拠を持つ箕族集団が、殷・周の権威のもとでに服属しながら、朝鮮の西部に接する遼寧地方で活動していたという。燕・斉人の東来は、古くから認められる。」と評する[16]
  • 田村実造は、「また『史記』や『漢書』のつたえるところによると、中国の戦国時代には、いまの平壌地方を中心に北中国のなどの国から移住したひとたちが支配層となって箕子朝鮮国をたてていた。紀元前206年中国で秦がほろんで漢がおこると、この戦争によって中国から朝鮮へ避難してくる者が多くなった。千余の部下をひきつれた衛満というものが亡命してきて、箕子朝鮮をほろぼして衛氏朝鮮を建国した。」と評する[17]
  • 藤堂明保は、「上古の箕子が一族をつれて箕子朝鮮をたてたという伝説がある。扶余人が『殷暦を用い、殷人と同じく白い肌を尊んだ(三国志扶余伝)』とあるのをみると、この伝説の裏には、大昔から華北の人々が満州さらに朝鮮へと移住していた事実が横たわっていると考えられてる。漢初に華北()の人、衛満が、山東)と燕の亡民を率いて東し、狽水を渡り衛満朝鮮をたてたという。」と評する[18]
  • 北京大学の宋成有は、「1910年に日本が朝鮮半島に侵入した後に、韓国の歴史学者で亡命して中国に来たものたちは、侵略に抵抗するためナショナリズムを喚起し、歴史の中からそのような傾向をくみ取って、韓国の独立性を強調した。それらは韓国の歴史学界の中の民族主義史学の流派へと発展した。1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と、真実とを混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている。」と評する[19]
  • 中国社会科学院の張碧波研究員は、「箕子を殷代甲骨文字前秦の記録から確認することができる」「かれ(箕子)が韓半島に最初の地方政権を建てた」評する[12]
  • 金両基は、「三韓の領域や国境は、、後世のように明確ではなく、おおざっぱであった。国境には、どちらの国からも干渉されない、緩衝地帯のようなものがあったらしい。そこに亡国の流民が三々五々集まって、一種の多文化圏を構成していた。異国文化や新しい文化がそこに集まり、そこから三韓へ伝わったのであろう。"辰韓は馬韓の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の秦国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた。(『三国志』の「魏書」東夷傳 辰韓条)"そのような緩衝地帯にも、自然に流民を束ねる実力者が生まれる。王や君長の経歴をもったものが、そこで実力を争い、支配者となることは当然考えられる。衛満に王位を奪われた準王がそういう地位をえたと考えても、べつにおかしくはない。」と評する[20]
  • 李榮薫は、「ある人は白頭山を天下一の名声高い中国崑崙山の脈を正統に受け継ぐ山であると言いました。また別の人は白頭山の上から朝鮮領を見下ろし、箕子の国がささやかに広がっていると詠いました。このように李朝時代の白頭山は、性理学の自然観と歴史観とを象徴する山でした。李朝の性理学者たちは、朝鮮の文明は古代中国の聖人である箕子が東遷し建てた箕子朝鮮から始まったと信じていました。箕子朝鮮の最後の王である準王が南下し、馬韓に吸収され、その馬韓新羅に吸収されたのですから、朝鮮の歴史の伝統が、箕子朝鮮から馬韓へ、新羅へ、高麗へ、そして李氏朝鮮へ受け継がれたというのです。李朝の歴史学はこのような箕子正統説を信奉しました。李朝時代の人々が檀君を知らなかったわけではありませんが、ぞんざいに扱い、また脇に放っておいたのです。18世紀になると若干の変化が生じて、檀君古朝鮮が朝鮮史の先頭を飾るようになりますが、それでも文明の正統は箕子朝鮮から出発したという既存の歴史観には変わりがありませんでした。先に見たように、白頭山をめぐり、これを崑崙山の嫡子であるとしたり、李朝を『箕子の国』であると言ったのも、すべてはそのような歴史観によるものです。そのように、李朝時代の歴史観が中国を中心とするものだったとすれば、その時代に今日と同様な民族意識が存在していたと考えるのは難しいでしょう。これに関連しては、もう一つ例をあげましょう。15世紀の初め、世宗年間のことです。『箕子正統説』がちょうど成立した時期にあたります。当時の両班学者たちがなぜ箕子正統説を導入したのか、その理由を考えると以下のとおりです。当時は人口の三〜四割が婢という賤しい身分でありました。両班たちは自分たちが奴婢を思うままに支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いにぶつかります。そこで、聖人である箕子が真っ暗な東の蛮地に来て、八条からなる禁則を下したが、その中に盗みを犯した人間を奴婢とする法があるじゃないか。だから奴婢というのはもともと聖人の教えに従わない野蛮人であり、我ら両班は聖人の教えを悟った文明人である。だから、両班が奴婢を支配するのは世の中の風俗を正そうとした聖人の思し召しである。このような論理が生み出されたのです。箕子正統説が出現する現実的な理由とはそういうものでした。」「天皇の臣民だった朝鮮人を大韓民国の国民に転換するため、国民所得が四十ドルから六十ドルであるうえに、識字率が三割である前近代的な零細農民を近代的な国民にするため、ここに民族という旗印を高く掲げました。そこで、李承晩政権は李朝時代に箕子にはじき出されていた檀君を、こんどは国の祖先として崇めた上で、檀紀という年号を使用し、開天節という国慶記念日を作り出したのです。」「が交替するときには天子から冊封を受けるのですが、それは朝鮮の王が享受する揺るぎない権威の土台でした。その代価として李朝は年に四、五回、中国に朝貢のための使節団を派遣しました。李朝が自主独立し繁栄を謳歌できたのは、ほかでもない、このような中華帝国の国際秩序の中でのことでした。今日とは大いに異なる国際秩序の、このような逆説をきちんと理解できなければ、李朝の歴史を完全に理解することはできません。前章で紹介した箕子正統説は、そのような国際秩序に裏打ちされた歴史観です。」と評する[21]
  • 田中俊明は、「一方、箕子はといえば、先の檀君神話にも登場したが、中国の殷王朝の末年、最後の王となった紂王親戚であった人物で、殷が滅亡したあと、に仕えることをいさぎよしとしなかった賢人である。」と評する[22]
  • 浜田耕策は、「しかし、伝統的な朝鮮の『小中華意識』はが新羅を『君子国』と評した事例や、朝鮮時代に自らを『東方儀礼之国』と認識した事例等、枚挙にいとまがないが、この意識の根底には周の武王によって東方朝鮮の地に封ぜられた『聖人箕子』が民に『八条之教』と農業・養蚕・機織りを教えたという中国古典にみられる東方聖地の評価にあることが忘れられ易く、『東アジアにおける韓国古代史』の視点が弱いといわざるを得ない。」と評する[23]

脚注[編集]

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  1. ^ 十六年 箕子來朝(<<竹書紀年>> 卷下 <周武王>)
  2. ^ 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする。
  3. ^ 大夫の礼(人名)。礼は人名であるが礼儀をわきまえた徳のある人という寓話とみる説がある。
  4. ^ 実際に秦開が戦ったのは東の朝鮮ではなく燕からみて北の東胡であった。
  5. ^ 平安北道博川江の西岸
  6. ^ a b c d 礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社1997年、264頁。
  7. ^ 田中俊明『朝鮮史』山川出版社2000年、29頁
  8. ^ Em 1999, pp. 337–338
  9. ^ Karlsson 2009, p. 3
  10. ^ a b Simons 1999, p. 70
  11. ^ Ch'oe 1981, pp. 503–505、p522
  12. ^ a b “中国社会科学院、韓国古代史歪曲論文を大量発表”. 東亜日報. http://japanese.donga.com/List/3/all/27/295056/1 2016年8月29日閲覧。 
  13. ^ Stark, Miriam T. (2008). Archaeology of Asia. John Wiley & Sons. p. 49. ISBN 978-1-4051-5303-4. 
  14. ^ Peterson, Mark (2009). Brief History of Korea. Infobase Publishing. p. 5. ISBN 978-1-4381-2738-5. 
  15. ^ Hulbert, H. B. (2014). The History of Korea. Routledge. p. 73. ISBN 978-1-317-84941-4. 
  16. ^ 礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社1997年ISBN 978-4124034066 p256₋p257、p264
  17. ^ 田村実造『世界の歴史9』中央公論社1961年、p398
  18. ^ 藤堂明保『世界歴史6』岩波講座1971年、p84
  19. ^ 中国边疆史学争议频发
  20. ^ 金両基『物語 韓国史』中公新書、1989年 ISBN 978-4121009258 p47₋p48
  21. ^ 李榮薫『大韓民国の物語』永島広紀文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101 p46₋p48、p52、p70
  22. ^ 武田幸男編集『朝鮮史』山川出版社2000年ISBN 978-4634413207 p31
  23. ^ 浜田 2005, pp. 6

参考文献[編集]

  • Em, Henry H. (1999), “Minjok" as a Modern and Democratic Construct: Sin Ch'aeho's Historiography”, in Shin, Gi-wook; Robinson, Michael, Colonial Modernity in Korea, Cambridge: Harvard University Asian Center, pp. 336–361, ISBN 0674142551 .
  • Karlsson, Anders (December 2009), Northern Territories and the Historical Understanding of Territory in Late Chosŏn, Working Papers in Korean Studies, School of Oriental and African Studies, University of London .
  • Simons, G. L. (1999), Korea: The Search for Sovereignty, Palgrave MacMillan .
  • Ch'oe, Yŏng-ho (May 1981), “Reinterpreting Traditional History in North Korea”, The Journal of Asian Studies 40 (3): 503–52 .
  • 浜田耕策4世紀の日韓関係』 日韓歴史共同研究報告書(第1期)、2005年6月

関連項目[編集]