箕子朝鮮

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箕子朝鮮
殷 xxxx年 - 紀元前194年 辰国
首都 不明
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
箕子朝鮮
Han Dynasty.jpg
箕子朝鮮
各種表記
ハングル 기자조선
漢字 箕子朝鮮
発音 キジャジョソ
日本語読み: きしちょうせん
2000年式
MR式
Gija Joseon
Kicha Chosŏn
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箕子
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現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[1] - 紀元前194年)は、中国に出自を持つ[2]箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。統一国家では無く、地方政権ないし都市国家として存在したいわゆる古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略逸文などに具体的な記述がある。

概要[編集]

史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。しかし大夫[3]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。

以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ[4]満潘汗[5]を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱によりから朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、前漢劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。

後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。

矢木毅によると、箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八下、地理志下、燕に、

殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。

-『漢書』巻二十八下、地理志下、燕

とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良俗が残存していることを伝えており、楽浪郡支配下の朝鮮の豪族たちが、自らのルーツを箕子による人民教化に結びつけ、周辺民族よりも文明人であると自負しており、この白負は、楽浪郡滅亡後、漢人の支配から解き放たれた朝鮮の豪族たちが、高句麗の支配下で、三韓の支配下で、高句麗や三韓の豪族たちに継承され、後の新羅による三韓統一により、箕子朝鮮は三韓全体のルーツとして位置づけられることになったという[6]

王統[編集]

このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって王統が創作され、その内容は『葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。

各国の見解[編集]

箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる[7]中国古代金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた[7]人の東来は、古くから存在した[7]北京市順義県河北省東部、遼西大凌河で其や箕侯という銘の西周初の箕子の時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある[8]。『魏略』は「(箕準一族の)子と親族でそのまま朝鮮に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と記している。箕子の後裔の箕準一族を名乗り、韓姓を称した者が存在したが、楽浪郡以後、王姓の次に圧倒的な勢力は韓姓だった[7]。現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。

東北工程と箕子朝鮮[編集]

中国社会科学院を中心に、古朝鮮高句麗扶余渤海まで歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史であるという東北工程の史観に対して韓国は大きく反発している。「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」「そもそも漢江北部までが中国領土だったが、新羅百済などの侵奪で領土を失った」「渤海建国の主導勢力は高句麗人だけでなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」など[9]、その内容が実証的であるとしても朝鮮半島の人々にとって面白いものではない。

韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」という韓国独自の民族主義史学を主張して大きく反発した。

韓国・北朝鮮での捉え方[編集]

論点[編集]

これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。

カーター・エッカートによると、19世紀以前には、「国民国家としての『朝鮮』という抽象概念や、『朝鮮人』としての半島の仲間の住民に対する忠誠心は、たとえあったとしても、ほとんどなかった。庶民にとっては、村、家族、王への忠誠が優先され、一方、朝鮮のエリートは、自分自身が『中国を中心とする世界文明』の一員だと考えた」[10]。李氏朝鮮中期 、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる王朝の長い連続だと考えた。からの難民の箕子朝鮮と新羅(新羅の前身の辰韓からの難民)はこのように価値づけられ、檀君朝鮮高句麗は重要だとは考えられなかった[11]。この見解によると、箕子が朝鮮半島に詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って来た物語は、トロイの難民アイネイアースによるローマ建国と同様に考えられていた[12]。しかし1930年代に、申采浩の歴史の影響を受けたナショナリズムの高揚から、中国の箕子朝鮮の建国物語より、虎と熊の子で朝鮮半島に文明をもたらした檀君の建国物語の方が重要視されるようになり[12]、檀君朝鮮は民間信仰を、箕子朝鮮は儒教を背景にして、韓国では自国文化尊重ということから、民族文化を形成する檀君朝鮮がだんだん有利となる[13]。箕子朝鮮の歴史は「封建的支配階級、事大主義信者、大国至上主義者によって、不道徳に歪められた」と主張する北朝鮮の歴史家によって攻撃され続けている[14]

中国や日本の学界では「古朝鮮とは、14世紀以後の李氏の朝鮮王朝に対して呼ぶもので、檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮をまとめた呼称である。」というような理解の仕方が一般的であるが[15]、中国系の箕子朝鮮と衛氏朝鮮は朝鮮のナショナリズムからは都合が悪いため、韓国の学界は古朝鮮から箕子朝鮮と衛氏朝鮮を取り除こうと主張している。古朝鮮=三朝鮮は、朝鮮の歴史とアイデンティティと領域問題と緊密に連結され、箕子朝鮮を認めれば、紀元前11世紀以前の檀君朝鮮も認めることになるが、この時から中国の支配を認める計算になる[16]。したがって、韓国の学界は、箕子朝鮮の歴史性を否定するため、三朝鮮の枠組みで古朝鮮を捉えることを批判して、箕子朝鮮は古朝鮮に「割り込んできた」のだから、古朝鮮から檀君朝鮮は含んだまま箕子朝鮮、あわよくば衛氏朝鮮も取り除こうとする[17]檀国大学のユン・ネヒョンは、箕子朝鮮の存在を認めるが、韓半島の外側、古朝鮮西部辺境で古朝鮮と並存した小国であり、箕子朝鮮を継承した衛氏朝鮮まで共にくくって一緒に朝鮮半島の歴史から抜いてしまえば良い、と主張する[18]。これは、檀君朝鮮の正統性を優先視する在野史学界の立場が反映されたものである[19]高麗大学のパク・デジェは、三朝鮮は高麗後期~朝鮮時代初期に構成を整え、李承休は『帝王韻記』で古朝鮮を檀君と箕子を分離した。これが朝鮮時代初期の『高麗史』や『東国通鑑』などで檀君(前朝鮮)-箕子(後朝鮮)-衛氏朝鮮の三朝鮮を同等に連結する体制が確立され、それ以前には古朝鮮を三朝鮮と把握しなかった。したがって、パクは「箕子朝鮮が私たちの歴史に体系化されたのは伝統的古朝鮮史に小中華主義を背景に脈絡なしに割り込んだ『闖入』過程」「それでも三朝鮮説体系が維持されるのは学界がじっくり考えなければならない問題」と古朝鮮=三朝鮮をあえて守る必要があるのかと批判している[20]申采浩は『読史新論』『朝鮮上古史』などで箕子を檀君の臣下とみて、箕子朝鮮を歴史叙述から最初から抜いてしまうこともあり[21]、箕子は「千余年朝鮮を統理した檀君後裔扶余王朝の命令」を奉ずる諸侯の一人に過ぎなかったと主張している[22]申采浩にとって、箕子朝鮮の否認は朝鮮史の自主性を確立するうえで、また反事大主義を構築するうえで不可欠のことであった。申采浩は、朝鮮の正統は扶余であり、箕子正統説は「わが国の史家の蔑識」のせいであるとして、箕子朝鮮を否定するに至った[23]。そこで「箕子一守尉」を主張し、箕子が東来した時代は、扶余の光栄が朝鮮に及んでいたため、箕子が東来したとすれば、扶余王の封爵を受けて平壌に住んでいただけに過ぎず、「封地は10里に過ぎず、職位は一守尉に過ぎない」として、の国教は檀君の宗教「スドウ教」であり、殷がにより滅ぼされたことから禁教とされたため箕子は朝鮮に逃れたと解釈して、「プル朝鮮」の支配者の姓が箕子であったため、東来した箕子の子孫と呼ばれるようになり、したがって箕子はせいぜい朝鮮侯と呼ぶべきであると主張している[24]

韓国の教科書における箕子朝鮮[編集]

韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として壇君神話を紹介している[25]。このように檀君についての記述が小学『社会』からみられるのに対して、箕子についての記述はない[26]。わずかに中学『国史』「学習の手助け」において、文献上ではそのような理解があったことを記すにとどめる[27]

文献にみえる古朝鮮は、檀君朝鮮―箕子朝鮮―衛満朝鮮へと政治的変化を遂げた —  中学『国史』 (学習の手助け)

文献史料が不足しているため、古朝鮮の領土を知るためには、考古学的史料を利用しなければならない —  中学『国史』 (学習の手助け)

古朝鮮の史料は乏しく、箕子朝鮮は史実性に問題があるため補足にとどめたと考えられるが、この場合、同じように史実性に問題のある檀君朝鮮は『三国遺事』を引用して詳細に記述するのは、史実性、史料上の制約、箕子朝鮮に関する記述とのバランスを考慮すれば箕子朝鮮に関する記述がないのはいかにもアンバランスな印象を与える[28]。箕子は中国系に属するのに対して、檀君は朝鮮系に属する[29]。中国系よりも朝鮮系が重視され、中国系の記述は朝鮮系に比べて少ないか、ほとんど無視され、現在の韓国人につながる朝鮮系諸民族は重視される一方、朝鮮半島で活動して、朝鮮史に大きな影響を与えた中国系を含む諸民族が捨象される[30]

韓国の教科書における箕子朝鮮の変遷[編集]

檀君王倹が平壌を中心に初めて国家を立てた(前2333年)=前朝鮮 —  震檀学会『国史教本』 (1946年)

震檀学会『国史教本』は、紀元前2333年に檀君によって建国されたとして、檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」として、後の「後朝鮮」と区別する。これは『新増東国輿地勝覧』巻51・平壌条の檀君の建国した朝鮮を「前朝鮮」、箕子の建国した朝鮮を「後朝鮮」とするのに由来する[31]。しかし、震檀学会『国史教本』は、「後朝鮮」の記述は認められるが、建国者の箕子の名前はなく、箕子が中国系であることと無関係ではない[32]。それゆえ『国史』において箕子について論及しない、という選択肢も存在したが、40年代50年代の『国史』では、箕子について積極的に論及する。

漢族は衛満の侵入から楽浪の滅亡まで、500余年もの間、朝鮮半島の一角を占め、わが民族と互いに交戦したので、楽浪の漢人たちは平壌一帯の占領を合理化するために、箕子が朝鮮半島を開拓した、と創作した —  申奭鎬『中等国史』 (1948年)

箕子朝鮮は先秦文献にみえず、漢人の政略的な意図から作られたものか、あるいは中国の影響を受けた「後朝鮮」系統の人々が箕子をその祖先としたのではないか —  金痒基『国史』 (1957年)

伝説によれば殷の箕子が朝鮮へ東来.....信じがたい。漢民族の朝鮮支配のために造作されたもの —  曺佐鎬『中等国史』 (1959年)

1940年代から1950年代には、箕子東来説が後世、 漢人によって造作されたとして、積極的に史実性が否定される[33]。それは、史料批判からされたが、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、箕子が朝鮮王として冊封されたという記事が現実に存在する以上、それをどう解釈すべきか、という教科書執筆者の関心とも関わっている[34]。ところが1960年代半ばから、箕子東来は最初から史実性を認めないという解釈から、教科書にはみられなくなる[35]

わずかに、1960年代半ば以降の教科書では、1982年国史編纂委員会『国史』が註において、

古朝鮮の発展と関連して箕子朝鮮に関する記録もある。中国の「史記」、「漢書」地理志、そして「三国遺事」には中国の箕子が朝鮮王となり冊封され東来したとするが、箕子東来説は認定できない —  国史編纂委員会『国史』 (1982年)

「帝王韻記」には箕子朝鮮を後朝鮮とし、準王の時に滅亡したと記録している —  国史編纂委員会『国史』 (1982年)

それまで論じられてきた箕子東来説の造作に関する記述もなくなり、箕子は1960年代半ばから教科書にはみられなくなる[36]。このように檀君朝鮮についてはほぼ一貫して重視されるが、箕子朝鮮は当初からほぼ一貫してみられない[37]。また、箕子東来説は1940年代から1950年代では積極的に否定するが、やがてみられなくなる。このようにして、教科書におけるおおよそ中国系に関する記述は徐々に減少していく[38]

箕子朝鮮に対する評価[編集]

満州の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
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遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
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漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
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昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
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前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
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東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
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Portal:中国
  • ハワイ大学マノア校のMiriam T Stark は、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題があります。」と評する[39]
  • ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は韓国が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となりました。箕子神話は韓国が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用でした。」と評する[40]
  • ホーマー・ハルバートは、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、檀君が、彼の超自然的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々は直面します。」と評する[41]
  • 武田幸男によると、箕子は礼儀・田作・織作を教え、犯禁八条をつくって生活の規範とした「中国きっての聖人」であり、箕子東来説は中国の有名な故事として知られ、箕子は朝鮮教化の開祖として、朝鮮人から後々まで尊崇されたという。そして、、朝鮮は紀元前4~3世紀ごろには実在しており、前漢司馬遷は『史記』世家に「武王は箕子を朝鮮に封ず」とし記述し、班固は『漢書』地理志で「箕子は殷を去って朝鮮にゆく」と記述し、犯禁八条を特筆大書して箕子の人民教化を賛美している。箕子朝鮮には、それなりの歴史的背景があり、中国古代の金属文化圏では、紀元前10世紀の後、「山東地方に根拠を持つ箕族集団が、殷・周の権威のもとでに服属しながら、朝鮮の西部に接する遼寧地方で活動していた」という。燕・斉人の東来は、古くから認められている、とする[42]
  • 李榮薫によると、18、19世紀に幾人が白頭山登山記を残したが、ある人は白頭山を天下一の名声高い中国崑山の脈を正統に受け継ぐ山であると言い、ある人は白頭山から朝鮮領を見下ろし、箕子の国が広がっていると詠ったといい、李朝時代の白頭山は、性理学の自然観と歴史観とを象徴する山であり、「李朝の性理学者たちは、朝鮮の文明は古代中国の聖人である箕子が東遷し建てた箕子朝鮮から始まった」と信奉しており、それによると、「朝鮮の歴史の伝統が、箕子朝鮮から馬韓へ、新羅へ、高麗へ、そして李氏朝鮮へ受け継がれた」という。李朝の歴史学が文明の正統は箕子朝鮮から出発したという箕子正統説を信奉して、15世紀初期両班たちが箕子正統説を導入したのかは、当時の人口の3〜4割が奴婢だっため、両班たちは自分たちが奴婢を思うままに支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いにぶつかり、そこで聖人箕子が朝鮮にやって来て犯禁八条を定めたが、その中に窃盗したら奴隷にされるとある。だから奴婢はもともとは聖人の教えを破った野蛮人であり、両班は聖人の教えを悟った文明人である。だから、両班が奴婢を奴隷にするのは朝鮮人を教化しようとした聖人箕子の思し召しであるというのが箕子正統説が出現した現実的な理由であるという。また、王が交替するとき天子から冊封されるが、それは朝鮮王が享受する揺るぎない権威の土台であり、李朝が自主独立し繁栄を謳歌できたのは、中華帝国の国際秩序の中でのことであり、箕子正統説は中華帝国の国際秩序に裏打ちされた歴史観だという。そして解放後、天皇の臣民だった朝鮮人を大韓民国の国民に転換するため、国民所得が40ドル〜60ドルであり識字率が3割である前近代的な零細農民を近代的な国民にするため、民族という旗印を高く掲げ、「李承晩政権は李朝時代に箕子にはじき出されていた檀君を、こんどは国の祖先として崇め」て箕子が忘却されるようになったという[43]
  • 田村実造は、『史記』と『漢書』によると、戦国時代には、平壌などからの移住者が支配層となって箕子朝鮮国を建国して、紀元前206年に秦が滅亡して漢がおこると、この戦争の避難民の衛満が亡命してきて、箕子朝鮮をほろぼして衛氏朝鮮を建国した、と評する[44]
  • 藤堂明保は、扶余人が「殷暦を用い、殷人と同じく白い肌を尊んだ(三国志扶余伝)」とあるのをみると、箕子が箕子朝鮮を建国したという伝説の裏には、大昔から中国人が朝鮮へと移住していた事実が横たわっており、そして、漢初期に人の衛満が、と燕の亡民を率いて、狽水を渡り衛満朝鮮を建国した、とする[45]
  • 北京大学の宋成有は、韓国の民族主義史学を「1910年に日本が朝鮮半島に侵入した後に、韓国の歴史学者で亡命して中国に来たものたちは、侵略に抵抗するためナショナリズムを喚起し、歴史の中からそのような傾向をくみ取って、韓国の独立性を強調した。それらは韓国の歴史学界の中の民族主義史学の流派へと発展した。1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と、真実とを混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている。」と批判している[46]
  • 中国社会科学院の張碧波研究員は、箕子を殷代甲骨文字前秦の記録から確認できる、箕子が韓半島に最初の地方政権を建てたとする[9]
  • 金両基は、三韓は、後世のように明確ではなく、おおざっぱであり、緩衝地帯であった。そこに亡国の流民が集まり多文化圏を構成した。異国文化や新しい文化がそこに集まり、そこから三韓へ伝わった。そのような緩衝地帯に、自然に流民を束ねる実力者が生まれ、衛満に王位を奪われた準王がそういう地位を獲得したとしてもおかしくはない、とする[47]
  • 田中俊明は、箕子は、中国の殷王朝紂王の親戚であり、殷が滅亡後、に仕えることをしなかった「賢人」であり[48]、平壌は箕子の聖地であり、箕子は中国で作られた伝説上の始祖とする[49]
  • 浜田耕策は、韓国の歴史教科書は、日本)に対する文化的優越意識が露骨だが、「しかし、伝統的な朝鮮の『小中華意識』はが新羅を『君子国』と評した事例や、朝鮮時代に自らを『東方儀礼之国』と認識した事例等、枚挙にいとまがないが、この意識の根底には周の武王によって東方朝鮮の地に封ぜられた『聖人箕子』が民に『八条之教』と農業・養蚕・機織りを教えたという中国古典にみられる東方聖地の評価にあることが忘れられ」ており、韓国の歴史教科書は「東アジアにおける韓国古代史の視点が弱い」と評する[50]
  • 矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮・衛氏朝鮮などが漢四郡設置後には楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進んだ。北方から高句麗が朝鮮半島に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼすと、箕子の末裔意識を有した楽浪遺民たちは遼東遼西へ撤退して、箕子東来説を生んだと分析する[51]
  • 森鹿三は、に滅ぼされると、亡命者が満州や朝鮮に流入し、また秦末期から前漢初期にかけても、戦乱を避けて大量の難民が朝鮮へ移動したとき、「殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし」たとする[52]
  • 朝鮮総督府が編纂した『朝鮮史』の委員会において、崔南善は、「正篇や補篇の形で檀君と箕子に関する内容を編纂したらどうか」「檀君と箕子に関するものはその史実だけにこだわらず、思想や信仰の側面で発展してきたことなどをまとめて別篇として編纂したほうがいいだろう」と意見をすると[53]黒板勝美は「檀君と箕子は歴史的な実在の人物ではなく、神話の人物として、思想や信仰の側面で発展してきたわけだから、編年史として扱うのは無理だ」と応じた。対して崔南善は、「檀君と箕子が歴史的に実在していた人物なのか、神話の人物なのかは1つの研究課題にもなりますが、少なくとも朝鮮人の間では、これが歴史的事実として認識されてきたのです。しかし、本会が編纂する『朝鮮史』にこの内容を入れないということは、私たち朝鮮人としては非常に残念でなりません。ですから、本会編纂の『朝鮮史』が朝鮮人にあまり読まれていないわけです」と抗弁した。このようなに『朝鮮史』で檀君は非歴史的存在として扱われ、歴史上の居場所を失った[54]
  • 藤永壯は、檀君朝鮮・箕子朝鮮は説話であるが、衛氏朝鮮は実在したとして、「BC4Cごろ、殷が滅亡した後、周につかえず亡命した箕子が、平壌付近に建国したという伝説」と分析する[55]
  • コロンビア大学のオンライン百科事典やアメリカ議会図書館の朝鮮古代史のくだりには、「古朝鮮も中国の植民地」=「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子が韓半島北部に建てた国だ。その当時、韓半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている[56]
  • ヒストリーチャンネルは「平壌は紀元前1122年に中国王朝の子孫によって誕生した都市で、平壌付近には都市の伝説的設立者である中国学者の箕子の墓がある」とし、「紀元前108年に平壌は中国の植民地となり、文化の中心地になった」と説明している[57]
  • 国際児童救護機構SOS子供の村は、「中国の箕子が韓半島に国家を初めて建てた」と説明しており、朝鮮史が中国の支配から始まったとしている[58]

脚注[編集]

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  1. ^ 十六年 箕子來朝(<<竹書紀年>> 卷下 <周武王>)
  2. ^ 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮…」とあり、殷を出自とする。
  3. ^ 大夫の礼(人名)。礼は人名であるが礼儀をわきまえた徳のある人という寓話とみる説がある。
  4. ^ 実際に秦開が戦ったのは東の朝鮮ではなく燕からみて北の東胡であった。
  5. ^ 平安北道博川江の西岸
  6. ^ 矢木毅 2008, p. 45
  7. ^ a b c d 礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社1997年、264頁。
  8. ^ 田中俊明『朝鮮史』山川出版社2000年、29頁
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参考文献[編集]

関連項目[編集]