海西女直

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海西女直(かいせいじょちょく)は、16世紀から17世紀初頃に、開原吉林のあたりに居住していた女直(女真)の集団。「海西女直」とは明の側で彼らを呼称するのに用いられた名前であり、海西女直と呼ばれた諸集団は女真語満州語)ではフルン・グルン(hūlun gurun、フルン国、忽剌温または扈倫英語版とも表記された)と呼ばれる集団にあたる。フルンはウラ中国語版(ula、烏拉)、ホイファ中国語版(hoifa、輝発)、ハダ中国語版(hada、哈達)、イェヘ中国語版(yehe、葉赫、エホ)の4つの政治体(4部)から構成されており、満州史の側からはフルン四部(扈倫四部)とも呼ばれる。

概要・歴史[編集]

フルン四部の南にはマンジュ・グルン(manju gurun、満洲国)と総称された諸集団(明の記録にいう建州女直)がおり、東には明からは野人女直と呼ばれる政治的な統一の遅れた集団があった。

フルンの王族を輩出した家系はナラ (nara) 氏といい、清代以降も満州人の名族として尊重されている。

フルン・グルンを構成する女直人たちは、もともと松花江の支流であるフルン河の流域に居住していたとされる。しかしこの地方は15世紀の中頃以降、西の大興安嶺方面から勢力を伸ばすモンゴル諸部族の圧迫を受けたのでフルンの人々は南下し、のちの居住地に落ち着いてフルン四部を形成、明からは海西女直と呼ばれるようになった。

フルンのうち16世紀前半に最初に勢力を持ったのは、吉林北方のウラを本拠地としたウラ部で、その首長であるウラ=ナラ氏はナラ氏の正系というべき地位にあった。ウラ国は明と領土を接していなかったために明側の史料にあまり名前が現れないが、フルン四部中の有力国であり、最盛期にはその勢力は遠く豆満江の方面にまで及んだ。

イェヘとハダの2部は、フルン四部のうち明と領土を接して密接に交渉をもち、交易ルートを抑えて強大であった。明の記録では北にあるイェヘが北関、南にあるハダが南関として登場する。

ハダは16世紀中頃にウラ部の首長の一族であったワン・ハン(wan han、萬汗/王台)という首長がウラ部から分立し、開原南東のハダ河流域を支配して立てた国で、海西女直の中では最も南に位置し、建州女直の領域と接していた。ハダのワン・ハンは明との交易によって一代で強大な勢力を築き、一時は海西女直の全体と建州女直の一部に対してまで勢力を及ぼしたが、その死後急速に衰えた。

イェヘは、開原北方のイェヘ河流域を本拠地とした国で、その首長であるイェヘ=ナラ氏(エホナラ氏)はもともとモンゴルの貴族が、本来の女真系ナラ氏の支族を滅ぼして代わりにナラ氏を称した家系である。ハダが衰えたのちはイェヘがフルン四部中の盟主となる。

残るホイファはホイファ河流域を中心にウラ部の南方を勢力圏としたがフルン四部中もっとも勢力が弱かった。

16世紀末にヌルハチが建州女直を統一してマンジュ国を立てると、海西女直のフルン四部は1593年以来これと争うことになった。しかしフルン四部の相互の不仲のために、建州女直を統一勢力としてまとめあげたヌルハチの前に各個撃破されて、1599年にハダ、1607年にホイファ、1613年にウラと次々に滅ぼされてマンジュ国に吸収された。

残るイェヘは、この戦いの間にフルン四部の最有力国としてヌルハチと激しく戦い、のちには明の後ろ盾を駆使してヌルハチの女直統一運動の最大の障害として立ちはだかり続けたが、1619年サルフの戦いで明とイェヘの連合軍がヌルハチに敗れると抵抗力を失い、滅ぼされた。

フルン四部の人々はマンジュ国に併合されて八旗に編成され、清の支配民族である満州人の一部となってゆく。