ニヴフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ニヴフ、ギリヤーク
Nivkh
Nivkh People.JPG
ニヴフ民族
総人口
約5,300人
居住地域
ロシアハバロフスク地方サハリン州)、日本
言語
ロシア語ニヴフ語日本語
宗教
正教シャーマニズム
関連する民族
アイヌウィルタウリチ

ニヴフニブフ(Nivkh、(нивх) ロシア語での複数形ニヴヒ(Nivkhi))は、ロシア少数民族。 多くはサハリン州、大陸アムール川下流域に住む。

ギリヤーク(Gilyak)、複数形ギリヤーキ(Gilyaki)は、ロシア人がこの民族に与えた名称である。

大陸ではニヴフ、サハリンではニクグンと呼ばれ「人」を意味する。

古シベリア諸語に分類される固有の言語を持つ。

アイヌ、ツングース・満洲系諸族モンゴル系民族とは別系統の民族である。

概要[編集]

ニヴフの集落(2002年)

ニヴフはオホーツク文化の担い手であったという説がある[1][2][3]

サハリンの先住民ウィルタと同様、古くは狩猟・漁猟をしていた。近世には外満州山丹人やウィルタ、アイヌとともに日本との貿易の仲介(山丹交易)もしていた。

名称[編集]

ニヴフの男性。

「ニヴフ」は大陸アムール川下流部で「人」を意味する語に由来するものであり、樺太東岸ではニグヴン(Nigvyng)[4]

ロシア革命前はギリヤーク(гиляк)と呼ばれていた[5][6]名称は ロシア語風に訛ったものであり、もとは「ギリミ(吉里迷)」といった。 語源についてはギリャミ(гилями)「漕ぐ」に由来するとされ、ウリチ語のギラミ(гилaми)「大きな舟に乗る人々」であるとされる[7]

アイヌは樺太北部東岸を「ニクブン」・樺太北部西岸や大陸を「スメレンクル」と呼んだ[8]間宮林蔵は「スメレンクル夷」と記したが、樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と、アイヌ語で人をいう「クル」を合わさた「キツネびと」と意味する名称という説がある[9]

歴史[編集]

右が男性、中央が女性のニヴフ。左はアイヌの男性(1862年)

元朝によるアイヌ攻撃[編集]

アムール川下流域からサハリン地域に居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年中統4年)にモンゴルに服従した[10]。翌1264年至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指している[11]。亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている[12]

この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[13]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」(ニヴフや元朝の視点では「南からの骨嵬・亦里于襲来」[14])の初めであり、西日本に対する侵攻(元寇、1274年)より10年早かった。

日本との関係 [編集]

1808年 

間宮林蔵樺太西岸のニヴフ集落を訪れる。1809年に海峡を渡り外満州アムール川下流部に入った。

樺太時代 (1905-1945)

第二次世界大戦前、南樺太(現サハリン)に居住者は 樺太戸籍に登録され樺太土人として日本国籍を保有した。

1945年以降

樺太戸籍にあったニヴフの参政権が停止されたものの、北海道へ移住したものいた。1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際、就籍という形で参政権を回復した。

『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』(菅原幸助、現文社、1966年)によれば、網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。

文化[編集]

言語[編集]

詳細はニヴフ語を参照

島嶼(サハリン)と大陸のアムール川流域で大きく異なり、系統不明である為、便宜上古アジア系古シベリア諸語に分類されている。

楽器[編集]

習俗[編集]

衣服[編集]

伝統的な衣装を着たニヴフ。スキー(シャツ)とコスク(スカート) サハリン州

下着にはズボン下とシャツがあり、その上からズボンと、膝まで達するシャツを着る。シャツは左から右へ合わせ、首と胸のところでとめる。肌着は中国製の青または灰色の木綿でつくられる。暖かい時には下着だけのことが多いが、夏でも寒い日には犬の毛皮の外套(ロシア語ではシューバ шyбa)を着こんだ。履物はアザラシの皮製長靴であり、甲の部分と靴底は毛を取り除いたアザラシの皮を利用し、胴の部分は毛を表にしたアザラシの皮で膝まで達し、ズボンをその中に入れて紐で縛り付けた。かぶり物は雨と日光を避けるためにヒブハク(hib-hak)と呼ばれる笠をかぶる。女性はロシア語ではハラート(xaлaт)と呼ばれる膝下まで達する魚皮製のシャツを着る。

住居[編集]

夏の村(20世紀初頭)

間宮林蔵やシュレンクはニヴフの建物を4つに分類している。

  1. 穴居
  2. 穴居せざる者の居家
  3. 穴居する者夏居る処の家
  4. 倉庫

「穴居」というのは半地下式住居のことで、ニヴフ語で「トルフ toryf」と呼ばれる。現在では見られなくなったが、1960年代までは存在していたとみられる[15]。外観は土まんじゅうの形をなしており、冬には雪に覆われ、煙出しの部分だけが黒く見える。内部は木でピラミッド状の骨組みが組まれ、その上から土をかぶせて外壁としている。天井にはタマ・クティ(tama khuty)と呼ばれる煙出し穴があるが、明りとりの役割もあった。入口は必ず東向きに造られ、土まんじゅうから突き出ている。半地下なのでしきいと土間の間に段差があるため、階段がある場合とない場合があり、いくらか危険がある。

「穴居せざる者の居家」というのは19世紀になって、ニヴフに広まった穴居に代わる住居スタイルであり、ニヴフ語で「チャドルフ chadryf」と呼ばれるものである。これは丸太を組んだログハウス状の家屋であり、半地下ではなく地上型となったため、窓ができて明りとりがしやくすなったが、冬に寒風が吹きこんでくるという問題点があった。内部は土間があり、かまどが2つある。土間の中央には犬を飼うための長い板(kangyl)が設けられていた。

「穴居する者夏居る処の家」というのはニヴフの夏期の家屋であり、「ケルフ keryf(海の家、海岸の家)」と呼ばれる。ニヴフは10月から5月までは冬用の家で暮らすが、5月から10月は夏用の家で暮らす。夏季用住居は地上にそのまま建てる地上式と、杭上に建てる高床式があった。

「倉庫」というのは高床式倉庫のことで、ニヴフ語で「ニョ nyo」と呼ばれる。構造は夏季用住居のケルフとほぼ同じであるが、食糧庫として利用されていたため、杭(切り株)の上にはネズミ除けが設けられていた。

氏族[編集]

スモリャクの調査によると、19世紀末から20世紀初頭にかけてギリヤークの氏族は67を数えた[16]。氏族名は熊,アザラシ,鳥などの動物名、人のあだ名、一年の月名、場所名などに由来するものが多かった[17]

料理[編集]

伝統的料理-モス(ベリーと魚の皮カスタード)

主として魚・肉を食べる。魚はサケ類やチョウザメであり、干し魚や刺身にして食す。肉は主にアザラシであり、アザラシは煮て食す。他には熊,キツネ,オオカミ,アナグマなども食す。また、干し魚(マ)は魚油または海獣油にひたして食べる。

熊祭り

ロシア国籍のニヴフ[編集]

ウラジミール・ミハイロヴィッチ・サンギ(1935年 - ) 文学者、詩人『ケヴォングの嫁取り』サハリン・ニヴフの物語

日本国籍のニヴフ[編集]

  • 中村チヨ[18](1906年 - 1969年)樺太生まれ。父がウリチ。母がニヴフ。ニヴフのウシク・ウーヌ(wysk wonη)と結婚し、1947年に北海道に引き揚げる。その後、岩内に2年住んだのち、網走に移住。『ギリヤークの昔話』の語り手。

分子人類学による説明[編集]

ニブフのY染色体ハプログループの構成比は、C2が8/21=38.1%、O(O1a,O2を除く)が6/21=28.6%、P(R1aを除く)が4/21=19.0%、R1aが2/21=9.5%、その他(A,B,C,D,E,Kを除く)が1/21=4.8%である[19]。その分布域から、O(O1a,O2を除く)≒O1b2、P(R1aを除く)≒Qと推定される

作品[編集]

  • 伊福部昭『ギリヤーク族の古き吟誦歌』 - 声楽曲
  • 大江健三郎「幸福な若いギリヤク人」『大江健三郎全作品 第3』(新潮社、1966年。全国書誌番号:58008468
  • ギリヤーク尼ヶ崎 - 大道芸人、舞踏家
  • 村上春樹1Q84』 - ギリヤーク人について描写したチェーホフの小説が引用される
  • 上原善広『異貌の人びと』(河出書房新社、2012年。ISBN 4309021085) - 第二次世界大戦でニブフと行動を共にした元下士官へのインタビューがある。
  • ふじ沢光夫『ギリヤークふんぐり団』 - 漫画(「ガロ」連載)

参考資料・文献[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー 北海道新聞2012年6月18日朝刊
  2. ^ 「消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」」北大が調査 朝日新聞2009年2月4日
  3. ^ 大泰司紀之, 本間浩昭『知床・北方四島 カラー版 流氷が育む自然遺産』岩波書店、2008年、19頁。ISBN 978-4-00-431135-5
  4. ^ Смoляк, 1975, p25
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『ニブヒ』 - コトバンク
  6. ^ 「ギリヤーク」という名称について丹菊逸治 2009.6.22)によると、「1990年代になると、少なくともロシア国内において、公の場では「ギリヤーク」という呼び名は姿を消し、名実ともに「ニヴフ」が用いられるようになります。」とある。
  7. ^ Taксaми, 1976, p126
  8. ^ ニヴフ語研究(建築中) 大阪大学
  9. ^ Schrenck,p117
  10. ^ 中村2010、414-415頁。『元史』巻119「木華黎伝」附碩徳伝。
  11. ^ クイ(骨嵬・蝦夷)はニヴフ語でアイヌを意味するkuyiを音訳したものと思われる。
  12. ^ 『北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島』(臼杵勲・菊池俊彦・天野哲也編、山川出版社、2006年、ISBN 978-4634590618)「金・元・明朝の北東アジア政策と日本列島」(中村和之) p111-115
  13. ^ 元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(1264年11月25日)条。
  14. ^ エゾの歴史 海保嶺夫 ISBN 978-4061597501 初版96年
  15. ^ Taксaми, 1961, p111
  16. ^ Смoляк, 1970, p270
  17. ^ Taксaми, 1969, p56
  18. ^ 中村, チヨ, 1906- - Web NDL Authorities (国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス)
  19. ^ 田島等の2004年の論文"Genetic Origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages"による
  20. ^ 高橋盛孝『樺太ギリヤク語』朝日新聞社(大東亜語学叢書 : 羽田亨監修)1942年(昭和17年)分布図
  21. ^ 高橋盛孝『樺太ギリヤク語』朝日新聞社(大東亜語学叢書 : 羽田亨監修)1942年(昭和17年)Part1
  22. ^ 高橋盛孝『樺太ギリヤク語』朝日新聞社(大東亜語学叢書 : 羽田亨監修)1942年(昭和17年)Part2
  23. ^ 高橋盛孝『樺太ギリヤク語』朝日新聞社(大東亜語学叢書 : 羽田亨監修)1942年(昭和17年)Part3
  24. ^ Вишневский Николай Васильевич - биография. Сахалинский историк и краевед Автор ряда книг истории Сахалина(ロシア語)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]