エストニア人

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エストニア人
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(c. 100万)
居住地域
 エストニア: 898,845[1]
Other significant population centers:
 フィンランド 39,763[2]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 25,000
カナダの旗 カナダ 23,930[3]
 スウェーデン 23,000
ロシアの旗 ロシア 17,875[4]
イギリスの旗 イギリス 14,000[5]
オーストラリアの旗 オーストラリア 7,543[6]
ドイツの旗 ドイツ 5,000
 ノルウェー 2,871[7]
 ウクライナ 2,868[8]
アイルランドの旗 アイルランド 2,560[9]
 ラトビア 2,000[10]
ベルギーの旗 ベルギー 2,000[11]
言語
エストニア語, ヴォロ語, セトゥ語英語版
宗教
ほとんど無神論, ルター派
ローマ・カトリック および正教会 少数.
関連する民族
バルト・フィン人英語版

エストニア人 (エストニア語: eestlased) は、主にエストニア国家に居住する民族である。フィン人と同系統であるバルト・フィン系英語版に属する。

概要[編集]

バルト・フィン諸語で知られるエストニア語を話している。エストニアは伝統的にバルト3国のうちの1国であるが、エストニア人は言語的にラトビアおよびリトアニアのバルト民族と関連性がない。人種はフィン人同様にスカンジナビア人種に属するコーカソイドであるが、他のウラル系民族と同様にモンゴロイド系のY染色体ハプログループNが低頻度で見られる(紀元前中国東北部にある遼河文明人からも発見される[12])。

歴史[編集]

有史以前のルーツ[編集]

はじめ、バルト氷湖 (Baltic ice lake)がエストニアから退いた直後の約1万年前にエストニアの地において人が居住した。最初の居住者が話していた言語について定かではないが、多くの場合、近代エストニアに関連した初期ウラル諸語を話す人々が、約5000年前に現在のエストニアあたりに到着したと主張している[13]。ヨーロッパにおいて約5000年以上も同じ地域に住んでいた最も古く半永続的に居住していたエストニア人の祖先とみなされる[14]。一方、最近のいくつかの言語学的推定によれば、おそらくフィン・ウゴル語派がかなり後の初期青銅器時代(紀元前約1800年頃)の間においてバルト海周辺へとたどり着いたことを示唆している[15][16]

"Eesti"あるいはEstoniaの名は北東ヴィスワ川に居住していたバルト人に古代ゲルマン人が与えた名前Aestiiに由来すると考えられている。 紀元98年にローマの歴史家タキトゥスは"Aestii"族について最初に言及した、そして、初期スカンディナヴィア人は("Eistland"アイスランド語で現在のエストニアを意味する単語である)、フィンランド湾の南の地を"Eistland"、そして、人々を"eistr"と呼んでいた。原始エストニア(同様に他のフィン諸語の話者)は、古東スラヴ語年代記においてChuds (чудь) と呼ばれていた。

エストニア語はフィンランド語と同様にウラル語族バルト・フィン諸語に属している。エストニア語で書かれた最も古く知られている1例が13世紀の年代記、一方、1525年にエストニア語で最初に書籍を印刷した。

民族意識[編集]

エストニア民族の目覚め (Estonian national awakening)が19世紀の間に進みエストニア民族意識は広がったが[17]、それは、エストニア民族の一部が先行した形で発達した[18]。18世紀のころ、自ずからの呼称eestlane (意味はエストニア人)はより古いmaarahvas (意味は土地の人たち)と共にエストニア人の間で広がっていた[19]聖書は1739年にタリン出身であるアントン・トール・ヘレによって最初にエストニア語へ翻訳された。また、エストニア語で出版された書籍および冊子の数は1750年代に18冊から1790年代には54冊まで増加した。その世紀の終わりまでに成人農夫の半数以上は読むことができた。1820年代の頃になるとフリードリヒ・ロベルト・ファイヒルマン英語版(1798–1850)、クリスチャン・ヤーク・ペテルソン英語版(1801–22)、フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト(1803–82)等といったエストニア人であることを自認する最初の大学教育を受けた教養のある知識人が現われた。支配エリート層は13世紀前半の征服以来、言語と文化の面で主にドイツ人中心のままだった。親エストニアだったバルト・ドイツ人であるガルリエブ・メルケル英語版(1769–1850)は、エストニア人を他のものと同等の国民として待遇した筆頭著者であり、19世紀中頃の前までにバルト・ドイツ文化世界を範にとったエストニア民族運動における刺激の原泉になった。しかしながら、その世紀の中頃、エストニア人はより大きな志を抱くようになり、民族運動の成功した模範としてフィンランド人が起こしたフェンノマン運動英語版、および、近隣のラトビア人が起こした民族運動青年ラトビア英語版に傾き始めた。1860年の終わりまでに、エストニア人はドイツ人の文化的ならびに政治的な主導権に対して同調することに消極的になった。1880年代のロシア化の試み以前は、帝政ロシアのそれら見解は肯定的なままだった[18]

エストニア人はスカンディナヴィアとドイツの支配および定住中に数世紀にわたって獲得した重要な文化的・宗教的な影響から生まれたノルディック諸国への強い結びつきを持っている[20]。実際に、エストニア人は自らをフィンランド人と密接な民族的および言語的な親和性によりバルトではなく北欧と考えている[21][22]

エストニアが1918年のロシアから独立を宣言、1920年のタルトゥ平和条約に基づいて正式に独立を達成した後ロシアに居住していたエストニア人はエストニア国籍の選択権を獲得、そして祖国へ帰国した。1920年にロシアで暮らすエストニア人の数は約4万0,000人だったと推定される。要約すれば、3万7,578人がソ連からエストニアへ移った(1920–1923)[23]

近年の展開[編集]

1940年-1991年[編集]

多くのエストニア人が、ソビエト体制下における大量移住プログラムによってロシアおよび旧ソビエト連邦の一部の住民をエストニアの工業都市部へと移すため強制移住、同様に戦時移住およびスターリンの集団強制追放の対象となった[24]

1991年以降[編集]

エストニアは独立を回復したのち、国内で多数派の民族となる、少数の住民が多国間のアイデンティティを受け入れることを警戒し、市民権を取得することにおいて厳格な規則に従った国民国家を成立させた。エストニアで二重国籍は認められていない。また、エストニア市民としての地位を放棄する個人には市民権を回復する権利がない。

移民[編集]

第二次世界大戦中の1944年にエストニアはソビエト軍の侵攻を受けたときに数多くのエストニア人はバルト海上を船あるいは小型ボートによって故郷から逃れた。スウェーデンまたはドイツにいくため危険な航海を生き延びた多くの難民が、のちにそこからカナダイギリスアメリカ合衆国あるいはオーストラリアに移った。1991年に国家が独立を回復した後、これらの難民とその子孫の中にはエストニアに戻った者もいた。独立から年をかさねるごとに、海外で働くことを選ぶエストニア人が増加、ヨーロッパで最も高い移住率を示す、主としてフィンランド、また他のヨーロッパ諸国へ出稼ぎにいった[25]。少なくとも部分的にフィンランドへの移住、往復、アクセスが容易にできる。

エストニア政府は低い出生率ならびに移住などから生じる人口減の問題を認識、政府は人口対策として出生率を増加させ、出稼ぎエストニア人をエストニアへ帰国させるため、誘惑する様々な施策を開始した。エストニアのトーマス・イルヴェス大統領は、キャンペーン「Talendid koju!」 (故国に橋かける才能)の支援に乗り出す[26]。エストニアに必要な特定のスキルを持っているエストニア人の帰国を調整、促進することを目的としている

カナダに居住するエストニア人[編集]

エストニア以外で最も大きな永住エストニア人社会は、約2万4,000人が居住しているカナダである(いくつかの情報筋によると最高約50,000人居住)[3][27]。 1940年代後半および1950年代初頭に、約1万7,000人がカナダに到着した[28]トロントは、エストニア以外における最大のエストニア人人口を誇る都市である。初めてとなるエストニア人世界祭が1972年のトロントで開催された。いくつかの著名なエストニア系カナダ人には、心理学者エンデル・タルヴィングならびに建築家エルマー・タムポルド英語版等がいる。

脚注[編集]

  1. ^ Population by ethnic nationality”. Statistics Estonia (2012年3月30日). 2012年3月30日閲覧。
  2. ^ http://www.stat.fi/tup/suoluk/suoluk_vaesto_en.html
  3. ^ a b http://www.canadainternational.gc.ca/baltic_states-pays_baltes/bilateral_relations_bilaterales/estonia_relations_estonie.aspx?lang=eng
  4. ^ http://www.perepis-2010.ru/results_of_the_census/result-december-2011.ppt
  5. ^ 14,000 Estonian mother tongue speakers in the UK
  6. ^ 2054.0 Australian Census Analytic Program: Australians' Ancestries (2001 (Corrigendum))”. Australian Bureau of Statistics (2001年). 2011年9月17日閲覧。
  7. ^ Population, by Norwegian/foreign citizenship and country background”. Statistics Norway (2011年1月1日). 2011年9月17日閲覧。
  8. ^ The distribution of the population by nationality and mother tongue”. State Statistics Committee of Ukraine (2001年). 2014年4月6日閲覧。[リンク切れ]
  9. ^ CSO - Statistics: Persons usually resident or present in the State on Census Night, classified by place of birth and age group[リンク切れ]
  10. ^ On key provisional results of Population and Housing Census 2011”. Central Statistical Bureau of Latvia (2012年). 2014年4月6日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ http://www.estemb.be/estonia_and_belgium
  12. ^ Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216
  13. ^ Virpi Laitinena et al. (2002), Y-Chromosomal Diversity Suggests that Baltic Males Share Common Finno-Ugric-Speaking Forefathers, Human Heredity, pages 68-78, [1]
  14. ^ Unrepresented Nations and peoples organization By Mary Kate Simmons; p141 ISBN 978-90-411-0223-2
  15. ^ Petri Kallio 2006: Suomalais-ugrilaisen kantakielen absoluuttisesta kronologiasta. — Virittäjä 2006. (With English summary).
  16. ^ Häkkinen, Jaakko 2009: Kantauralin ajoitus ja paikannus: perustelut puntarissa. – Suomalais-Ugrilaisen Seuran Aikakauskirja 92. http://www.sgr.fi/susa/92/hakkinen.pdf
  17. ^ Gellner, Ernest (1996). Do nations have navels? Nations and Nationalism 2.2, 365–70.
  18. ^ a b Raun, Toivo U. (2003). Nineteenth- and early twentieth-century Estonian nationalism revisited. Nations and Nationalism 9.1, 129-147.
  19. ^ Ariste, Paul (1956). Maakeel ja eesti keel. Eesti NSV Teaduste Akadeemia Toimetised 5: 117–24; Beyer, Jürgen (2007). Ist maarahvas (‚Landvolk‘), die alte Selbstbezeichnung der Esten, eine Lehnübersetzung? Eine Studie zur Begriffsgeschichte des Ostseeraums. Zeitschrift für Ostmitteleuropa-Forschung 56: 566-593.
  20. ^ Piirimäe, Helmut. Historical heritage: the relations between Estonia and her Nordic neighbors. In M. Lauristin et al. (eds.), Return to the Western world: Cultural and political perspectives on the Estonian post-communist transition. Tartu: Tartu University Press, 1997.
  21. ^ Estonian foreign ministry report[リンク切れ], 2004
  22. ^ Estonian foreign ministry report[リンク切れ], 2002
  23. ^ Лоткин И.В. Оптационная кампания и эвакуация граждан прибалтийских государств на историческую родину в начале 1920-х годов. Available at http://library.krasu.ru/ft/ft/_articles/0089688.pdf[リンク切れ]
  24. ^ Estonian.eu: Soviet deportations from Estonia in 1940s[リンク切れ]
  25. ^ The CIA World Factbook Country Comparison of net migration rate https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2112rank.html
  26. ^ Talendid koju! http://www.talendidkoju.ee/
  27. ^ http://www.estemb.ca/estonia_and_canada
  28. ^ http://www.tgmag.ca/magic/mt51.html[リンク切れ]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]