ロシア化
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ロシア化(ロシアか、ロシア語:русификация;英語:Russification)とは、ロシア人が非ロシア諸民族を同化・融合する政策および過程である。
概要[編集]
国の政策として19世紀のロシア帝国、20世紀のソ連、そして21世紀のロシア連邦と親ロシア派の政府が治める隣国などで用いられ、ロシアが支配していたフィンランド、バルト三国、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、コーカサス地方、中央アジア、シベリア地方、東アジアなどにおいて実行されたことがある。ロシア化の方法には、非ロシア語教育の制限およびロシア語教育の導入、キリル文字の強制導入、ロシア語の国際化の促進、教育・報道機関による文化的・政治的教化、ロシア正教の布教と非ロシア正教の宗教団体への弾圧などが用いられた。
日本語での用法[編集]
日本語で「ロシア化」という言葉が一般に使用された最近の事例は北方領土問題でのマスメディアの報道である。日本政府が固有の領土と主張している北方領土は、1945年以降ソビエト連邦(ソ連)が実効支配し、ソ連崩壊後はロシア連邦の実効支配下にある。2010年代に入り、ロシア連邦政府は極東開発の一環として北方領土の産業振興の推進と、軍事施設の設置による防衛力強化などを推進している。日本側にはこれが実効支配の既成事実の強化、ロシア領への名実とともに完全編入に見える。日本のメディアはこれを「ロシア化」と呼んだ[1][2][3]。
1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されたことによって日本政府は南樺太と得撫島以北の北千島の主権を放棄したために問題視されることは少ないが、南樺太と北千島の日本領有化を目指す立場からは南樺太と北千島でのロシア化が問題視されている。
ウクライナ[編集]
- 1686年:ウクライナ正教会の自治制廃止。教会法に違反してコンスタンディヌーポリ総主教庁に属するキエフ府主教区は、ロシアのモスクワ総主教に移管される。ロシア・ツァーリ国はウクライナのコサック国家の教育機関を監視するようになる[4]。
- 1687年:ロシア・ツァーリ国は、コサックの政府に対しウクライナ人とロシア人との結婚を促進するよう命令する(コロマクの条々)[4]。
- 1689年:モスクワ総主教は、キエフ洞窟大修道院に対し自由に書物の刊行することを禁止する[4]。
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ロシアのピョートル1世とエカテリナ2世。この君主はウクライナの国民的詩人タラス・シェウチェンコの『夢』(1844年)で次のように評価されている。
「あの1世は ...Це той первий, що розпинав |
- 1720年:ロシア皇帝ピョートル1世は、ウクライナ語で書かれた新書の出版を禁止し、古書をロシア語に書き換えるよう勅令を出す[4]。
- 1721年:ロシア皇帝ピョートル1世は、ウクライナで検閲制度を導入する。ウクライナのチェルニーヒウ印刷所は閉鎖する[4]。
- 1729年:ロシア皇帝ピョートル2世は、ウクライナ語で書かれた古文書をロシア語に書き換えるよう命令する。
- 1755年、1766年、1769年、1775年、1786年:ロシア正教の聖務会院は、ウクライナ語の書物の刊行禁令を出す[6]。
- 1764年:ロシア女帝エカチェリーナ2世は、元老院の院長アレクサドル・ヴャゼムスキー公爵にウクライナ、リヴォニア、フィンランドなどのロシア化政策の強化を秘密指令する[6]。
- 1764年:ロシア女帝エカチェリーナ2世は、ウクライナのヘーチマンおよびコサック政府を廃止する。コサックのウクライナは小ロシア県となる[6][7]。
- 1769年:ロシア正教の聖務会院は、ウクライナの人民からウクライナ語の教科書と教会関係の書物を没収するよう命令を出す[6]。
- 1775年8月3日:ロシア女帝エカチェリーナ2世は、ザポロージャのシーチを廃止し、シーチの領域は小ロシア県に編入させ、ウクライナにおけるコサック連隊の諸学校が閉鎖するよう命令する[6]。
- 1783年5月3日:ロシア女帝エカチェリーナ2世は、ウクライナで農奴制度を導入する[6]。
- 1784年:ロシア語はウクライナの小学校教育で必須科目となる[6]。
- 1786年:ロシア正教の聖務会院は、ウクライナの教会で行う奉神礼において、ウクライナ語使用を禁止し、教会スラヴ語をロシア語風に読むように命令する。キエフ・モヒーラ・アカデミーでは必須科目「純ロシア語」が導入される[6]。
- 1800年:ロシア皇帝パーヴェル1世は、ウクライナの教会をウクライナ・バロック建築様式で建立することを禁止し、モスクワ建築様式に従って建立するよう命令する[6]。
- 1817年:ロシア皇帝アレクサンドル1世は、キエフ・モヒーラ・アカデミーを閉鎖する[6]。
- 1831年:ロシア政府は、ウクライナの都市の自治制と慣習法を廃止し、ロシアの法律を導入する[8]。
- 1834年:ロシア政府は、ウクライナのロシア化の拠点としてキエフ帝国大学を創建する[8]。
- 1847年:ロシア政府は、ウクライナ人の啓蒙家を中心とする「キリル・メトディー会」の会員を逮捕して流刑し、ウクライナ語・文学・文化への迫害を始める[8][9]。
- 1847年4月5日:ロシア政府は、ウクライナの国民的詩人タラス・シェウチェンコを逮捕し、カザフスタンへ流刑に処する[8][9]。
- 1862年:ロシア政府は、ウクライナ語の日曜学校および大人向けの学校を閉鎖する[8]。
- 1863年7月18日:ロシア政府は、ヴァルーエフ指令を出す。文学作品を除き、ロシア帝国における全てのウクライナ語の出版物が禁止される[8][10]。
- 1869年、1886年:ロシア政府は、ウクライナでロシア化に成績を収めたロシア人の国家公務員に対し特別手当制度を導入する[8]。
- 1876年5月18日:ロシア皇帝アレクサンドル2世は、エムス法を定める。ロシア帝国内でウクライナ語の出版物、殊に演劇の脚本・楽譜、学術書、文学書などが禁止される。ウクライナ語の出版物が輸入禁止となる[8][11]。
- 1881年:ロシアの内務省は、ロシア帝国内のすべての県の知事に対しエムス法を厳守するよう指令する。教会におけるウクライナ語の説教は禁止される[12]。
- 1883年:ロシア帝国のキエフ総督府は、ウクライナでウクライナ語の劇場を禁止する[12]。
- 1888年:ロシア皇帝アレクサンドル3世は、帝国の官舎や役所などにおいてウクライナ語使用を禁止する命令を出す。さらに、ロシア政府とロシア正教は、ウクライナ人の子供にウクライナ語の洗礼名を与えることを禁止する。正式な書類ではウクライナ人の名前がロシア人の名前に書き換えられるようになる[12]。
- 1895年:ロシア政府は、ウクライナ語の児童文学を禁止する[12]。
- 1907年:ロシア政府は、ウクライナ語のマスコミに対し迫害を開始する[12]。
- 1908年:ロシアの元老院は、ウクライナ民族運動の啓蒙家の活動を禁止する[12]。
- 1910年:ロシア首相ストルイピンは、「目的を問わず、ウクライナ人・ユダヤ人・その他の異民族の団体」を禁止する指令を出す[12]。
- 1914年3月:ロシア政府は、タラス・シェウチェンコ生誕100周年記念日を祝うことを禁止する[12]。
- 1914年:ロシア皇帝ニコライ2世は、ウクライナ語のマスコミを禁止する。ロシア軍によって占領されたガリツィア地方でウクライナ系の研究所・図書館・出版社・新聞社などが破壊され、ウクライナ人の一部がシベリアと沿海州へ強制移住される[12]。
- 1929年:ソ連政府は、ウクライナの民族運動の活動家の弾圧をはじめる[13]。
- 1929年‐1930年:ソ連政府は、農業集団化によってウクライナの文化の中心だった農村を破壊しはじめる。ウクライナ人の裕福な農民は「人民の敵」としてシベリアと沿海州へ流罪[13]。
- 1930年1月29日:ソ連政府は、ウクライナ独立正教会を廃止し、ウクライナ独立正教会の聖職者を逮捕して死刑する[13]。
- 1930年3月9日‐4月19日:ハルキウでの現存しなかった「ウクライナ解放団体」の裁判。団体に所属すると判断されたウクライナ人の文学者、科学者、聖職者が流刑・死刑に処される[13]。
- 1931年:旧ウクライナ人民共和国の関係者がソ連の秘密警察により逮捕される[13]。
- 1932年‐1933年:ソ連政府は、ウクライナで人工的な大飢饉(ホロドモール)を促進する。ウクライナ人の農家が壊滅し、数百万人が餓死する。無人の農村へロシアからロシア人の移住が始まる。クバーニ地方に生き残ったウクライナ人はロシア人として登録される[14]。
- 1933年5月13日:ソ連政府が行うロシア化政策に反対してウクライナ共産党の幹部のM. フヴィリョヴィーイとスクリープニクが自殺する[14]。
- 1933年11月22日:ウクライナの共産党は、ウクライナ化政策の実行を中止する。ウクライナ語の正書法はロシア語正書の規則にしたがって変造される[14]。
- 1934年‐1941年:ソ連政府は、8割のウクライナ人のインテリを抹殺し、ウクライナの市町村で多くの教会・修道院を破壊する[14]。
- 1936年10月‐1938年11月:ソ連政府は、ウクライナで大粛清を開始する。秘密警察は、ウクライナ共産党の幹部の全員を逮捕し、流刑地にいたウクライナの文化人が裁判なしで死刑する[15]。
- 1938年4月24日:スターリンは、「ソ連の自治共和国におけるロシア語学習の義務化について」の指令を出す。ウクライナの学校ではロシア語が必須科目となる[15]。
- 1938年6月18日:第14ウクライナ共産党大会は、ロシア化政策の強化を決める[15]。
- 1939年‐1941年:ソ連政府は、西ウクライナを併合して当地域のウクライナ人の知識人・民族運動家を流刑・死刑に処する[16]。
- 1941年‐1945年:第二次世界大戦中に1700万人のウクライナ人が死亡し、870の都市、3万の町村が全滅する。ソ連軍の進退により多くのウクライナ文化遺産が破壊され、捕虜となったウクライナの知識人が死刑にされる[16]。
- 1942年‐1955年:西ウクライナを中心にウクライナ蜂起軍の義兵が反独・反ソの戦いを続ける。ソ連の秘密警察は15万人のウクライナの義兵を殺害し、20万人の義兵の縁者・関係者をシベリアへ流刑させる。ロシアから西ウクライナへ派遣された教育関係者がロシア化政策を担当するようになる[17]。
- 1946年3月10日:ソ連政府とロシア正教会は、ウクライナ・カトリック教会を廃止する[17]。
- 1946年-1949年:ソ連政府とカガノヴィチを中心とするウクライナの共産党の幹部は、「ウクライナ資本主義的な民族主義」との戦いを宣言し、党内の粛清を行い、ウクライナの知識人・ウクライナ語話者に対する新たな迫害を開始する[18]。
- 1951年:共産党は、ソシュラの詩「ウクライナを愛して」とコルニイチュクのオペラ「ボフダン・フメリニツキー」に「ウクライナ資本主義的な民族主義の作品」としての焼印を押し、ウクライナ文化と[ウクライナ歴史の追求に対する弾圧を加える[18]。
- 1954年:ウクライナの共産党は、10万のウクライナの青年を「中央アジア・シベリアの開発」のために送り、その代わりにロシアからの移住者を受ける[19]。
- 1957年‐1961年:ソ連政府は、ウクライナにおける反宗教的宣伝を強化する[19]。
- 1958年11月12日:ソ連の共産党は、教育政策を決め、ソ連中でロシア化政策を強化する[19]。
- 1959年4月17日:ウクライナの共産党は、ウクライナにおけるロシア語を中心として学校で、ウクライナ語を必須科目から選択科目に転回する[19]。
- 1961年10月:第22ソ連共産党大会は、「ソ連国民」を創るために新たな「民族融合」政策を決定する。ウクライナでのロシア化が強化される[19]。
- 1963年:ソ連政府は、ウクライナ学士院の自治制を廃止し、モスクワのソ連学士院に所属させる[19]。
- 1965年-1969年:ソ連政府、ウクライナにおける共産党政権の批判者・人権擁護者に対し大規模の逮捕を行う[20]。
- 1970年:ドニプロペトロウシクでロシア化に反対するウクライナのインテリに対する裁判[20]。
- 1970年‐1981年:ソ連政府、ウクライナにおける共産党政権の批判者・人権擁護者に対し大規模の逮捕を行う(チェルノヴィル、ジューバ、ストゥース、ロマニュークなど)[20]。
- 1978年:ウクライナの共産党は、ウクライナの教育省を通して「ウクライナ共和国の義務教育機関におけるロシア学習の改善について」の指令を出す。ウクライナ語の学校でウクライナ語は選択科目となる[21]。
- 1983年:ソ連政府とソ連共産党は、ソ連におけるロシア語教育の促進・ロシア語教師の手当制度導入について指令を出す(アンドロポフ指令)[21]。
- 1983年:ウクライナの共産党は、ウクライナの教育省を通して「ウクライナ共和国の義務教育機関、就学前教育機関、およびその他の教育機関におけるロシア語学習の改善に関する追加手段について」の指令を出す。ウクライナにおけるウクライナ語の学校数が激減する[22]。
- 1989年:ソ連政府とソ連共産党は、ロシア語をソ連の公用語と定める[22]。
なお、1991年のソ連崩壊以降、独立したウクライナとロシア連邦の関係は良好とはいえず、緊張状態が今日まで続いている。
中央アジア[編集]
バルト三国[編集]
フィンランド[編集]
ベラルーシ[編集]
ポーランド[編集]
満洲[編集]
日本[編集]
脚注[編集]
- ^ 島名のロシア化に反対 北方領土住民「クナシルで育った」
- ^ 時論公論 「ロシア化進む北方領土」
- ^ 北方領土のロシア化を止めよ
- ^ a b c d e Півторак 2001:134.
- ^ Сон [1]// Тарас Шевченко. Зібрання творів: У 6 т. — К., 2003. — Т. 1: Поезія 1837-1847.
- ^ a b c d e f g h i j Півторак 2001:135.
- ^ Сборник русского исторического общества. — 1871. — Выпуск 7. — С. 348.
- ^ a b c d e f g h Півторак 2001:136.
- ^ a b 中井 1998:234-236.
- ^ 中井 1998:239-240.
- ^ 中井 1998:240-242.
- ^ a b c d e f g h i Півторак 2001:137.
- ^ a b c d e Півторак 2001:140.
- ^ a b c d Півторак 2001:141.
- ^ a b c Півторак 2001:142.
- ^ a b Півторак 2001:143.
- ^ a b Півторак 2001:144.
- ^ a b Півторак 2001:145.
- ^ a b c d e f Півторак 2001:146.
- ^ a b c Півторак 2001:147.
- ^ a b Півторак 2001:148.
- ^ a b Півторак 2001:149.
参考文献[編集]
- (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
- (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
- (ウクライナ語) Дзюба І. М. Інтернаціоналізм чи русифікація? — К., 1968.
- (ウクライナ語) Півторак Г. Походження українців, росіян, білорусів та їхніх мов. Міфи і правда про трьох братів слов'янських зі «спільної колиски». ― Київ: НАНУ, Академія, 2001.