カムチャツカ半島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
カムチャッカ半島
カムチャッカ半島の位置 地図中央に位置する南北に伸びる半島
座標 北緯57度 東経160度 / 北緯57度 東経160度 / 57; 160座標: 北緯57度 東経160度 / 北緯57度 東経160度 / 57; 160
面積 472,300km2
最高標高 4,835m
最高峰 クリュチェフスカヤ山
最大都市 ペトロパブロフスク・カムチャツキー
所在海域 太平洋
オホーツク海
ベーリング海
北東アジア
所属大陸・島 ユーラシア大陸
所属国・地域 ロシアの旗 ロシア
テンプレートを表示

カムチャツカ半島(カムチャツカはんとう、ロシア語Полуостров Камчатка パルオーストラフ・カムチャートカ、あるいはカムチャツカ)は、ユーラシア大陸の北東部にある半島である。南南西方向に伸びた半島であり、面積は472,300km2、長さ1,250km気候亜寒帯気候からツンドラ気候日本では、古くは勘察加(かむさすか)と呼んでいた。現在、全域がロシア連邦の領土であり、以前は南部がカムチャツカ州、北部がコリャーク自治管区に属していたが、2007年7月に両地域が合併してカムチャツカ地方となった。

地勢[編集]

南は千島列島占守島千島海峡を隔てて向かい合うロパトカ岬、中央部では東西に約450kmあり、北端のパラポリスキー地峡で100kmほどの幅に狭まった、南北に長い紡錘形をしている。半島の東側はベーリング海太平洋、西側はオホーツク海に面するが、アバチャ湾にある州都のペトロパブロフスク・カムチャツキーを初め主要港は東岸に集中している。

中央山脈(スレジンヌイ山脈)と東山脈が並行して南北に走り、環太平洋造山帯の一部を成す。ここ300年で50回もの大爆発をしている半島最高峰のクリュチェフスカヤ山(4,835m)など、多くの火山を抱えている。

カムチャツカ半島の高度分布地図 半島中央東に円形に白く描かれている標高の高い部分は半島の最高峰クリュチェフスカヤ山 (4,835m)。ロパトカ岬(南端)の緯度は北緯50度52分である。

東岸には北から順に、オリュトルスキー湾ロシア語版アナプカ湾ロシア語版カラギンスキー湾ロシア語版カラギンスキー島カムチャツカ川河口、カムチャツカ湾ロシア語版、アバチャ湾が位置する。

歴史[編集]

当地は、古代から中世にかけ、の記録に残り夜叉国に比定される北部の古コリャーク文化(6~17世紀)や東岸から南部にかけてのタリヤ文化の時代[1]を経て、近世以降、北部のコリャーク人や中部から南部にかけてのカムチャダールのほか半島中央内陸部に住むエヴェン人などが主な住民である。また、南端部に千島アイヌが古来より定着し、漂着した和人も居住。日本では安東氏松前藩の領有地として認識されていた。カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことである。イワン・カムチャツキーロシア語版セミョン・デジニョフなどのロシアの探検家によって、この地域の情報が集められた。17世紀末には入植が開始されている。

1697年、カムチャツカのはるか北部チュクチ半島近くにあるアナディリ(チュクチ名:カギリン)のアナディール城から、ウラジーミル・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、カムチャダールとの戦闘が起こった。カムチャダールの集落には大阪出身の伝兵衛という和人が居住していたが、アトラゾフに捕らえられペテルブルクに連行された。連行された伝兵衛は、ペテルブルクで日本語学校の校長として生涯を終えている。1700年元禄13年)、幕命により松前藩は勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。1706年頃にはカムチャツカはロシアによって占領される。1710年宝永7年)南部のサニマ(三右衛門)ら、カムチャツカ半島東岸ポロプロヴォエに漂着。

1713年頃には約500名のコサックが居住していた。1715年正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「十州島唐太チュプカ諸島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告。その後、1729年享保14年)、薩摩ゴンザとソウザら17名の乗った「若潮丸」が半島南端のロパトカ岬付近の東岸に漂着、二人以外は後にロシア側に殺害されたという。彼らも日本語教師となった。ロシア帝国が課した毛皮税(ヤサーク)の献納は先住民にとって大変過酷なものであり、1731年から1739年までカムチャダールの大反乱が起こったが、ロシア人はなどの武器を使用し反乱を制圧。デンマーク出身のベーリングにより2度の探検が行われ、1728年の最初の探検でアバチャ湾を発見。1740年第2次北東探検隊はアバチャ湾を拠点(後のペトロパブロフスク)とし、翌年以降カムチャツカ半島の太平洋岸を調査した。このころ、地理学者のステファン・クラシェニニコフらも訪れている。一方、第2次探検隊の別働隊は1738年元文3年)西岸のボリシェレツクから日本に向け航路の調査をおこない、日本では元文の黒船として記録が残っている。1745年延享2年)春に千島列島温禰古丹島に漂着した南部佐井村・多賀丸(竹内徳兵衛ら18人乗組)の漂流民10名が、同年5月、徴税人スロボーチコフに見つかりカムチャツカ半島に送られ日本語学校教師にさせられる。

Stepan Krasheninnikovの図 「Account of the Land of Kamchatka」(1755年)

1771年本拠地ポリシェレツクで流刑中の政治犯たちの反乱が発生し、カムチャツカの長官ニーロフが殺害された。首謀者・はんべんごろう(北ハンガリー出身のスロバキア人捕虜モーリツ・ベニョヴスキー)が聖ピョートル号を奪い脱出。彼らは土佐阿波奄美に寄港の際数通の書簡を残し、その中でロシアの日本侵略の意図を述べ蝦夷地蚕食の危険を警告。

大黒屋光太夫新蔵伊勢国神昌丸の漂流民一行がペテルブルクへ向かう途中、1787年天明7年)8月23日にカムチャツカ半島のウスチカムチャツクに到着の後、ニジニカムチャツクに移動。1788年(天明8年)6月15日、6人はニジニカムチャツクを離れ、カムチャツカ半島を横断してチギーリに着き、ここから船に乗り、オホーツクには8月30日に到着。約1年カムチャツカに滞在しており、当時の様子が「北槎聞略」に記されている[2]。1787年9月7日、フランス王国ラ・ペルーズ探検隊がペトロパブロフスクに寄港。

ペトロパブロフスクに上陸するクルーゼンシュテルン一行(1806年)

1804年文化元年)7月2日ペテロパウロフスクに善六若宮丸漂流民5名が到着。同年8月18日津太夫儀兵衛太十郎ら4名は遣日使節・レザノフに伴われナジェシダ号(船長はスウェーデン貴族・von Krusenstjerna家の子孫でエストニア出身のバルト・ドイツ人クルーゼンシュテルン)で帰国の途に就いた。善六は1806年(文化3年)春まで滞在。 一方、1804年(享和4年)7月18日北千島の幌筵島東浦に漂着した陸奥国・慶祥丸の継右衛門ら6人はカムチャツカに渡り、ロパトカ岬から20日ほどの航海で大きなアイヌの村落に着きしばらく滞在。文化元年(1804年)9月中旬ペテロパウロフスクに到着。滞在中6人は善六の世話を受けたが、文化2年(1805年)6月中旬帰国のためペテロパウロフスクを出航し15日ほどでロパトカ岬に着いた後、幌筵島に再上陸し択捉の会所へ向かった。

1811年(文化8年)2月7日カムチャツカ半島に摂津国船籍の歓喜丸の久蔵らが漂着。1812年(文化9年)拉致された高田屋嘉兵衛がペトロパブロフスクに連行され、翌1813年(文化10年)ディアナ号で嘉兵衛たちとともに出航した久蔵は8月箱館に送還。同年、薩摩藩主の手舟・永寿丸、春牟古丹島に漂着。 カリフォルニア沖で英国船に救助された小栗重吉尾張・督乗丸漂流民の生き残り3人も、帰国の途中ペトロパブロフスクで合流。文化13年(1816年)6月永寿丸と督乗丸の漂流民たち計6名がパヴェル号でペトロパブロフスクを出航、帰国の途に就き得撫島沖に送還された。

また、露米会社船による送還では、1836年天保7年)戸三郎ら越後の五社丸漂流民3名や1843年(天保14年)越中の長者丸漂流民6名がペトロパブロフスクから択捉に帰国している。これらロシア船による漂流民の送還は、アラスカなどの植民地経営に必要な物資、特に食料などを得るには地理的に近い日本との通商が必要と考えられたためである。

嘉永7年(1854年)加陽・豊島 毅らによってカムチャツカ半島を含む全蝦夷地を明記した「改正蝦夷全図」が作成された。同年にはクリミア戦争のため、英仏艦隊がペトロパブロフスク・カムチャツキーに来寇、ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦がおこなわれた。

大正時代1926年大正15年)8月10日、カムチャツカ半島西岸沖合の公海上にて宝来丸略奪事件が発生。この事件の発生は、日ソ基本条約締結の翌年である。

冷戦期にはアメリカ合衆国に最も近いソ連領として軍事地帯に指定され、1990年まで外国人の入域は禁止されていた。

気候[編集]

宇宙からの眺め。初夏(左)と晩冬(右) 宇宙からの眺め。初夏(左)と晩冬(右)
宇宙からの眺め。初夏(左)と晩冬(右)

カムチャツカ半島の気候亜寒帯気候からツンドラ気候

植物と動物[編集]

民族[編集]

その他[編集]

日本語訳において、かつては「カムチャッカ」と書かれることも多かった。「Камчатка」を現代の片仮名転写の一般例に照らせば「カムチャートカ」または「カムチャトカ」という表記になるが、日本語では慣習的な「カムチャツカ」や「カムチャッカ」の定着度が高いので現在でもそのような表記が用いられることは少ない。古くは「カムサツカ」(勘察加)と書かれたこともあった。

脚注[編集]

  1. ^ 菊池俊彦 『オホーツクの古代史』
  2. ^ 桂川甫周『北槎聞略・大黒屋光太夫ロシア漂流記』亀井高孝、岩波書店岩波文庫〉、1993年、38-41頁。ISBN 4-00-334561-4

関連項目[編集]

外部リンク[編集]