ロシアのシベリア征服

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ロシアのシベリア征服
ロシアの領土展開英語版
Surikov Pokoreniye Sibiri Yermakom.jpg
イェルマークのシベリア征服ワシーリー・スリコフ画)
1580年–17世紀後半
場所シベリア
結果

ロシアの勝利

  • シベリア領域の併合
  • シビル・ハン国消滅
領土の
変化
ウラル山脈から太平洋までの領域がロシアの支配するところとなる
衝突した勢力
Flag of Oryol (variant).svg ロシア・ツァーリ国
Flag of Don Cossacks.svg ドン・コサック軍
連合した現地のシベリア人英語版
シビル・ハン国(1598年まで)
ダウール族
ヤクート
コリャーク人
チュクチ
Flag of China (1862–1889).svg (1652年–1689年)
指揮官
Flag of Oryol (variant).svg イェルマーク 
Flag of Oryol (variant).svg アンドレイ・ヴォエコフ英語版
Flag of Oryol (variant).svg ピョートル・ベケトフ英語版
Flag of Oryol (variant).svg イヴァン・モスクヴィチン
Flag of Oryol (variant).svg エロフェイ・ハバロフ
Flag of Oryol (variant).svg ヴァシーリー・ポヤルコフ
Flag of Oryol (variant).svg ウラジーミル・アトラソフ
Flag of Russia.svg ドミートリイ・パヴルツキイ英語版  
クチュム英語版
グイグダールのダウール族王子
地域の1549年の地図、右手上の隅にユグラウゴル英語版の故国)
ロシアの1595年の地図(黄色の境界)、オイロパエパルスの東
チュクチアレウト族チュガチ英語版アルティーク英語版)が着る木と骨で強化した革で作った薄板の甲冑英語版[1]

ロシアのシベリア征服シビル・ハン国がロシア人探検家の活動で弱体化していった封臣制度の緩んだ政治構造になった16世紀と17世紀に起きた。数では勝ったが、ロシア人は忠誠心を変え襲撃を行う遠くの要塞を作るために様々な家族単位の部族に圧力をかけた。これに対抗してクチュム英語版汗は家臣にイスラム教を課し収税機構を改革することで支配を中央集権化しようとした。

シビル・ハン国の征服[編集]

ロシアのシベリア征服は、イェルマーク率いる約540名のコサックがシベリアの汗クチュム英語版の家臣マンシ人の領土に侵攻した1580年7月に始まった。一部のリトアニア人とドイツ人の傭兵と捕虜が加わっていた。1581年を通じてこの部隊はユグラとして知られる領土を横断しマンシ人オスチャーク英語版の町を征服した。この時クチュムの収税吏も確保した。

ロシアの前進に対する報復における一連のタタールの襲撃に続いて、イェルマーク軍はシベリアの首都カシリクを奪取する準備をした。部隊は1582年5月に出撃した。エルティシ川の川岸における3日間の戦闘の後、イェルマークはクチュム汗とタタールの連合した6人の王子の連合軍に勝った。6月29日、コサック軍はタタールに攻撃されたが、再び追い払った。

1582年9月を通じて汗はカシリク防衛のための部隊を集めた。シベリアのタタール英語版マンシ人オスチャーク英語版の群衆が侵攻するコサックに対する防衛のためにチュヴァシュ山英語版に集まった。10月1日、タタールの要塞を急襲するコサックの計画は、延期された。10月23日、タタールが反撃するとコサックは4度チュヴァシュ山のタタールの要塞を急襲しようとした。100名以上のコサックが死んだが、銃撃でタタールは撤退を余儀なくされタタールの大砲2門が奪われた。汗の部隊は撤退し英語版、イェルマークは10月26日にカシリクに入城した。

クチュム汗はステップに撤退し、続く数年を超えて部隊を再編成した。1584年8月6日の真夜中にイェルマークを突然攻撃し、軍勢の殆どを破った。詳細はイェルマークが負傷しエルティシ川支流のワガイ川英語版を泳いで渡ろうとしたが鎧の重みで溺れたと主張するロシアの出典に異論が出ている。マスチェリャークが指揮する残りのイェルマーク軍は、引き去るに当たってカシリクを破壊しながら撤退した。1586年にロシア軍は戻ってきて、大砲を使ってハンティ人マンシ人を鎮圧すると、カシリクの廃墟近くのチュメニに要塞を築いた。クチュム汗に従順なタタール族は、1584年から1595年にかけてのロシア軍の数度の攻撃に苦しんだが、クチュム汗は捕まらなかった。遂に1598年8月にクチュム汗はオビ川近くのウルミンの戦い英語版で敗れた。戦いの中でシベリアの王家はロシア軍に捕えられた。しかしクチュム汗は再び逃げた。ロシア軍はクチュム汗の家族をモスクワに連行し、そこで人質として残した。汗一族の子孫は、シビル家の王子英語版として知られることになり、一族は少なくとも19世紀後半まで続いたことが知られている。

単独で逃げた一方で、家族が捕えられたことは、クチュム英語版汗の政治的・軍事的活動を終わらせ、南シベリアのノガイ・オルダの領土に撤退させた。ツァーリと接触していて、エルティシ川の川岸の狭い領域が領土として保障されるよう要請していた。このことはモスクワに来てツァーリに使えて「自身を慰めろ」とクチュム汗に提案したツァーリに拒否された。しかし老練な汗は、そのような蔑みを受け入れることを欲せず、モスクワで「自身を慰める」よりも自信の土地に留まる方を好んだ。クチュム汗はその時ブハラに行き、一人の老人として失明して1605年頃に嘗ての遠い親戚と亡命生活を送りながら死んだ。

征服と探検[編集]

ロシアの拡大
チュメニの新造の砲台のモスクワ大公国のヴォエヴォダ(レメゾフ年代記英語版より)

原住民を手懐けヤサク英語版(毛皮の貢物)を集めるために一連の冬の前哨基地(ズィモヴィエ)と要塞(オストログ)が主な河川と重要な連水陸路の合流点に造られた。こうしたものの最初のものは、チュメニトボリスクで、前者は1586年にヴァシーリイ・スーキンとイヴァン・ミヤスノイにより造られ、後者は翌年ダニーロ・チュルコフにより造られた[2]。トボリスクは征服の中枢地となる[3]。東に向かってはスルグト(1594年)とタラ英語版(1594年)がトボリスクを防衛しハンティ人の支配者を制圧するために造られた一方で、北に向かってはベリョーゾヴォ英語版(1593年)とマンガゼヤ(1600年-1601年)が貢物をネネツ人にもたらすために造られた。この内東方への更なる探検の拠点となるマンガゼヤは最も重要であった[4]

オビ川とその支流を遡ってケチ川(1602年)とトムスク(1604年)のオストログが建設された。スイム英語版に向かって下るケチのスルジリェリウディ(「軍人」)が1605年にエニセイ川に到達し、2年後マンガゼヤのプロムイシレンニキ英語版と交易人がズィモヴィエトゥルハンスク英語版を建設したトゥルハン川英語版をエニセイ川との合流点に向かって下った。1610年までにトゥルハンスクの男達は、エニセイ川河口に到達していて、ケチの対立する貢物収集人と出会うスイムまで遡った。原住民の服従を確実なものにするためにエニセイスク(1619年)とクラスノヤルスク(1628年)のオストログが建設された[4]

汗が死に組織化されたシベリアの抵抗が消滅すると、ロシアは初めてバイカル湖に更にオホーツク海アムール川に向けて前進した。しかし初めて中国との境界に到達すると、大砲を装備する人々と遭遇し、ここで足止めを食らった。

1620年から1630年の東北アジア。ロシアの開拓移民が地図の左上にいる。

ロシアは1639年に太平洋に到達した[5]シビル・ハン国を征服すると(1598年)、北アジア全域(嘗ての汗国より広大な地域)がシベリアとして知られることになり、1640年までにロシアの東の国境が数百万平方キロメートル以上に広がっていた。ある意味で汗はロシアの専制君主の完全なロシア帝国の特徴の一部となる派生的な称号「シベリアのツァーリ」の中に存続した。

1533年から1896年にかけてのロシアの地図

シベリア征服は疾病の拡大ももたらした。歴史家ジョン・F・リチャーズ英語版は書いた。「・・・統計上近代初期のシベリアの人口が30万人を超えたということは疑いがある。・・・新たな感染でシベリアの原住民は弱体化し混乱した。」迅速に拡大し死亡率が高く生存者が永久に美観を損ねたことから「最悪の例は、天然痘であった。・・・1650年代、ツングースとヤクートの人口の80%まで失わせたエニセイの東に移動した。1690年代、天然痘はユカギルの人口を約44%まで減少させた。疾病は急速にシベリアの部族間を移動した。」[6]

現地での人口減[編集]

先住部族に占領されていた地域に到着してコサックは白いツァーリに服従しヤサクを払う提案を携えて平和的な対話に入ったが、この交渉はいつも成功裏に進んだわけではない。嘆願が拒否されると、コサックは武力で応じる道を選んだ。1645年のヴァシーリー・ポヤルコフや1650年のエロフェイ・ハバロフのような人の手でダウール族などの多くの人がコサックに殺された。カムチャツカ半島の嘗ての2万人から8000人がロシアが征服してからの半世紀後に残った[7]。ハバロフが初めて来た時はロシアの残酷さを聞いたのでダウール族は当初村を捨てた[8]。二度目に来た時はダウール族は逆にロシアと戦うことを決めたが、ロシアの銃砲で虐殺された[9]。17世紀、アムール地方の原住民は、「赤髭」として知られることになるロシア人に攻撃された[10]

西洋の歴史家スティーブン・シェンフィールド英語版によると1640年代にヤクートレナ川近くの土地にロシアが侵攻している間に暴力的な遠征に支配され、1690年代のカムチャツカ半島ではコリャークやカムチャダルイ英語版、チュクチもロシアに支配された[11]。ロシアが要求した量のヤサク英語版を先住民から得られないと、コサックのヤクーツク知事ピョートル・ゴローヴィンは、先住民を吊そうと肉用の留め金を用いた。レナ川流域ではヤクート70%が40年に亘り拒否し、強姦や奴隷化がヤサクを先住民に払わせるために先住民の女性や子供に対して用いられた[8]

ジョン・F・リチャーズによると、

天然痘は1630年に初めて西シベリアに達した。1650年代、ツングースとヤクートで80%にまで感染したエニセイの東に移動した。1690年代、天然痘の流行英語版でユカギルの人口は44%にまで減少した。疾病は急速にシベリアの部族間を移動した。流行による死亡率は、人口の50%に達した。若者に激しい結果をもたらして災難は20年-30年の間隔で戻ってきた。[6]

カムチャツカ半島ではロシア人は1706年と1731年、1741年にロシア人の支配に対するイテリメン族の反乱を鎮圧し、1回目はイテリメン族は石の武器で武装し、準備不足で装備を整えたが、2回目は火薬の武器を使った。1745年から1756年まで勝利の時まで銃と弓を装備したコリャーク人を手なずけようとするとロシア人は更に強力な抵抗を受けた。ロシアのコサックも激しい抵抗を受け、1729年、1730年から1731年、1744年から1747年にチュクチを集団殺戮で絶滅させるのに失敗すると降伏せざるを得なかった[12]。1729年にチュクチ領でロシア人が敗れると、ロシアの司令官パヴルツキイ少佐はチュクチ戦の責任者になり1730年から1731年に大量殺戮とチュクチの女性や子供の奴隷化を行ったが、その残忍性はチュクチの戦いを一層激しくしただけであった[13]。チュクチとコリャーク人に対する殺戮は、元々の土地から完全に追い出し戦争で文化を消去するように1742年にエリザヴェータ皇帝から命じられた。この命令は先住民はチュクチの男性を大量殺戮し戦利品として女性と子供を奴隷にする「全能の神の助けを得て殿下の獲得品に」コサックを率いた1744年から1747年のこの戦争で再び率いるパヴルツキイと共に「完全に絶滅されるべき」というものであった。しかしチュクチはこの戦役を終え、パヴルツキイを殺し首をはねて降伏させた[14]。ロシア人も戦争を開始し、1744年と1753年から1754年にコリャーク人に対する大量殺戮を開始した。ロシア人が先住民をキリスト教に改宗させようとすると、コリャーク人やチュクチ、イテリメン族、ユカギール人のような異なる先住民は全て1746年にニジネカムチャツク要塞に対する攻撃で最高潮に達しながら1740年代に自分達の土地からロシア人を追い出そうと連合した[15]。今日のカムチャツカは、ロシアが支配した最初の10年を通じてイテリメン族やコリャーク人の1697年の併合後にコサックに大量殺戮されたために嘗ての15万人が約1万人に先住民がたった2.5%に減少しながら人口統計や文化の上でヨーロッパに属している。コサックによる殺戮は、カムチャツカ半島の先住民を打ちのめした[16]。大量殺戮に加えてコサックは毛皮の為に大量の動物を殺戮したことで野生生活も打ちのめした[17]カムチャダル族英語版の90%とマンシ人の半数が18世紀から19世紀にかけて殺され、現地の人々が急速に大量殺戮されたことで1882年現在ニコライ・イアンドリツェフにより名付けられた約12の部族が絶滅しながら全部族が完全に絶滅することになった。大量殺戮の多くは、毛皮取引により行われた[18]

西洋の歴史家ジェームズ・フォーシス英語版によると、アリュート族の女性と子供がこの関係を維持する方法として人質として捕えられる一方でアリューシャンの男性がロシアの為に狩りをしたので、ロシアが支配した最初の20年はロシアの臣民であった[19]

シベリアにおけるロシア人の19世紀におけるオブラストニキは、先住民が計り知れない暴力的な搾取を受けかねなかったことを認め、提案された地域政策を伴う状況を改めることになったと主張した[20]

ロシアによるシベリアの植民地化と当地の先住民の征服は、先住民に対する同様のマイナスの影響や土地の収用と共にヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化や先住民への対応と比較されてきた[21]。スラブ系ロシア人はブリヤート系先住民やアルタイ系先住民を凌駕しながらスラブ系ロシア人がブリヤート共和国アルタイ共和国で多数派を形成しながらトゥヴァ共和国を除くシベリアやそこの都市の先住民全てを凌駕した。ブリヤート人は自分の共和国で29.51%しか占めておらず、アルタイ人は3分の1しか占めておらず、チュクチやエヴェンキハンティ人マンシ人ネネツ人は、人口の90%を非先住民に凌駕されている。先住民は生活様式を変えるようツァーリやソ連の政策に狙い撃ちされ、少数民族のロシア人は、ツァーリやソ連に挑発された先住民のトナカイの群れやワイルドゲームを与えられた。トナカイの群れは、絶滅させる失敗を犯している[22]

アイヌは自分達が千島列島の先住民であり日本とロシアが共に侵攻したと力説してきた[23]。2004年、カムチャツカクライに暮らすアイヌの小さな村落は、南千島列島を日本に渡すいかなる動きも再考するよう要請する手紙をウラジーミル・プーチンに書いた。手紙では殺害や同化のようなアイヌに対する犯罪で日本や帝政ロシア、ソ連を共に非難し、プーチンが拒否するアイヌに対する日本の集団殺戮も認定するよう要請した[24]

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. ^ "Tlingit, Eskimo and Aleut armors." Archived 2014-02-22 at the Wayback Machine. Kunstamera. Accessed 10 Feb 2014.
  2. ^ Lantzeff, George V., and Richard A. Pierce (1973). Eastward to Empire: Exploration and Conquest on the Russian Open Frontier, to 1750. Montreal: McGill-Queen's U.P. 
  3. ^ Lincoln, W. Bruce (2007). The Conquest of a Continent: Siberia and the Russians. Ithaca, N.Y.: Cornell University Press 
  4. ^ a b Fisher, Raymond Henry (1943). The Russian Fur Trade, 1550–1700. University of California Press 
  5. ^ 2008-03-31 Reference Nationalencyklopedin http://ne.se/jsp/search/article.jsp?i_art_id=715527
  6. ^ a b Richards, John F. (2003). The Unending Frontier: An Environmental History of the Early Modern World. University of California Press. p. 538. ISBN 0520939352. https://books.google.com/books?id=i85noYD9C0EC&pg=PA538 
  7. ^ Bisher, Jamie (16 January 2006). White Terror: Cossack Warlords of the Trans-Siberian. Routledge. ISBN 1135765952. https://books.google.com/books?id=Mg6RAgAAQBAJ&pg=PA6&dq=Cossack+genocide+indigenous+Dauri+Amur+Kamchatka#q=Cossack+genocide+indigenous+Dauri+Amur+Kamchatka 
  8. ^ a b “The Amur's siren song”. The Economist. (2009年12月17日). http://www.economist.com/node/15108641 2014年8月15日閲覧。 
  9. ^ Forsyth 1994, p. 104.
  10. ^ Stephan 1996, p. 64.
  11. ^ Levene 2005, p. 294.
  12. ^ Black, Jeremy (1 October 2008). War and the World: Military Power and the Fate of Continents, 1450–2000. Yale University Press. ISBN 978-0300147698. https://books.google.com/books?id=xpI_YYtvlCAC&pg=PT210&dq=Cossack+genocide+kamchatka#q=Cossack+genocide+kamchatka 
  13. ^ Forsyth 1994, pp. 145–6.
  14. ^ Forsyth 1994, p. 146.
  15. ^ Forsyth 1994, p. 147.
  16. ^ "Yearbook" 1992, p. 46.
  17. ^ Mote 1998, p. 44.
  18. ^ Etkind 2013, p. 78.
  19. ^ Forsyth 1994, p. 151.
  20. ^ Wood 2011, pp. 89–90.
  21. ^ Batalden 1997, p. 36.
  22. ^ Batalden 1997, p. 37.
  23. ^ McCarthy, Terry (1992年9月22日). “Ainu people lay ancient claim to Kurile Islands: The hunters and fishers who lost their land to the Russians and Japanese are gaining the confidence to demand their rights”. The Independent. https://www.independent.co.uk/news/world/ainu-people-lay-ancient-claim-to-kurile-islands-the-hunters-and-fishers-who-lost-their-land-to-the-russians-and-japanese-are-gaining-the-confidence-to-demand-their-rights-reports-terry-mccarthy-1552879.html 
  24. ^ Камчатское Время”. kamtime.ru. 2021年8月1日閲覧。

参考文献[編集]

地理、時事問題に関する地図[編集]

  • Barnes, Ian. Restless Empire: A Historical Atlas of Russia (2015), copies of historic maps
  • Catchpole, Brian. A Map History of Russia (Heinemann Educational Publishers, 1974), new topical maps.
  • Channon, John, and Robert Hudson. The Penguin historical atlas of Russia (Viking, 1995), new topical maps.
  • Chew, Allen F. An atlas of Russian history: eleven centuries of changing borders (Yale UP, 1970), new topical maps.
  • Gilbert, Martin. Atlas of Russian history (Oxford UP, 1993), new topical maps.
  • Parker, William Henry. An historical geography of Russia (Aldine, 1968).