弥生人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

弥生人(やよいじん、Yayoi people)とは弥生時代の人々を指す。大陸から渡来し縄文人と交流して新文化を形成した人びと(渡来系弥生人)、縄文人が新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人)、そして両者の混血で生まれた人びと、およびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれるとされている[1]。古い資料では、渡来系弥生人のみを指して弥生人として書かれている場合があるため注意が必要である。

概要[ソースを編集]

縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人や縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(中国福建省付近)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)、古墳時代の墳墓から抜け出てきたような弥生人(新弥生人)、さらに南九州には琉球諸島の貝塚人に似た弥生人(南九州弥生人)がいた[2]

近年のミトコンドリアDNAハプログループY染色体ハプログループの研究によって、日本人中国人朝鮮人とのY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していた訳ではなく、融和、混血していったものと考えられる[3]。また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。

起源[ソースを編集]

弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。そもそも弥生時代とは、弥生土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる[4][5]。水稲には中国大陸から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から朝鮮半島南部を経由して日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。

一般には、弥生人は中国から朝鮮半島を経て水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。O1b2系統は、オーストロアジア語族の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、満州や朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷はO1b系統(O1b1/O1b2)はかつては長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[6]翰苑』の『魏略』逸文などは、倭人は江南地方の太伯文王の伯父、紀元前12世紀頃の人とされる)の末裔を称したとしている。 しかしながら、長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視する見方や、上記の説より遥か早期に北上したという見方もある[要出典]。加えて、漢民族に多く見られるO2系統も弥生人に含まれていた可能性が高い。しかしO1b2とO2がルーツが異なり、その渡来時期、ルートなどはまだまだ不明な点も多い

また渡来した弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという説もある[7][8][9]

土井ヶ浜遺跡の弥生人が北部モンゴロイドの特徴を持つことや考古要素などから、弥生人の起源地として、沿海州南部に求める見方もある。岡正雄の日本人起源説の「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」[10][11]鳥居龍蔵説の「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」[12]がこれに対応すると思われる。先述の長江起源説が遺伝学的証拠に乏しい一方、東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認されるため、近年ではこちらの説を推す声も多くなっている[要出典]

特徴[ソースを編集]

頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代の河南省、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった[13]

また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも高い。しかしながら、こうしたの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。[14]

一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し[15]、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[16]。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた[17]

佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が弥生人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている[18]

下戸[ソースを編集]

弥生人に関連する体質として、下戸が存在する。下戸遺伝子は中国中南部で誕生したと考えられている[要出典]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ 世界大百科事典
  2. ^ 片山一道『骨が語る日本人の歴史』
  3. ^ 溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)『日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)』
  4. ^ 春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたが、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。(『歴博特別講演会配布資料弥生時代の開始年代-AMS年代測定法の現状と可能性-AMS年代測定法の現状と可能性 -』)。
  5. ^ 中国(長江文明)における稲作は、長江中流域における陸稲が約10000 - 12000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6000 - 7000年前に遡ると言われている。
  6. ^ 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)
  7. ^ 岡正雄『異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成』 言叢社 1979
  8. ^ 徳永勝士 (2008)「HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!」『日本人のルーツがわかる本』逆転の日本史編集部,東京:宝島社,p264-p280
  9. ^ 徳永勝士 (2003)「HLA と人類の移動」『Science of humanity Bensei 』(42), 4-9, 東京:勉誠出版
  10. ^ 異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成 言叢社 1979
  11. ^ 『異人その他 他十二篇 岡正雄論文集』岩波文庫、1994年
  12. ^ 『鳥居龍蔵全集』第1巻、朝日新聞社、1975年
  13. ^ 中国江南・江淮の古人骨-渡来系弥生人の原郷をたずねる-山口 敏・中嶋孝博 2007年
  14. ^ 「なぜ農耕文化は終わったのか」岡村道雄『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年4月
  15. ^ 東アジアと『半島空間』―山東半島と遼東半島 千田 稔 ,宇野 隆夫
  16. ^ 金関の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  17. ^ 今日の渡来説”. 九州大学総合研究博物館. 2013年4月19日閲覧。
  18. ^ 佐原真「農業の開始と階級社会の形成」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年

関連項目[ソースを編集]