檀君朝鮮

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檀君朝鮮
紀元前2333年 - 紀元前1112年 馬韓
首都 阿斯達
檀君王倹
? - ? 檀君
? - ? ?
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
檀君朝鮮
各種表記
ハングル 단군조선
漢字 檀君朝鮮
発音 タングンチョソン
日本語読み: だんくんちょうせん
2000年式
MR式
Dangun Joseon
Tankun Chosŏn
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朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
統一
新羅
熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、檀君王倹が紀元前2333年に開いたとされたという国の名前。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述から計算して檀君の即位した年を紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。

檀君

内容[編集]

高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に魏書からの引用と見られるのが文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。檀君は陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』など中国の史書にはまったく該当する記述がない。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の朝鮮民族主義歴史学の拠り所としている韓国北朝鮮を除いては信頼性や価値がある文献であるとされていない。中国の史書にはまったく登場せず、初めて朝鮮の歴史書に登場するのが12世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出てくる。通常は神話として扱われ、歴史事実とは看做されていない。初めて朝鮮の歴史書に登場するのが12世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出ており、本質的には「中世の仏教説話」の一部である。なお、偽書とされる『桓檀古記』、『揆園史話』には『三国遺事』とは異なる記述がなされている。

『三国遺事』[編集]

『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、。桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう、)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。

その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭のが人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク、ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。

虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ、)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。

檀君は、(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。

『帝王韻記』[編集]

高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたという。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。

王倹について[編集]

平壌の古名として「王険」「王険城」が『史記』朝鮮列伝に出てくるのが初出であり、元来は地名である。12世紀の高麗時代に成立した正史『三国史記高句麗本紀第五東川王の条には人名として王倹という語が出てくるが、平壌にかつて住んでいた仙人の名前としてであって、檀君という王がいたことは全く書かれていない。

中国の記録について[編集]

中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに紀元前4世紀頃から有った事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。

現代の檀君朝鮮[編集]

後世の創作[編集]

『桓檀古記』[編集]

桓檀古記』(かんだんこき)の主な檀君朝鮮関連を挙げる。

  • 「三聖記」上編:桓雄までは『三国遺事』とほぼ同じ。桓雄の子ではない神人王倹が檀の木の岡に降り阿斯達を都とし朝鮮と号した。檀君王倹である。妻は河伯の娘。朝鮮から大扶餘と号した。47代2096年まで続いた。
  • 「三聖記」下編:桓雄は桓因ではなく安巴堅の庶子。桓雄の息子の檀君王倹は有帳という名で別伝では倍達王倹といった。その子は居佛理のち18代居佛まで続いた。
  • 「檀君世紀」:桓因の子檀君王倹の子孫47代世古列加までの史書
  • 「太白逸史」の「三韓管境本紀」:桓雄の子ではない神人王倹が国を三韓に分け辰韓を治めた。桓雄は阿斯達を国とし朝鮮と号した。神人王倹は馬韓を熊伯多、番韓を蚩尤男(蚩尤の末裔という)に治めさせた。

この本は、超古代からの朝鮮半島の歴史を詳細に書き綴っているが、この本は書いたのが桂延壽という人であり、最初に出版されたのが1911年である点からも近代になって作られた話であるのが分かる。また、現行版の「桓檀古記」は1949年に書かれたもので、出版が1979年であった。内容をみると、清の嘉慶5年(1800年)に命名された「長春」という地名の表記があったり、男女平等、父権など、近代になってから登場した社会用語がそのまま使用されている等、明らかに20世紀に入ってから作られた偽書であることが確実視されている。要するに、明治にはいり日本が韓国を併合(日韓併合、明治43年)した後、朝鮮人の桂延壽が愛国心から、日本の記紀を真似て、「朝鮮の国の方が日本の倍くらい古い歴史がある」とばかり書きなぐってできあがったものであると考えられている。

『揆園史話』[編集]

上古、朝鮮半島から満州・モンゴル・中国北部に至る広大な版図を誇った帝国「檀君朝鮮」があったと伝える偽書。1972年に韓国国立中央図書館古書審議議員の李家源、孫寶基、任昌淳3人が17世紀の著であることを確認する認証書を公表したというが根拠不明であり、偽書説を覆すものではない。

『檀奇古史』[編集]

成立時代[編集]

武田幸男によると、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)が登場したのは、『三国遺事』と『帝王韻記』が著作される13世紀末期以前であり、『三国遺事』が拠る『古記』と『帝王韻記』が拠る『檀君本紀』は『三国史記』より古く、『三国史記』が拠る『旧三国史』系統の記事であることから、11世紀以前とする見解が多いという。そして、契丹の高麗侵攻の頃に形づくられ、モンゴルの高麗攻略の際に高い関心を引いて、朝鮮民族が巨大な苦難に直面するときに、民族統合の精神的エネルギーとなったという[1]田中俊明は、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)はモンゴルの高麗侵攻時に、抵抗の拠り所とすべく成立されたとする意見を、外圧によってナショナリズムが覚醒するのは歴史の常としつつ、「檀君神話は、成立が少し遅れる『帝王韻記』にもみえており、『三国遺事』とは別の典拠があったようにみえる。その典拠の成立は、少なくとも、10世紀までさかのぼらせることが可能であり、とすれば、あらたに形成された伝説であっても、モンゴル侵入とは無関係であったと考えざるを得ない。そしてその場合、民族自尊の意識という点では、契丹の侵入がその背景にあったとみなすことができる。ただし、モンゴル侵入期においても、民族統合のシンボルとして機能したことは十分に考えられる。」とする[2]矢木毅によると、『漢書』地理志をはじめ中国史書にも檀君朝鮮に関する伝承はただの一言も触れられておらず、檀君朝鮮を伝える文献が存在しないことから、それらの史書が作られた当時は、檀君朝鮮の伝承が成立していなかったと考えるのが自然であり、檀君朝鮮の舞台は、太伯山と阿斯達であり、これらは平壌の周辺に存在するが、平壌の地は統一新羅の領域外であり、高麗の初代王王建の北進政策により、高麗の領域に入ったにすぎず、従って高麗中期に平壌に存在した土俗的な信仰から創出された後世の説話であることが「定説」という[3]井上直樹によると、韓国において琵琶形銅剣支石墓の分布範囲に基づく檀君朝鮮の研究成果からは、『三国遺事』と『帝王韻記』にみられる檀君朝鮮記事は首肯しがたい状況であるという。日本では、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)は平壌に伝わる信仰と仏教道教要素が加味されたものであり、『三国遺事』と『帝王韻記』は、『三国史記』が拠る『旧三国史』の檀君朝鮮記事を引用しているため、10世紀〜11世紀頃の契丹の高麗侵攻時代に形作られ、モンゴル軍の高麗侵攻時代など朝鮮民族が受難を迎えた時に民族統合のエネルギーとなったのが「通説」であり、「そこから歴史的事実を追究するのは困難である」と評する[4]

韓国・北朝鮮での捉え方[編集]

論点[編集]

李氏朝鮮時代、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる歴史の連続だと考えた。からの難民の箕子朝鮮と新羅(新羅の前身辰韓からの難民)はこのように価値づけられ、檀君朝鮮と高句麗は重要だとは考えられなかった[5]。しかし1930年代に、民族主義的ジャーナリスト申采浩(ko:신채호)(1880-1936)の影響を受けて、中国の箕子朝鮮より、朝鮮の檀君朝鮮の方が重要視されるようになり[6]、檀君朝鮮は民間信仰を、箕子朝鮮は儒教を背景にして、韓国では自国文化尊重ということから、民族文化を形成する檀君朝鮮がだんだん有利となる[7]。申采浩にとって、檀君は朝鮮民族と朝鮮最初の国の創設者であり、朝鮮の歴史のために必要な出発点だった[8]。檀君を『三国遺事』の著者による創作だとする白鳥庫吉今西龍による批判に対して、民族主義的歴史家崔南善は、日本神話は創作されていると批判した[9]。申にとっては、檀君のような古代の人物が朝鮮を作った事は朝鮮が中国より古い事を証明し、檀君が中国を植民地化した事は朝鮮が中国よりも優れている事を証明し、中国神話の皇帝と賢人は本当は朝鮮人だったと主張した[10]

韓国の歴史教科書における檀君朝鮮[編集]

大韓民国教育部の韓国教育開発院が1999年に刊行した『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、日本の教科書『日本史A』に対して、朝鮮史における最初の国家が古朝鮮であるにもかかわらず、朝鮮がはじめて登場するのは漢四郡であること、それは「結果的に朝鮮史の上限を引きずり下ろし、朝鮮の歴史がはじめから中国の支配を受けていたかのように暗示している」という[11]。『日本史B』も日本の朝鮮古代史研究の影響のため古朝鮮の記述はない[12]。韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として壇君神話を紹介している[13]。そのことから古朝鮮は韓国国民に広く知られている[14]。『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、望ましい『日本史A』として、韓国の『国史』には記述されているため、朝鮮半島にも旧石器時代から人が住んでいたこと、最初の国家である古朝鮮の実態を認定して、朝鮮の青銅器文化が日本の青銅器文化に影響をあたえたことを明らかにすること、としている[15]

青銅器文化が形成され、満州遼寧地方と韓半島西北地方には、族長(君長)が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合し、古朝鮮を建国した。檀君の古朝鮮建国は、わが国の歴史が非常に古いことを示している。また檀君の建国事実と「弘益人間」の建国理念は、わが民族が困難に直面するたびに自矜心を呼び起こす原動力となった。その他にも檀君の建国説話を通して、わが民族が初めて建国した時の状況を推測することができる。熊と虎が登場することからは、先史時代に特定動物を崇拝する信仰が形成され、その要素が反映していることが知られる。また雨・風・雲を主管する人物がいることからは、わが民族最初の国家が農耕社会を背景に成立したことを推測することができる。 —  中学校『国史』 (p18)

中学『国史』では、檀君が朝鮮最初の国家を建国したことを明示して、檀君説話を通して建国時の状況を推測できるとして、朝鮮最初の国家は農耕社会として成立したと叙述する[16]

古朝鮮建国の事実を伝える檀君説話は、わが民族の始祖神話として広く知られている。檀君説話は長い歳月を経て伝承され、記録として残されたものである。その間に、ある要素は後代に新たに追加され、時には失われもした。神話は、その時代の人々の関心が反映されたもので、歴史的な意味が込められている。これはあらゆる神話に共通する属性でもある。檀君の記録も同じく、青銅器時代の文化を背景とした古朝鮮の成立という、歴史的事実を反映している。 —  高等学校『国史』 (p32-p33)

高校『国史』は、檀君説話は朝鮮の始祖神話であるが、単なる神話ではなく歴史的事実を示すものであると叙述する[17]

農耕の発達により剰余生産物が生まれ、青銅器が使用される中で、私有財産制度と階級が発生した。その結果、富と権力をもつ族長(君長)が出現した。族長は、勢力を伸ばして周辺地域を合わせ、ついには国家を築いた。この時期に成立したわが国最初の国家が、古朝鮮である。以後、古朝鮮は鉄器文化を受容しながら、中国と対決するほどに大きく発展した。 —  高等学校『国史』 (p26)

高校『国史』は、朝鮮最初の国家は古朝鮮であると明言して、「わが民族」と檀君とを直接的結びつける[18]

族長社会でもっとも早く国家に発展したのは古朝鮮であった。『三国遺事』や『東国通鑑』の記録によると、檀君王倹が古朝鮮を建国したとする(紀元前2333)。檀君王倹は当時の支配者の称号であった。 —  高等学校『国史』 (2006年3月1日発行)

族長社会でもっとも早く国家に発展したのは古朝鮮であった。『三国遺事』や『東国通鑑』の記録によると、檀君王倹が古朝鮮を建国した(紀元前2333)。檀君王倹は当時の支配者の称号であった。

—  高等学校『国史』 (2007年3月1日発行)

1981年大韓民国教育部長官安浩相朝鮮語: 안호상)が1檀君は実在の人物2檀君の領土は中国北京まで存在した3王倹城は中国遼寧省にあった4漢四郡中国北京にあった5百済3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した6新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅国境は北京にあった7百済日本文化を築いたという「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出した[19]後に作られた、1982年『国史』から2006年『国史』までは、古朝鮮の建国は、「檀君王倹が古朝鮮を建国したとする」と『三国遺事』を引用して、歴史的事実である可能性を叙述する[20]。しかし2007年『国史』からは、「檀君王倹が古朝鮮を建国した」とし、『三国遺事』からの単純な引用ではなく、歴史的事実として確定する[21]

新石器時代に続き、韓半島では紀元前10世紀頃に、満州地域ではこれに先立つ紀元前15~13世紀頃に、青銅器時代が展開した。 —  高等学校『国史』、2006年』 (p27)

新石器時代末の紀元前2000年頃に、中国の遼寧や、ロシアのアムール川および沿海州地域から入ってきた粘土帯刻文土器文化は、先行する櫛歯文土器文化と約500年間共存した末に、次第に青銅器時代へと移行した。これが紀元前2000年頃から紀元前1500年頃のことで、韓半島の青銅器時代が本格化した。 —  高等学校『国史』、2007年』 (p27)

2006年『国史』までは、紀元前10世紀青銅器が伝来したが、古朝鮮は紀元前2333年に建国されたとして、古朝鮮は石器時代に国家が形成された世界でも例を見ない国家となる[22]2006年『国史』までは、檀君による古朝鮮建国は事実としつつも、紀元前2333年という建国年は容認しなかったが、2007年『国史』からは、青銅器伝来時期についての記述を通じて、檀君による古朝鮮建国のみならず建国年まで事実とする[23]

わたしたちの同胞は、最初の国である古朝鮮を建て、高句麗・百済・新羅に続き、統一新羅と渤海を経て発展してきた。わたしたちの同胞が発展してきた過程を、歴史的人物と文化財を中心に詳しく見てみよう。 —  初等学校『社会6-1』』 (p4)

わたしたちの祖先は、青銅器文化を基礎に、最初の国家である古朝鮮を建てた。上の文章は、古朝鮮の建国を伝える檀君説話である。ユミのクラスでは、檀君説話を読んで、古朝鮮について話し合ってみた。『三国遺事』の檀君の建国説話について意見を交わしたユミのクラスの生徒たちは、様々な資料を調べて、古朝鮮とその後の国々について整理してみた。《古朝鮮の建国》国を建てた人:檀君王倹、建国の時期:紀元前2333年、都の場所:阿斯達、国を治める精神:広く人間を有益にするという「弘益人間」の精神 —  初等学校『社会6-1』 (p7-p8)

小学『社会』では、青銅器を基礎に紀元前2333年に檀君によって建国された古朝鮮が朝鮮最初の国家と明言する[24]。このような教科書で学習した学生たちは、疑問を差し挟む余地なく檀君と古朝鮮、その建国時期について史実と考えるようになる[25]。大部分の学生たちは教科書を常に正しいと信じており、授業の評価方式は、教科書の内容を正確に覚えて正解を選んだものが高得点を得るようになっているからである[26]井上直樹は、檀君朝鮮は『三国遺事』によればそうなるだけであり、それが史実かどうかは別問題であり、『三国遺事』や『帝王韻記』は史料批判史料考証が必要であり、檀君朝鮮を『三国遺事』の神話に求め、そのまま認める教科書の記述は、史料考証に基づく既往の研究成果から導き出された結論か疑問だと批判している[27]

北朝鮮における檀君朝鮮[編集]

北朝鮮が1993年に見つけたと発表した檀君の骨は、「電子スピン共鳴法」による年代測定で5011年前のものとだと分かったために、檀君は実在の人物と発表された。ところが、5011年前では檀君神話に基づく檀君朝鮮の建国年と667年もの違いがある。加えて、年代測定に電子スピン法を用いたといっているが、その詳細な解析方法については詳細が公表されていない。つまりこれもでっちあげのねつ造話であると考えられる。また、1993年に檀君の墓を発見したと公言(実は高句麗時代の古墳)し、その地に「檀君陵」なるコンクリート製の建造物を建設した。

日本や中国やアメリカでの捉え方[編集]

  • カリフォルニア大学サンタバーバラ校裵炯逸(배형일, Hyung Il Pai)は、檀君の人気は「今日の朝鮮の歴史学考古学超国家主義的になってきている傾向を反映している[28]」。20世紀の人種や民族の概念の古代の朝鮮への逆投影が、「檀君の作り話で満たされた矛盾する物語の複雑な寄せ集め、競合する王朝の神話、部族の仮想的な侵略、説明できない考古学的データが…古代朝鮮の研究で事実とフィクションを区別することを事実上不可能にしている」と評する[29]
  • ジェームズ・マディソン大学のMichael J. Sethは、「極端なナショナリズムカルトの最大の現れは、檀君(最初の韓国の国家の神話の創設者)に対する関心の回復でした... しかし、大部分の教科書とプロの歴史家は彼を神話とみなします。」と評する[30]
  • ハワイ大学マノア校のMiriam T Stark は、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題があります。」と評する[31]
  • トロント大学アンドレ・シュミット英語: Andre Schmid (academic))は、「ほとんどの朝鮮史の歴史家は、檀君神話を後の創造と扱います。」と評する[32]
  • ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は韓国が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となりました。箕子神話は韓国が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用でした。」と評する[33]
  • ホーマー・ハルバートは、「選択が、それらの間でなされることになっているならば、檀君が、彼の超自然的起源により、明らかに箕子よりも神話の姿であるという事実に人々は直面します。」と評する[34]
  • 北京大学の宋成有は、「1910年に日本が朝鮮半島に侵入した後に、韓国の歴史学者で亡命して中国に来たものたちは、侵略に抵抗するためナショナリズムを喚起し、歴史の中からそのような傾向をくみ取って、韓国の独立性を強調した。それらは韓国の歴史学界の中の民族主義史学の流派へと発展した。1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と、真実とを混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている。」と評する[35]
  • 田中俊明は、「ここは、朝鮮民族の始祖とされる檀君の故地でもある。近年、その東の江東で『檀君陵』が発掘・整備され、その実在化が進んでいるが、明確な記録による限り、天帝の子と熊女との間に生まれた神人であり、神話として受け取るしかない。」とする[36]
  • 岡田英弘は、「さて、韓半島では、最初の歴史書『三国史記』から約100年後の13世紀になって、『三国遺事』という本が書かれた。これは、一然という坊さんが書いた本だが、このなかに、檀君という朝鮮の建国の王の神話があらわれてくる。この檀君は、天帝の息子で、それが地上に天下って、中国神話の帝堯と同時代に朝鮮に君臨し、1500年間在位して、1908歳の長寿を保ったということになっている。ご記憶の方もあるかと思うのだが、北朝鮮の金日成主席は、1994年7月8日に死んだ。その直前、この檀君の墓が北朝鮮で発見されたという報道があった。墓のなかには、身長が3メートルぐらいで、玉のように白くて美しい、巨大な人骨があったという。当時、朝鮮民主主義人民共和国が国力を傾けて、莫大な金をかけて檀君陵を建造したが、陵ができ上るのとほとんど同時に、金日成が死んでしまった。なぜ、神話中の登場人物である、檀君の遺骨をわざわざ見つけたか。それは北朝鮮の国是である主体思想のせいなのだ。朝鮮の起源は、中国に匹敵するぐらい古い。しかも、中国文明とは無関係に成立していたんだ、ということを言いたいがために、そういうものをつくったのだ。」と評する[37]
  • 倉山満は、「韓国史は、檀君伝説から始まります。内容を簡単に説明すると、『神様に求婚されたので熊を選び、人間に姿を変えて結婚し、生まれた子供が檀君という古朝鮮建国の祖である』という話です。紀元前2333年檀君朝鮮を建国したことになっており、箕子朝鮮衛氏朝鮮と合わせて古朝鮮と呼びます。もちろん、神話なのでまともに批判しても仕方ないのですが、『中国時代と同じく長い伝統を持っている。(申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』p19)』と考えるのが韓国人です。」「中国は、日本の『皇紀2600年』やエジプトの『3000年の文明』に対抗するかのごとく、『3000年』『4000年』と歴史を増やしています。最近では5000年を超え、ついに『6000年』と言い出しました。これは北朝鮮や韓国が『檀君5000年』を主張しているからです。『儒教文化』の中華帝国と敬う姿勢は、『2000年の遺伝子』として受け継がれていますが、ただ、そうした"中華様"への従属姿勢の反面、韓国人の意識のなかに反発というもう一面があることを見逃しては、理解が不十分になってしまうでしょう。」と評する[38]
  • 韓洪九は、「韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは『いいえ』です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹モンゴル日本満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです。」「いろいろな姓氏族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏であるである金氏朴氏を見ても、その始祖はから生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません。」「国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした。」と評する[39]
  • 日韓歴史共同研究委員会のメンバーである永島広紀は、「韓国では“史実”として扱われている5000年前の朝鮮民族の始祖とされる檀君についても、オフレコでは『そんなもの誰も信じていませんよ』と軽口を叩く。しかし、記録が残る場では絶対にそんな発言はしない。対日的な場での言論の自由がない国なんです。」と評する[40]
  • 加藤徹は、「第二次大戦後に成立した大韓民国は、公用紀元として、檀君紀元(檀紀)を採用した。これは、朝鮮最初の王とされる檀君王倹が即位したとされる紀元前2333年を元年とする紀元である。檀君王倹は、神話的人物である。神の息子である桓雄と、熊が人間に変身した熊女のあいだに生まれた子とされる。日本の植民地支配を脱したばかりの韓国人にとって、日本の皇紀より古い紀元を使うことは、ナショナリズムの上から必要なことだったのかもしれない。」「東アジア三国のナショナリズムの流れを並べると、面白いことに気づく。後発の若い国民国家ほど、うんと背伸びをして、自国の歴史の古さを強調する。これは、『加上説』の理論そのままである。加上説というのは、江戸時代の学者・富永仲基が提唱した学説である。後発の新しい学派ほど、自説を権威づけるため、開祖を古い時代に求める傾向がある、という理論である。」「韓国人は、中国人よりも、さらに自国の古さを強調する。彼らは『ウリナラ半万年(われらの国は五千年)』という言葉を、好んで使う。自分たちは、日本や中国より古い民族なのだ、という矜持をこめて、ことさらに『万』という数字を入れ、五千年を『半万年』と称する。その実、南北に分断されている彼らは、いまだ国民国家の形成を実現できていない。そのため彼らのナショナリズムは、熱く、むき出しである。ヤマト民族は二千六百年、漢民族は四千年、朝鮮民族は半万年。しかし、近代国家としての年齢順は、この逆である。」と評する[41]
  • 矢木毅は、高麗時代に女真人を建国すると高麗は服属するが、属民視していた女真人に服属する事は屈辱以外の何物でもなく、高麗ナショナリズムが高揚する契機とる。高麗ナショナリズムの高まりの中で、民族の始祖としての檀君神話が誕生したと分析する[42]。それによると、檀君がツングース民族を従えて君臨するという檀君朝鮮の構図は、高麗人が、現実世界において屈服させられていた女真人の金に対する歴史的・文化的な優越感と表裏一体の関係であり、従って檀君朝鮮の伝承は、モンゴル帝国の支配に対する抵抗のナショナリズムが生み出したものと言うよりは、高麗時代前期の反女真人意識と自尊意識が生み出したと解釈するのが自然だという[43]
  • 白鳥庫吉は、「僧徒の妄説を歴史上の事実にした」ものだと主張した那珂通世の主張を支持している[44]
  • 林泰輔は、「その説が荒唐無稽で信じられない(其説荒唐ニシテ遽ニ信ズベカラズ)」と評している[45][46]
  • 武田幸男が編集した『朝鮮史』山川出版社2000年には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない。」とする[47]
  • 朝鮮総督府が編纂した『朝鮮史』の委員会において、崔南善は、「正篇や補篇の形で檀君と箕子に関する内容を編纂したらどうか」「檀君と箕子に関するものはその史実だけにこだわらず、思想信仰の側面で発展してきたことなどをまとめて別篇として編纂したほうがいいだろう」と意見をすると[48]黒板勝美は「檀君と箕子は歴史的な実在の人物ではなく、神話の人物として、思想や信仰の側面で発展してきたわけだから、編年史として扱うのは無理だ」と応じた。対して崔南善は、「檀君と箕子が歴史的に実在していた人物なのか、神話の人物なのかは1つの研究課題にもなりますが、少なくとも朝鮮人の間では、これが歴史的事実として認識されてきたのです。しかし、本会が編纂する『朝鮮史』にこの内容を入れないということは、私たち朝鮮人としては非常に残念でなりません。ですから、本会編纂の『朝鮮史』が朝鮮人にあまり読まれていないわけです」と抗弁した。このようなに『朝鮮史』で檀君は非歴史的存在として扱われ、歴史上の居場所を失った[49]
  • 小田省吾は、「檀君朝鮮が半島古代史の一時期を画したと主張するのは、正しい歴史研究として認められない」と評している[50]
  • 藤永壯は、衛氏朝鮮は実在したが、檀君朝鮮と箕子朝鮮は説話的要素が強いと分析する[51]
  • 今西龍は、白鳥庫吉那珂通世の檀君神話の否認を継承して、1925年に起工した朝鮮神宮に檀君を合祀すべきという議論に異を唱え、「檀君を日本のある神格と合祀しようとする妄挙を慨嘆し」「檀君という方は日本となんら関係がない」と強調した[52]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社1997年ISBN 978-4124034066 p256
  2. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p157-p158
  3. ^ 矢木毅近世朝鮮時代の古朝鮮認識」p45-p46
  4. ^ 井上 2010, p. 412₋413
  5. ^ Karlsson 2009, p. 3
  6. ^ Simons 1999, p. 70
  7. ^ 許昌福東アジアの祝祭日」TORCレポ-ト NO.15、2002年夏、公立鳥取環境大学地域イノベーション研究センター、p29
  8. ^ Armstrong 1995, p. 3
  9. ^ Allen 1990, pp. 793–795
  10. ^ Pai 2000, p. 266
  11. ^ 藤田 2003, p. 79
  12. ^ 藤田 2003, p. 83
  13. ^ 藤田 2003, p. 79
  14. ^ 藤田 2003, p. 79
  15. ^ 藤田 2003, p. 82
  16. ^ 金 2012, p. 32
  17. ^ 金 2012, p. 33
  18. ^ 金 2012, p. 33
  19. ^ 尹種栄『国史教科書の波動』ヘアン、1999年、p22
  20. ^ 金 2012, p. 34
  21. ^ 金 2012, p. 34
  22. ^ 金 2012, p. 34
  23. ^ 金 2012, p. 34
  24. ^ 金 2012, p. 35
  25. ^ 金 2012, p. 36
  26. ^ 金 2012, p. 36
  27. ^ 井上 2010, p. 412₋413
  28. ^ Pai 2000, pp. 95–96
  29. ^ Pai 2000, p. 122
  30. ^ Seth, Michael J. (2010). A History of Korea: From Antiquity to the Present. Rowman & Littlefield Publishers. p. 443. ISBN 978-0-7425-6717-7. 
  31. ^ Stark, Miriam T. (2008). Archaeology of Asia. John Wiley & Sons. p. 49. ISBN 978-1-4051-5303-4. 
  32. ^ Schmid, Andre (2013). Korea Between Empires. Columbia University Press. p. 270. ISBN 978-0-231-50630-4. 
  33. ^ Peterson, Mark (2009). Brief History of Korea. Infobase Publishing. p. 5. ISBN 978-1-4381-2738-5. 
  34. ^ Hulbert, H. B. (2014). The History of Korea. Routledge. p. 73. ISBN 978-1-317-84941-4. 
  35. ^ 中国边疆史学争议频发
  36. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p148
  37. ^ 岡田英弘 『歴史とはなにか』 文藝春秋〈文春新書 155〉、2001年2月20日ISBN 4-16-660155-5p130₋p131
  38. ^ 倉山満 『嘘だらけの日韓近現代史』 扶桑社〈扶桑社新書 151〉、2013年11月30日ISBN 978-4594069520p19、p21₋p22
  39. ^ 韓洪九 『韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か』 平凡社、2003年12月17日ISBN 978-4582454291p68₋p69、p76
  40. ^ 中韓が歴史共同研究 確信犯で嘘の主張押し通そうとするつもり (2/2)」、『SAPIO』2014年5月号、NEWSポストセブン2014年4月23日2016年8月29日閲覧。
  41. ^ 加藤徹 『貝と羊の中国人』 新潮社〈新潮新書 169〉、2006年6月16日ISBN 978-4106101694p212₋p214
  42. ^ 矢木毅著『韓国・朝鮮史の系譜 ―民族意識・ 領域意識の変遷をたどる』 北東アジア研究、2014年3月、p127
  43. ^ 矢木毅近世朝鮮時代の古朝鮮認識 (特集 東アジア史の中での韓國・朝鮮史)」p65
  44. ^ 李 2005, p. 230
  45. ^ 李 2005, p. 247
  46. ^ 池明観 1987, p. 138
  47. ^ 藤田 2003, p. 79
  48. ^ 李 2005, p. 244
  49. ^ 李 2005, p. 244
  50. ^ 李 2005, p. 247
  51. ^ アジア-ノート-後期、p1
  52. ^ 池明観 1987, p. 152

参考文献[編集]