帝国

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1900年の帝国主義諸国および植民地
ビザンチン帝国のシンボル - 鷲の紋章は多くの西洋の帝国でシンボルとして使われている

帝国は、以下の2つの意味で使用されている。

語源[編集]

ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパにおける「帝国」(英語: Empire、エンパイア)の語源はラテン語のインペリウム(imperium)で、当初は「命令権、統治権、支配の及ぶ領域」などの意味で使用され、後に現在の「複数の地域や民族を含む広大な地域を支配する国家」という意味となった。また「帝王、皇帝」(英語: Emperorエンペラー)などの語源も同様である。これらの用語は共和制ローマ時代より使用されている(なお、後の帝政ローマ時代も名目的には共和制であり、「帝政」および「皇帝」との日本語訳には議論もある)。これらの用語は、ローマ帝国の後継を自任するフランク王国神聖ローマ帝国などでも使用された。またドイツ語では、個々の「州」(land)や「領域」(state)に対して、「より大きな国家」を意味するライヒReich)も、エンペラーに相当する語として使用された。

東アジア[編集]

中国における「帝国」(中国語: 帝國)との用語は、王通とその弟子による『文中子』の中に、神聖ローマ帝国に対して使用された[5]。自国の歴代王朝には「帝国」の用語は使用されていない。

日本における「帝国」の用語は、上記の中国の『文中子』の和刻本が江戸時代中期に出版されたことより、日本の蘭学者が訳語として使用した可能性が高い[5]。1713年(正徳3年)の新井白石による『采覧異言』の時点では、「インペラトル」を「一級王」や「帝」と表記しているが、「帝国」という用語はまだ見られない。1789年(寛政元年)の朽木昌綱による『泰西輿地図説』には、オランダ語の「Keizerdom」に対して「帝国」という訳語が使用された[5]

用語[編集]

概要[編集]

何を「帝国」と呼ぶかは、語源・分野・立場・各国語間の翻訳などもあり、様々な見解や用例がある。

「帝国」とは「皇帝または他の強力な統治者や政府によって支配される、通常は単一の王国より広大な範囲の地域や人々の集合体」と定義される[6]。この定義では、連続した領域の単独による支配に限らず、植民地帝国のように母国から遠く離れた複数の領域の支配も含まれる。比喩的な用法では「帝国」の語は、多国籍企業などの巨大企業や、一人または複数の指導者により支配される政治組織などにも使用されている[7]。また「帝国」の語は、帝国主義植民地主義グローバリゼーションなどの概念とも関連付けられて使用されている。帝国主義の影響は現代の世界にも存在し続けている[8] 。また「帝国」の語はしばしば、圧倒的な支配状況に対する不満の語としても使用されている[9]

帝国の政治構造は、以下の2形態に大別する事ができる。

  1. 力による直接的な征服や統治による、単一領域の帝国
  2. 力による非直接的な征服や統治による、強制力のある単一の覇権帝国

前者は直接的な政治的支配により大きな利益が得られるが、一定の守備隊用の軍備を要するため更なる拡大には限界がある。後者は非直接的な支配により利益は少ないが、更なる拡大のための軍備が可能である[10]。領域的な「帝国」は、連続した領土の場合もあるが、制海権を得た海洋帝国は少ない労力で広大な領域も可能である。「帝国」は通常は「王国」より広大なものを指すが、何を「帝国」または「王国」と訳すかは、各国語間で時代や観点にもより多くの議論がある。

また「帝国」を目指す動機となる普遍性への熱望は、結果として征服となり、被植民地側にとっては「外地」や「劣等、二等」に転じる。このナショナリズムの高揚や競争は、複雑に関連し、更なる拡大への強烈な要因となる場合もある[11]

以下の記載では、歴史的・一般的に「帝国」と呼ばれているものを記載する。

政治学・歴史学[編集]

政治学歴史学用語としての「帝国」は、複数のより小さな民族などを含めた広大な領域を統治する国家のことをいう[4]。いわゆる帝国主義の時代における、16世紀から17世紀のスペイン帝国、17世紀頃から20世紀のイギリス帝国などが代表例である。

地政学[編集]

アメリカ合衆国を「意図せざる形の帝国」と呼び、その強大な力ゆえに世界全体に影響力が波及している。現在、アメリカ合衆国は全ての海洋を掌握し、世界の貿易システムを方向付けている。帝国は常に、自らの軍隊をできるだけ敵地に送り込まずに、その同じ地域の国同士で争わせる(創造的破壊)。これによってある一定の均衡を図る事ができ、アメリカ合衆国はこの手段を用いており、ユーラシアに強大な国家を現出させないためにその攪乱を行っている。これを事実上の帝国であるという。帝国とは、国家の存続要件を次々と満たしていくうちに、最終的にアメリカ合衆国やローマ帝国のように強大な力を持つ。大半の国は国家の存続要件や戦略的な目標を満たせるほど、国力やそれを裏打ちする地理性、領土を持ち合わせていない。例として、日本は太平洋を支配する事で海上交通路を確保できるが、アメリカ合衆国は全ての海洋を支配する事を大戦略上の目標にするので、日米の利害は衝突する場合がある。など、その国の地理性や隣接する国によって国家の行動は制約される。アメリカ合衆国は太平洋と大西洋の両方に面する北米を領土とし、アルフレッド・セイヤー・マハンが提唱する〝海洋を制するものが世界を制する〟という海洋戦略を推進し続けている。[12]

経済学[編集]

市場そのものが強大な力を振るい、国を解体し、企業国家が成立するという予測がある。これは超市場主義と呼ばれ、市場が際限なき利益の追求を開始し、テクノロジーの進歩と平行し、競争率や超格差社会、更には移民の到来や紛争などの要素が加わり市場が隅々まで利益を吸い上げるシステムを構築する。個人は発展途上国などの消費力の弱いそれでも、その消費力に合わせた価格の商品が生み出され、株などの金融商品もそれに含まれ、世界全体にその市場が網羅される。格差社会は激化していくうちに、貧困層が保守性に傾くようになり、(社会階層を参照)競争率が激化する事で人材はプライベートを圧迫され、より高度な職業能力を獲得するために教養に割く時間が増大していく。社会不安の増大も相まって、娯楽産業と保険業界は、格差が激化し他の業界での消費が落ち込む中でも、最も成長率が高い業界になるという。[13]

比喩・自称[編集]

実質的には「帝国」ではない比喩的用法としては、独裁国家、中央集権国家のほか、政治的な一人の人物や集団によって支配される多国籍企業などの巨大企業や、国家的または地域的な政治的組織(アテナイ海上帝国とも例えられるデロス同盟など)を指す場合もある[4]ウラジーミル・レーニンの「帝国主義論」や、マルクス・レーニン主義によるアメリカ帝国主義論などは、この流れである。

歴史上の帝国[編集]

古代の帝国[編集]

古代の帝国は、ある特定の民族を中心にほかの文明宗教を巻き込み、大きな領土を持つである。代表的なものにはアッシリア帝国アケメネス朝ペルシア帝国アレクサンドロス大王の帝国ローマ帝国などがある。ただし古代の国家名称やその君主号は、多くの場合は後世の推定であり、異論もあり、更に和訳は一定していない。

オリエントの帝国 アッシリア・アケメネス朝など[編集]

アッカド帝国[編集]

紀元前2300年ごろ、サルゴンがアッカドを創始した。少なくとも最初期の強国であったと考えられるが、ここでいう帝国とは資料から読み取れる領土を指してのことであり、アッカドがどういう国であったかは詳しいことはわかっていない。世界最古の帝国といった場合は、アケメネス朝ペルシア帝国、もしくはアッシリア帝国を指すことが多い。

ウンマルガルザゲシが覇権を握り、下の海から上の海まで(それぞれ紅海地中海)の領土を獲得していた。サルゴンはウル・ザババ王に仕えていたが反乱を起こし、やがてはルガルザゲシを破り覇権を握った。サルゴンは世界の王を称し、後のサルゴンの孫ナラム・シンは遠征を繰り返し、領域を最大に広げ、四方領域の王と名乗ったことが知られている。サルゴン登場後からアッカド語が歴史に登場するようになり、ナラム・シンの遠征の記録が残っていることから、アッカドが強大な国であったことは確実だが、正確な領土の範囲はわかっていない(サルゴンが倒したルガルザゲシ王の領土も議論があり、下の海から上の海までの範囲が本当ならば、サルゴンが仕えたウル・ザババ王は彼の属王ということになる)。後に、グティ人が侵入し、シャル・カリ・シャッリ王を最後に滅亡した。グティ人侵入後は、「誰が王で、誰が王ではなかったか」といわれる暗黒の時代を迎える。だが、近年の研究により、アッカド滅亡の原因は内部崩壊によるもので、グティ人の侵入は事実であるが誇張を含むという説が一般的になりつつある。

バビロニア帝国[編集]

アッカド滅亡後のメソポタミアはグティ人の王が支配していたが、ウトゥ・ヘガルが反乱を起こし、グティ人の追い出しに成功する。この後、再び都市国家間の戦争が活発化する。時は流れ、紀元前1800年ごろ、アルム人スムアブルがバビロンで王朝を開く。その後、彼から数えて6代目の王であるハンムラビが全メソポタミア地域を統一する。

アッシリア帝国[編集]

歴史的にイスラエル王国と関わりがあったため、『旧約聖書』にも敵として名が登場する(ソロモン王死後に北南に分裂したイスラエル王国は、紀元前721年にアッシリア王サルゴン2世によって北イスラエル王国が滅ぼされている。南はユダ王国)。当時のメソポタミア地域では強国が乱立していたが、やがて、優秀な指導者の下に成長したアッシリアは周辺諸国を侵略し、当時の国家群の中では最大の領域を誇るまでに至った。特に、アッシュールバニパル王は領土拡大とともにニネヴェ図書館(またはアッシュールバニパルの図書館)と呼ばれる巨大図書館を建造し、数万点に及ぶ粘土板を保管した。それらは、当時の神話、歴史、文化などを知る上で絶大な貢献を果たしている。紀元前612年新バビロニアメディアの攻撃をうけて滅亡した。

アケメネス朝ペルシア帝国[編集]

アッシリア帝国が滅亡した後のメソポタミア地域は、新バビロニアメディアリディアエジプトなどの強国が乱立することとなった。当時はアケメネス朝アンシャンという小国の一つであったが、アッシリア帝国の時代から存在していた。アケメネス朝ペルシアにおいて最も重要な人物はキュロス2世紀元前600年頃 - 紀元前529年)である。彼はエジプトを除くメソポタミア地域を統一し、2代目のカンビュセス2世がエジプトを征服した。このころは中国も統一国家が現れていない春秋時代のころであり、ローマも大規模な都市を形成する以前の段階であった。まさしく世界最大の国家として君臨した。4代目のダレイオス1世はギリシア遠征を計画し、その後に続くペルシア戦争の火蓋を切るが、近年の研究によって、王朝の創始者である大キュロスの直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したことがほぼ明らかになっている。つまり、連綿と続く王朝ではなく、キュロスの王朝ダレイオスの王朝に二分されているというのが実相であった。この後に登場するアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼすことになる。

アレクサンドロスの帝国[編集]

古代マケドニア王国アレクサンドロス大王紀元前336年に20歳で王位に就いた。父ピリッポス2世が活用したファランクス戦法を受け継ぎ東方遠征を開始し、エジプトを占領し、イッソスの戦いガウガメラの戦いなどでペルシア最後の王ダレイオス3世と激戦を繰り広げ大勝した。アケメネス朝滅亡後、メソポタミア全域を征服したアレクサンドロス大王は、紀元前326年、さらに東方を目指し、インド遠征に乗り出し、インダス川を越えてポロス王らと戦うが、その後、兵士の疲労により退却した。帰還したアレクサンドロス大王はさらにアラビア遠征を計画するも、紀元前323年スーサで病に襲われ急死した。

大王の東方遠征は、数々の逸話、伝説として後世に残され、マケドニアギリシャエジプトペルシアインド西域にまたがる大帝国を築いた。大王は異なる民族を一つにまとめ上げようとし、例えば、ペルシアの兵士はマケドニア式の訓練を行なったり、オリエントの女性と結婚した上、部下にもオリエントの女性との結婚を奨励したりした(ヘレニズム文化)。しかし、大王の早すぎる死後、王位継承権を巡って内戦が起き、ディアドコイ戦争が始まった。ディアドコイ戦争後、分裂した帝国は、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝、マケドニアのアンティゴノス朝にわかれたが、これらは皆、後のローマの拡大に呑み込まれていくこととなる。

ローマ帝国[編集]

ローマ帝国は以後のヨーロッパにおける「帝国」の概念の基礎・規範となった。ローマの場合、共和政時代後期からギリシア北アフリカシリアなどを支配し、既に帝国として成立していた。ユリウス・カエサルが、いわゆる帝政ローマの基礎を作り、アウグストゥスが初代「ローマ皇帝」となったとされる。つまり、まず先に「ローマ帝国」があり、それを治める統括者として後に「皇帝」が生まれた。しかし少なくとも名目的には、政体は共和制のままで、ローマ皇帝は「市民」のままであり、「帝国」や「皇帝」との和訳には異論もある。

ローマ帝国は、支配地域に、ローマ法ラテン語(東方ではギリシャ語併用)などローマ(ラテン)民族の諸文化を優れた建築技術を始めとした先進技術と共に行き渡らせ、複数の民族を同化・統合して強大な勢力を作り上げた。その支配は、本土たるイタリアを始め、北アフリカガリア(現フランス)・ブリタニアイベリア半島バルカン半島アナトリア半島シリアエジプトに及び、「地中海世界」とも称される文明圏を作り出すことに成功した。さらに、その最盛期には広大な領土の隅々に至るまで平和と繁栄をもたらし、俗に、「ローマの平和(パックス・ロマーナ」とも「人類が最も幸福だった時代」(エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』)とも評される安定を創出した。

212年には、カラカラ帝によって、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、さまざまな宗教・文化を持つ民族が「ローマ人」として統合されるが、これは結果としてラテン系ローマ人の民族的結束を失わせ、帝国弱体化の遠因となった。3世紀後半になると、ローマ帝国の政治的混乱は頂点に達し、インペラトールを名乗る者が同時に何人も出現するような事態となった。この事態を収拾した4世紀の皇帝ディオクレティアヌスは、共和政の「元首」の延長であった皇帝を、ササン朝ペルシャ帝国シャーのような完全な専制君主とすることで帝国の統合を強化しようと試み、自らをドミヌス(主人)と呼ばせた。彼の思想を受け継いだコンスタンティヌス1世は専制君主制を強化する一方で、313年キリスト教を公認し、自らも改宗することによってキリスト教を帝国の統合の柱に据えようとした。

ここに、東方的な君主制と共和制以来の「インペラトル」、そして、キリスト教の思想が結びつき、「元老院・市民・軍隊の推戴」をうけた「神の代理人」である皇帝が「全世界の主」として統治するという体制が築かれた。この体制はローマ帝国の後継国家である東ローマ帝国にも受け継がれ、さらに発展した。この強固な政教一致体制によって、東ローマ帝国は1453年まで生き続けた。

中国の古代帝国[編集]

はじめて中国を統一した王朝(帝国)は、王朝である。中国史上において始皇帝がはじめて皇帝を称し、また分裂した諸国を統一して広大な領域国家を成立させた。

秦に先立つ中華王朝としては、が存在するが、どちらも現在中国と呼ばれる地域よりも遥かに領土は小さく、そもそも都市国家連合であり領域国家ではない。

ただし秦はわずか15年の短命政権に終わり、その後は王朝の時代となる。現在の中国の大多数を占める漢民族は、この王朝の名に由来する。

その他の古代の帝国[編集]

フェニキア人が地中海沿岸に築いた都市国家の中で最強勢力。他のフェニキア人系都市国家や北アフリカの土着勢力を支配下とし、その他地中海の諸島やイベリア半島にも進出し、西地中海の覇者となった。
元来はアケメネス朝ペルシアの脅威に備えての、アテネを中心とする古代ギリシアの各ポリスの軍事同盟(デロス同盟)であった。ペルシアの脅威が薄れるにつれて、最大のポリスであるアテネが、他のポリスを支配する機関へと変貌していった。後世において、アテネが各ポリスの支配者として君臨するこの体制を、アテナイ海上帝国と称する。
古代ギリシアのポリスの中でも、特異な軍事国家となった。その軍事力でアテネに勝利し、一時的にギリシアに覇を唱えるが、各ポリスの支配者として君臨する能力は持ち合わせておらず、短い間の覇権に終わった。

中世の帝国[編集]

東ローマ帝国[編集]

東ローマ帝国は現代では、「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」などのように呼ばれるが、これらはあくまでも古代との相違点を示すための後世に付けられた便宜的な呼称に過ぎない。正式な国号は古代以来の「ローマ帝国」であり、第4回十字軍の攻撃をうけた1204年まで、ギリシャ人を主役としながらも、スラヴ人アルメニア人などの民族を支配し、正教会を国教とする国家であった。

6世紀のユスティニアヌス1世の時代には旧西ローマ帝国領の一部を奪回し、ローマ帝国による地中海全域の支配を復活させた。その後イスラム帝国ランゴバルト人スラヴ人の侵攻で領土を失うが、800年にフランク王カールが皇帝を称するまで、名目上では西欧諸国やローマ教会を宗主権下に置いており、また13世紀初めまではアナトリアおよびバルカン半島を中心とした東地中海一帯を支配していた(1204年以降、滅亡する1453年まではギリシャ人のみの小国へ転落)。古代ローマ帝国の継承者として、ローマ法や古代末期の体制、そして、古代ギリシャ・ローマ文化を基礎としながらも、東西の文化をギリシャ語正教会ローマ法でまとめあげて融合させ、古代のローマ帝国とは異なる独自の文明を形成した国家であったといえるだろう。

この国家では、皇帝は、「元老院と市民、軍隊の推戴を受ける」ことが正統性の証であるという古代ローマ以来の概念と、皇帝は「神の代理人」、「全世界の主」、「諸王の王」である「アウトクラトール(専制君主)」として統治するという東方的な考え方が融合した体制を取っていた。これは、前述の古代ローマ帝国後期の体制が4世紀から8世紀までの約400年近くにわたって緩やかに変化しながら作られた体制であり、いつまでが古代ローマ帝国で、いつからがいわゆる「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」であると明確に決めることはできない。

この帝国では、民族には関係なく、正教会の信者で、コンスタンティノポリスにいる皇帝の支配をうけ、ギリシャ語を話す者は皆ローマ人(公用語はギリシャ語だった)であり、アルメニア人やノルマン人、改宗したトルコ人など様々な民族が国家の要職に就いていた。イスラム教ユダヤ教にも比較的寛容で、首都・コンスタンティノポリスにはモスクまでつくられるほどであった。詳細は東ローマ帝国を参照。

なお、下記のように、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させて建てたラテン帝国および、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権も「帝国」と称される。

カール大帝の「西ローマ帝国」と神聖ローマ帝国[編集]

西ヨーロッパ諸国は古代末期から8世紀までは、名目上コンスタンティノポリスにいるローマ皇帝(上記のように、通常「東ローマ皇帝」「ビザンツ皇帝」などと呼ぶ)の権威に服し、各国の王は皇帝の代理として旧西ローマ帝国領を統治するという形態をとっていた。しかし、7世紀以降イスラムスラヴ人の侵攻によってコンスタンティノポリスの帝国政府の力が弱まり、また、ローマ教皇コンスタンティノポリス総主教の宗教的対立や、ラテン語圏の西欧とギリシア語圏の東ローマの文化的な対立などから旧東西ローマ帝国の亀裂が深まっていった。そこで、ローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、コンスタンティノポリスの皇帝からの独立を図った。これがカール大帝の「西ローマ帝国」であり、その後継者を名乗る神聖ローマ帝国である。

これらの帝国は古代ローマ帝国の理念の影響をうけて、「キリスト教世界全体を支配する帝国」という理念が打ち出された(もちろん、これはもともとコンスタンティノポリスの政府が主張していた理念でもある)。このため、西欧では、「皇帝」の称号はドイツの王のみに与えられ、名目的にはフランスイングランドなどの国王よりも格上とされていた。しかし、実際に神聖ローマ皇帝が支配していたのは、最大のときでも現在のドイツオーストリアスイスベネルクス三国・北イタリアブルグントブルゴーニュ)などフランス東部の戦前までドイツ人地域であった限られ、年月を経るにつれて領域はドイツ語圏のみになり、国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名前になった。

後に神聖ローマ帝国の領邦君主であるホーエンツォレルン家プロイセンシレジアポーランド西部に、ハプスブルク家チェコスロベニアハンガリーなど非ドイツ語圏に支配領域を拡大したが、それら領域は神聖ローマ帝国の領域外とされた。ちなみにホーエンツォレルン家は、後に王号を名乗るが、神聖ローマ帝国の領域外におけるプロイセンの王という扱いで、神聖ローマ皇帝から認められた。

また、ドイツ国内ではもともとゲルマン人選挙王制の伝統が残っており、また、各地の諸侯の力が強かったため、実際の皇帝権力は弱かった。さらに、三十年戦争の後には帝国内の各諸侯領(領邦)に主権が認められたため、帝国の権威が衰退した。このため、フランスの思想家ヴォルテールは、「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった」と酷評している。従来の歴史学における評価では中央集権化に失敗しドイツ統一を遅らせたとして否定的にとらえるものが主流であったが、近年は帝国の諸制度への研究が進み、見直しの論が出てきている[14]

その他のヨーロッパの帝国[編集]

イスラムの帝国[編集]

中国の帝国[編集]

  • 王朝
  • 王朝
  • 王朝
  • 王朝
  • 王朝
  • 王朝
  • 王朝
  • 中華帝国 - 中華民国大総統であった袁世凱が皇帝就任を宣言し、国体を帝政に改めた。しかし諸外国や国内の軍閥などは承認せず、護国戦争と呼ばれる内乱状態に陥った。このため袁世凱は一年で皇帝就任を取り消している。

中南米の帝国[編集]

中南米の先住民が築いた国家としては最大級であり、帝国と呼ばれる事が多い。ただし広大と言っても現在のメキシコの領域内に過ぎず、またトラスカラ王国という同格のライバル国家も存在したことから、帝国とはみなされず、「アステカ王国」と呼ばれることも多い。
アステカ同様に中南米の先住民が築いた国家としては最大級であり、帝国と称される事があるが、現在のペルーの領域内であり、後世のインカ帝国と比較すれば弱小であり、チムー王国と称される場合が多い。
中南米の先住民が築いた国家の中では最大。最盛期には80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がる版図を築いた。

遊牧民の帝国[編集]

匈奴・突厥など[編集]
モンゴル帝国[編集]
その他の地域[編集]

近世・近代の帝国[編集]

植民地帝国[編集]

植民地を持った宗主国と植民地の総体は植民地帝国(colonial empire)とも呼ばれる。イギリス国王はインド皇帝も兼任している。


比喩などから帝国と呼ばれる国[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 帝国 - 大辞林 第三版
  2. ^ デジタル大辞林
  3. ^ 帝国 - ブリタニカ国際大百科事典
  4. ^ a b c Oxford Dictionary
  5. ^ a b c 平川2008, pp.127-129
  6. ^ Webster's Encyclopedic Unabridged Dictionary of the English Language, Portland House, New York, 1989, p. 468.
  7. ^ Empire”. Oxford Dictionary Online. 2014年10月21日閲覧。
  8. ^ Xypolia, Ilia (28 July 2016). “Divide et Impera: Vertical and Horizontal Dimensions of British Imperialism”. Critique 44 (3): 221–231. doi:10.1080/03017605.2016.1199629. http://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03017605.2016.1199629. 
  9. ^ Howe, Steven (2002). Empire: A Very Short Introduction. Oxford. 
  10. ^ Ross Hassig, Mexico and the Spanish Conquest (1994), pp. 23–24, ISBN 0-582-06829-0 (pbk)
  11. ^ Howe, Stephen (2002). Empire: A Very Short Introduction. Oxford Press. pp. 10–15. 
  12. ^ 100年予測/著ジョージ・フリードマン
  13. ^ 「21世紀の歴史」/著ジャック・アタリ
  14. ^ Peter H.Wilson(原著)、山本 文彦(翻訳)『神聖ローマ帝国 1495 - 1806』岩波書店 ISBN 4000270974
  15. ^ 朝鮮国々号改称ノ件ニ付本邦駐剳同国特命全権公使李夏栄ヨリ通牒ノ件・二通
  16. ^ 日韓議定書
  17. ^ 「タイタン:ロックフェラー帝国を創った男」(ロン・チャーナウ、日本経済新聞、2000年)
  18. ^ 「ユダヤを操るロックフェラー帝国の野望」(徳間書店、1987年)
  19. ^ 「マイクロソフト帝国裁かれる闇下」(Wendy Goldman Rohm、草思社、1998年)
  20. ^ 「マイクロソフト帝国の反逆者たち」(マイケルドラモンド、徳間書店、2002年)
  21. ^ 「グーグル的思考: Googleならどうする?」(ジェフジャービス、2009年、333p)

参考文献[編集]

  • 平川 新 『全集 日本の歴史 第12巻 開国への道』 小学館、2008年ISBN 978-4-09-622112-9

関連事項[編集]