辰韓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
辰韓
辰韓
辰国 紀元前2世紀 - 356年 新羅
辰韓の位置
朝鮮半島の地図
首都 不明
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
辰韓
各種表記
ハングル 진한
漢字 辰韓
テンプレートを表示
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

辰韓(しんかん、紀元前2世紀 - 356年[1])は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物とを育て、養蚕を生業としていた。『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという[2]。『三国史記』と『三国遺事』によると、中国王室の娘娑蘇夫人が海を渡って辰韓に渡来して、新羅の初代王赫居世居西干と王后閼英夫人を生んだ[3]

辰韓と古代中国人との関係[編集]

後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。そのため自立せず、辰韓人は明らかに流入し移って来た人であるため馬韓が全てを制していたと『晋書』は記している[4]

後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。

耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割東界地與之。其名國為邦,弓为弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。

〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉

三国志』魏書巻30辰韓伝では、以下のように記載される。

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。

〈辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと称している。言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼ぶ。〉

晋書』巻97辰韓伝では、以下のように記載される。

辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓。

〈辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているため、あるいはこれを秦韓とも言う。〉

北史』巻94新羅伝では、以下のように記載される。

新羅者,其先本辰韓種也。地在高麗東南,居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適,馬韓割其東界居之,以秦人,故名之曰秦韓。其言語名物,有似中國人

〈新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。〉

水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている[5]

三国志』魏書巻30辰韓伝に、「名國為邦(訳:国を邦と言う)」とある[6]。辰韓(秦韓)の民はから亡命してきたと言うが、前漢の初代皇帝劉邦が自らの(劉)を憚って「邦」を「国」と言い換え、漢代以後の漢語では「邦」のことを「国」と言うが、辰韓人(秦韓人)は「国」のことを「邦」と言っており、かかる事実関係により、辰韓人(秦韓人)は秦語を使用していることは決定的とみられている[7][8]

金両基は、「三韓の領域や国境は、、後世のように明確ではなく、おおざっぱであった。国境には、どちらの国からも干渉されない、緩衝地帯のようなものがあったらしい。そこに亡国の流民が三々五々集まって、一種の多文化圏を構成していた。異国文化や新しい文化がそこに集まり、そこから三韓へ伝わったのであろう。"辰韓は馬韓の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の秦国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた。(『三国志』の「魏書」東夷傳 辰韓条)"そのような緩衝地帯にも、自然に流民を束ねる実力者が生まれる。王や君長の経歴をもったものが、そこで実力を争い、支配者となることは当然考えられる。衛満に王位を奪われた準王がそういう地位をえたと考えても、べつにおかしくはない。」と記している[9]

上田篤は、「秦の始皇帝が天下を握った紀元前221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。すると、大陸内には、もはや亡命する国さえない。そこで、何万、何十万というかつての権力者とそれにつながる人たちの多くは、海外、あるいは漢民族の支配圏以外の国々への亡命の道を選んだのではないか。(中略)東アジアでも、『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』と記されている。陳勝の農民一揆は、紀元前209年のことである。さらに、『辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いたと自言していた。(魏志東夷伝)』[10]朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している」と記している[11]

北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先はもとは辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」との記述がある[12]

中国政府シンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国のの亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している[13]。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している[14]

チャン・セユン成均館大学教授は「中国の教科書には古朝鮮の歴史についての言及がなく、馬韓,辰韓,弁韓に代表される三韓時代に関しては、中国が自国の影響を多く受けたと主張する辰韓を中心に叙述している」と指摘している[15]

辰韓12カ国[編集]

出所[16]
  1. 已柢国
  2. 不斯国
  3. 勤耆国
  4. 難彌離彌凍国
  5. 冉奚国
  6. 弁樂奴国
  7. 軍彌国〈弁軍彌国〉
  8. 如湛国
  9. 戸路国
  10. 州鮮国(馬延国)
  11. 斯盧国
  12. 優由国

脚注[編集]

  1. ^ 当然ながら、韓国の国定教科書では建国神話にもとづいた紀元前57年説を採用している。この点について、日韓歴史共同研究委員会の日本側メンバーである井上直樹は、報告書で、「新羅の場合も『(中学校用)国史』『(高等学校用)国史』ともに紀元前57年とする。これは『三国史記』に基づいたものであるが、『三国史記』が当該期の政治的意図から新羅中心に編纂され、新羅の建国時期を意図的に高句麗以前に設定したと考えられていることを前提とすれば、その内容を史実かの如く、教科書に記載するのは問題であろう」と批判している[1]
  2. ^ 『後漢書』弁辰伝、弁辰與辰韓雜居 城郭衣服皆同 言語風俗有異
  3. ^ 延恩株 2011, p. 92-p. 93
  4. ^ 「辰韓常用馬韓人作主,雖世世相承,而不得自立,明其流移之人,故爲馬韓所制也。」(『晋書』巻97 辰韓伝)
  5. ^ 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書、p36、ISBN 978-4166607341
  6. ^
  7. ^ 森博達 『日本書紀成立の真実 書き換えの主導者は誰か』 中央公論社2011年ISBN 978-4120042829
  8. ^ 伊藤英人「朝鮮半島における言語接触」東京外国語大学語学研究所論集、第18号、p58
  9. ^ 金両基『物語 韓国史』中公新書 47頁〜48頁
  10. ^ 三國志/卷30
  11. ^ 上田篤『呪術がつくった国日本』2002年、光文社 310頁
  12. ^ 『北史』新羅伝
  13. ^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院朝鮮日報 2007年6月4日
  14. ^ ああ、高句麗東亜日報 2007年8月18日
  15. ^ 「中国、韓国史歪曲教科書是正」文化日報 2003年10月16日
  16. ^ 三國志/卷30

参考文献[編集]