傷寒論

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  目次

1 概要

2 起源と歴史

3 歴史的変遷と異本

4 傷寒論を基本とした「古法派」の医学

5 文献 

6 テキスト、研究書、臨床書  

 

1 概要  

  東洋医学の主要な原典。後漢末、建安年間(196-220)の半ばに、張機(字 仲景)によって『傷寒雑病論』として著された。 

 傷寒とは悪性の伝染性疾患である。その発症の初期から様々な経過を経て重篤な状態に至るまでを陰陽虚実の理論を基礎として記述した『傷寒論』1) と、当時の雑病を陰陽五行の理論を基に病名別に記述した『金匱要略』2) に分かれて現代に伝えられている。            

 『傷寒論』は悪性で経過の疾い「傷寒」を、良性である「中風」と対比しながら、それぞれの急性期から、様々な経過を経て、生命力が虚衰して重篤な状態に至るまでを示し、それぞれの病期において投与するべき薬方を示している。

 人類は古代から大数の死者を出す感染性疾患に繰り返して襲われてきた。3) 中国も例外ではないことを文献から知ることができる。4),5)

 後漢最後の年紀、建安年間にも傷寒の流行があり、著者張仲景の一族からも多数の死者が出たことが傷寒論の序文にも示されている。6) 張仲景は受診してくる多数の患者が示す病態をよく診て、伝統的な陰陽虚実の病理観 7) を基礎として、独自の病理観を確立し、傷寒の病期別に薬方を整理して、薬方の適応症(証)を簡潔明解に記述している。

 傷寒論の薬方をその病理観を基礎として、その記述通りに運用すると、きわめてよく効果を発揮する。傷寒論の薬方は現在も近代医学と併せて臨床の場で広く用いられており、その有効性は様々な形で再現され、実証されている。8),9),10)

 

2 起源と歴史

 中国では古代国家殷が滅び、質実で温和な民族周が中原の主となったのは紀元前1046年であった。その後、春秋・戦国時代を経て、言語も思想も充実していた。紀元前221年、秦による統一のあと、前漢(前206-前8)・後漢(25-220)合わせて400年間の安定した時代が続き文化は充実していた。前漢に司馬遷(前145?-前57??)が著した『史記』の「扁鵲倉公伝」11) には当時の医学の様子が記述されており、後漢の班固(32-92)が著した『漢書』の宮廷の図書目録「藝文志」の「方技略」の項には醫経、経方、房中、神僊、併せて39の医書が記載されている。12),13)   

  漢帝国最後の年紀、建安年間(196-220)に張仲景は孝廉(人徳と学識の高い者が郷挙里撰によって官吏として登用される制度)に挙げられ、すでに名医として名高く 13) 、長沙の太守に推された。14)  当時、長沙は交通の要衝であり、太守は地方長官の最高の位であった。張中景は広く様々な医書を手に入れることができたのであろう。  

 当時、傷寒が流行し多数の死者が出ていたことが傷寒論の序文に示されており6) 張仲景は受診してくる多数の患者を診て、傷寒の様々な病期の状態をつぶさに観察する機会に恵まれたのであろう。当時受け継がれた医書の記述に加えて、病の経過による変化を陰陽虚実に基づく明確な病理観によって整理し、それぞれの病期における薬方の適応症を具体的な症候を簡潔明解に記述しており、極めて完成度の高い知識の体系として確立した。しかし、後漢末の戦乱と略奪は張仲景の居た長沙にもおよび 15)  『傷寒雑病論』の遺稿は魏の大医令王叔和の手に渡った。16)

 その後『傷寒論』は長い歴史の間に錯簡や脱落、書写の誤り、後の世の加筆などによって難解な古典となってしまったが、様々な形で歴史に表れて、数多くの異本が伝えられている。17) 

 日本では江戸時代に医師香川秀庵が「傷寒論をこそ医学の基本としなければならない」と提唱 18) して勃興した「古方派」6) の医師たちによって質の高い考証が加えられた。19)

その集大成が尾臺榕堂の『類聚方廣義』である。20)  現代の日本の漢方医学はその伝統の上にある。


3 歴史的変遷と異本

 張仲景の死後、魏の大医令王叔和は『傷寒雑病論』の遺稿を手に入れ 21) 『傷寒雑病論』を整理・編集したとされているが、原著に忠実な編纂ではなく、加筆や新しい章を補い、自著『脈経』22) の七巻に傷寒論、八巻に金匱要略と同じ条文があるために傷寒雑病論を引用したと言われているが、その条文の多くは、王叔和が原著に加筆した条文であると考証されている。別に『張仲景薬方』を著したとされるが、これは伝えられていない。

 その後『傷寒論』は歴史に見え隠れしながら伝えられて様々な異本がある。

 南北朝時代(439-589)にはすでに『傷寒雑病論』は高い評価が与えられて様々な異本があり、唐代までは王叔和編「張仲景方」系統の本と別系統の本が並び用いられていた。23) 唐代初期、孫思邈󠄁(581-682)は『千金翼方』(682)の第9巻と10巻に「傷寒上・下」として編入した、これが『唐本傷寒論』である。24)  唐の開元二十五年(737)の唐令により『傷寒論』が医生の教科書に指定された。25) 五大十国時代の小国の王高継沖は秘蔵していた古本傷寒論を北宋政府に献上し〔968〕、朝廷の図書館に所蔵されていたが、太宗の命によって王壊隱により北宋淳化年間(990~994)に『太平正恵方』の第八巻に取り入れられた(992)。これが『高継沖本傷寒論』である。26)  

  一方、『傷寒雑病論』の雑病の部分も散逸していたが、 その一部は薬方書に引用され ており、唐代、孫思邈󠄁の『千金翼方』の中にも多くが引用されている。27)  

  北宋(960-1127)の朝廷から医書の校正を命じられた儒臣高保衡、孫奇、林億らは、まず『傷寒論』を校正し、重複を除き『張仲景傷寒論』十巻を考証・校訂した。林億らは高継沖傷寒論のことも序文で述べているので、これも校正を加えて取り込んだと考えられる。これは治平二年(1065)に刊行された、さらに普及をはかるために小字本の刊行も行われたが、この宋本傷寒論の原本はともに伝えられていない。

 林億らはさらに王叔和編集の傷寒論の異本『金匱玉函経』28) を校正した。先に校正した『張仲景傷寒論』とは異なるところがあるが、あえて臆断せずとしており、これは宋版傷寒論と対照するべき異本として多くの研究者に論考されている。  

 北宋、仁宗朝のとき(1022-1063)に翰林学士王洙在が翰林院に残存して古籍の中から『金匱玉函要略方』なる一書を見いだし、これが『傷寒雑病論』の筆写本であることが判明した。この書は三巻よりなり、上巻は傷寒病、中巻は雑病、下巻は方剤と婦人科疾患について論じていた。その後林億らがこの書に校訂を加えた際に、上巻はすでに刊行されていた『張仲景傷寒論』に比べて条文数が少なく省略が多いとの理由で断たれ、中巻と下巻の雑病と婦人病について述べている部分と方剤の記述を病症別に並べ替え、さらに当時張仲景方と言われていた薬方や、広く用いられていた薬方までも収載して編纂した。これが今に伝えられている『金匱要略』2) である。『傷寒論』が陰陽の理論によって病の経過を動的にとらえているのに対して、『金匱要略』は五行の臓腑経絡説によって病を分類し、病名別に章を立てている。

 明代(1368-1644)万歴(1573-1620)二年(1574)趙開美が当時伝泻󠄁されていた傷寒論を集め、校合して刻板した。この原本を底本として翻刻し、金匱要略と合わせて『中景全書』が刻板された。(1599)この傷寒論が「趙開美本」と呼ばれ、今日伝えられている『宋本(あるいは宋板)傷寒論』の原本である。2),29)  

 これより以前に、金代の医師成無己が『註解傷寒論』(1144)を著した。30) これは林億らの『張仲景傷寒論』の出版から間もない時期に書かれており、その原文は林億らの『張仲景傷寒論』に近いとされる『成本傷寒論』である。我が国では香川修庵が『註解傷寒論』の解説と薬物の修治を削り、あえて「原文に改竄を加えず」に翻刻した『小刻傷寒論』31) が江戸時代に広く用いられ、これが我が国の漢方医学の基礎となった。現在『小刻傷寒論』は入手が困難であるが、これを底本とした研究書に奥田謙蔵著『傷寒論講義』32)と6) がある。

  中国には伝わらず、日本で見出された2種類の傷寒論の異本がある。

 『康治本傷寒論』(康治本)は序文に「此書比叡山所蔵」「叡山の宋が入唐して謄写し帰る。」とあり、条文数は少ないが、主な薬方は示されており、後世の手の入らない無駄のない文体である。末尾に「唐貞元乙酉歳寫之」とある。唐貞元乙酉歳(805)は最澄と空海がともに入唐していた年である。33),34) 

 『康平本傷寒論』(康平本)は康平三年(1060)丹波雅忠の奥書があり、朝廷の医官丹波家と並ぶ和氣家にも秘蔵されていた古本傷寒論(和気氏本)が伝わっており、内容は康平本と同様であるとされている。大塚敬節著『傷寒論解説』は「康平傷寒論」の筆写本の写真を掲載している。35)  

 弘法大師および傳教大師の御請來目録に傷寒論は見られないが、康治本と康平本は、空海あるいは最澄、あるいは同行の者によって唐からもたらされ、康治本は高野山あるいは比叡山に秘蔵され、康平本は宮廷の医官に伝えられていたものではないかと考えられる。これらの異本はいずれも貴重な研究資料である。

 

4 『傷寒論』を基本とした「古方派」の医学

  我が国には唐以降も宋、金、元など歴代の王朝の医学が伝えられてきていたが、江戸時代中期に香川秀庵(1683~1755)によって「医学は傷寒論をこそ基本にしなければならない」18) と提唱されてから傷寒論を基本とする「古方派」が興り大いに発展した。この時期の医師達によって『傷寒論』には多くの考証が加えられた。なかでも吉益東洞(1702~1773)は薬方の適応症(証)の究極を示す『方極』(1752)を著し、傷寒論と金匱要略の中に散在していた薬方の記述を、それぞれの薬方のもとに集め、考証を加えて『類聚方』(1762)を著し、さらに薬方の適応症(証)から薬物の薬能を論定した『薬徴』(1771)を著した。(これら東洞の三部書は繰り返して校正され、筆写年代はさまざまである。) 19) 江戸時代末期の尾臺榕堂は(1799~1870)は類聚方と方極を合わせ、標注に自らの臨床治験を記述した『類聚方廣義』(1856) 20) を著した。これは傷寒論の医学の集大成とも言える日本の漢方医学の精華である。この間に傷寒論の薬方は慢性疾患への応用も拡大され、現代の日本の漢方医学はこの伝統の上にある。

これに対して現在の「中医学」は張仲景の医学が源であるとしているが、中国の長い歴史的な伝統に基礎を置いており、主に用いている薬方は傷寒論の薬方とは異なる。

                                                                         

5 文献

1)中国中医研究院編『傷寒論語訳』人民衛生出版社1965、中沢信三・鈴木達也訳『傷寒論』、中国漢方、1978

2)中国中医研究院編『金匱要略語訳』人民衛生出版社1974、鈴木達也訳『金匱要略』中国漢方、1982

3)ウイリアム・H・マクニール 佐々木昭夫訳『疫病と世界史』中央公論社、2007 

4)陳敏章、李経緯ほか編『中国医学通史』古代巻p167、人民衛生出版社、1994

5)佐藤武敏『中国災害史年表』国書刊行会、1993

6)大川清『傷寒論の基本と研究』第2版pp40-45 明文書房、2007 

7)南京中医学院医経教研組編、石田秀実監訳『黄帝内経素問』中巻「熱論編」1991   

8)日本東洋医学会『日本東洋医学雑誌』2021年現在72巻

9)東亜医学協会『漢方の臨床』1954年創刊 2021年現在68巻

10)日本漢方医学会『漢方と漢薬』1930年創刊 国立国会図書館にデジタル化資料がある

11)青木五郎『史記』列伝四「扁鵲倉公列伝」明治書院、2004

12)鈴木由次郎『漢書藝文志』pp298-311、明徳出版、1968

13)小竹武夫訳『漢書』上巻「藝文志第十 方技略、筑摩書房、1977

14)小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』四p297、岩波書店、1988

15)銭超塵『傷寒論文献通考』pp59-69 学苑出版社、1993    

16)銭超塵『傷寒論文献通考』p62 学苑出版社、1993  

17)李順保『傷寒論版本大全』学苑出版社、2001

18)香川修庵『一本堂行餘󠄂醫言』1807、名著出版、1982

19)吉益東洞『東洞全集』思文閣出版、1980

20)尾臺榕堂『類聚方廣義』安政三年(1856)、燎原書店、1972 

21)銭超塵『傷寒論文献通考』p11学苑出版社、1993 〕

22)小曽戸丈夫校注、池田政一訓訳『脈経』谷口書店、1991 

23)山田慶児『中国医学はいかにつくられたか』p156-158、岩波書店、1999 

24)孫思邈󠄁撰、朱邦賢・陳文國等校注『千金翼方校注』上海古籍出版社、1999 

25)小曽戸洋『漢方の歴史』pp94-96, 大修館書店、1999 〕

26)李順保『傷寒論版本大全』pp253-297、学苑出版、1993〕

27)孫思邈󠄁、兆麟主校『千金翼方』遼寧科 学技術出版社1999 〕

28)李順保『傷寒論版本大全』pp137-252、学苑出版、2001 〕

29)劉渡舟・薑元安、生島忍編著 現代語訳『宋本傷寒論』東洋学術出版社2000 

30)銭超塵『傷寒論文献通考』pp545-722 学苑出版社、1993 〕

31)香川秀庵校『傷寒論』(『小刻傷寒論』)京都書林ほか、文政六年(1823) 〕

32)奥田謙蔵著『傷寒論講義』医道の日本社、1965〕

33)民族医学研究所『康治本傷寒論』安政五年(1858)民族医学研究所復刻1965 〕

34)李順保『傷寒論版本大全』pp49-135、学苑出版社2001 

35)大塚敬節『傷寒論解説』「康平傷寒論」、創元社、1966 

 

6 テキスト、研究書、臨床書 

 1)テキスト

 香川秀庵校『傷寒論』「小刻傷寒論」(成本傷寒論)京都書林ほか、文政6年1823

 (江戸時代広く用いられ古法派の研究書の底本。現在入手は困難である。文献32,15がこれを底本としている。)

 龍野一雄編『宋板・示旧 傷寒論』漢方医学大系刊行会、1957、オリエント出版社、1989

 (稲葉元□編『新校宋版傷寒論』喜多見重遠編『傷寒論示旧』を校合し版本相互の文字の異同を示している。)

 中国中医研究院編『傷寒論語訳』人民衛生出版社1965、中沢信三・鈴木達也訳『傷寒論』、 中国漢方、1978   (現在最も広く用いられている。)

 劉渡舟、薑元安・生島忍編著 現代語訳『宋本傷寒論』東洋学術出版社、2000

 (趙開美本の全文を現代語訳したものを日本語に訳している。)

 民族医学研究所『康治本傷寒論』安政5年 民族医学研究所復刻1965

 孫思邈󠄁撰、魯兆麟主校『千金翼方』(唐本傷寒論)遼寧科学技術出版社、1997

 日本漢方協会学術部編『傷寒雑病論』東洋学術出版社、1981

 中国中医研究院編『金匱要略語訳』1974、鈴木達也訳『金匱要略』中国漢方、1982

 2)解説書 

 奧田謙蔵『傷寒論講義』医道の日本社、1965

 大塚敬節『傷寒論解説』「康平傷寒論」の筆写本を収載、創元社、1966

 大川清『傷寒論の基本と研究』第2版 明文書房、2007

 3)研究書

 吉益東洞『東洞全集』思文閣出版、1980

 中西深齋『傷寒論辨正』寛政庚戌1790、名著出版、1981

 尾臺榕堂『類聚方廣義』安政丙辰1836、燎原書店、1972

 荒木正胤『日本漢方の特質と源流』上・下巻 荒木正胤遺徳会、1982

 長沢元夫『康治本傷寒論の研究』健友館、1992

 銭超塵『傷寒論文献通考』学苑出版社、1993

 山田慶児『中国医学の起源』岩波書店、1999

 山田慶児『中国医学はいかに作られたか』岩波書店、1999

 李順保『傷寒論版本大全』学苑出版社、2001

 4)臨床書

 尾臺榕堂『類聚方廣義』安政丙辰1836、燎原書店、1972  

  湯本求眞『皇漢医学』1927、燎原書店、1976

 奧田謙蔵『漢方古方要方解説』医道の日本社、1973  

  荒木正胤『漢方治療』岩崎書店、1957                                            

 大川清『漢方の臨床』-傷寒論を基本として- 幻冬舎、2018

傷寒論』(しょうかんろん、繁体字: 傷寒論; 簡体字: 伤寒论; 拼音: Shānghán lùn)は、後漢末期から三国時代張仲景が編纂した伝統中国医学の古典。内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっている。

概要[編集]

傷寒論(写本)

現伝の『宋版傷寒論』は「辨脈法」「平脈法」「傷寒例」「辨痙湿暍脈證」「辨太陽病脈證并治(上・中・下)」「辨陽明病脈證并治」「辨少陽病脈證并治」「辨太陰病脈證并治」「辨少陰病脈證并治」「辨厥陰病脈證并治」「辨霍亂病脈證并治」「辨陰陽易差病脈證并治」「辨不可發汗病脈證并治」「辨可發汗病脈證并治」「辨發汗後病脈證并治」「辨不可吐」「辨可吐」「辨不可下病脈證并治」「辨可下病脈證并治」「辨發汗吐下後病脈證并治」の篇からなりたっている。

このうち一般に辨太陽病脈證并治~辨厥陰病脈證并治までは「三陰三陽篇」といわれ、辨不可發汗病脈證并治~辨可下病脈證并治までは「可不可篇」といわれる。「三陰三陽篇」では、病気を太陽(たいよう)・陽明(ようめい)・少陽(しょうよう)・太陰(たいいん)・少陰(しょういん)・厥陰(けついん)の6つの時期にわけ、それぞれの病期に合った薬を処方することが特徴的である。

起源[編集]

建安という年号が終わって10年にもならない頃(建安元年から10年にもならない頃の説もある。また、建安ではなく建寧であろうとの説もある)に張仲景が、一族の者を傷寒で多く失ったため、記したのが本書と言われる。張仲景の名が張機で、長沙太守だったと唐代にかかれた『名医録』に記載され『宋版傷寒論』の序文に宋臣によって引用された説もあるが、正史である『後漢書』『三国志』にはその名がみられない。自序に「傷寒・雑病の論」とあることから傷寒雑病論繁体字: 傷寒雜病論; 簡体字: 伤寒杂病论; 拼音: Shānghán zábìng lùn)を原題名とする説や、傷寒卒病論が原題とする説があげられているが、5世紀の『小品方』に『張仲景弁傷寒并方』、『張仲景雑方』と記録されていることから『張仲景方』もしくはそれに類した名称で呼ばれていたのだろうと類推されている。しかし、これらの書は失伝した。

傷寒論は数多くの治療家に編纂・校訂された。そしていつ頃か、傷寒を扱った部分と雑病を扱った部分に分かれた。前者は『(張仲景)傷寒論』と題され、唐代に医師の国家試験テキストとされた[1]

西晋王叔和が撰した『脈経』には、現伝の『宋版傷寒論』と一致する条文が多くみられる。宋改を経た『脈経』はの何大任倣宋本が日本に現存する。

太平御覧』に引用された『養生論』に「王叔和 性沈静 好著述 考覈遺文 采摭群論 撰成脈経十巻 編次張仲景方論 編為三十六卷 大行於世」とあり、王叔和が『張仲景方論』を編したことが記されているがこの書は失伝した。

代の孫思邈が著した『千金方』第九には、傷寒が収められている。宋改を経た『備急千金要方』は南宋版が日本に現存する。

唐代の孫思邈が『千金方』の不備を扶翼する目的で撰述したとして仮託される『千金翼方』巻九・巻十には傷寒が収められている。この部分は、一般に『唐本傷寒論』と呼ばれる。宋改を経た『千金翼方』が大徳本として日本に現存する。

北宋開宝年間(968年 - 975年)、高継沖宋朝に帰順し宋朝としての武寧節度使に任ぜられた際、傷寒論を宋政府に献上した。その後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(992年)、高継沖本がとり入れられたと考えられている。この『太平聖恵方』中の傷寒部分は、『淳化本傷寒論』と呼ばれ、日本に現存する。

傷寒論として一般に知られているものが北宋の時代に林億(りんおく)、孫奇(そんき)たち(宋臣ら)が校正医書局において校正・復刻(宋改)した傷寒論である。大字本および小字本が出版された。宋改では、宋臣により大規模改変・変更が行われ刊行された。それ故、宋改を受けた書から直接、それ以前の書を知ることは大変困難である。これら宋改を経た大字本および小字本はまとめて『宋版傷寒論』といわれるが、失伝した。

宋改本の原本『宋版傷寒論』は現在に伝わっていないが、小字本の宋改本系にあたるものとして、趙開美刻『仲景全書』(1599年)の中の『翻刻宋版傷寒論』全10巻22篇が日本および中華人民共和国に現存している。この書は『趙開美本傷寒論』と一般にいわれる。

金匱玉函経』も、傷寒論の異本として、校正医書局において校正・復刻(宋改)されている。宋臣らは『傷寒論』に引き続き翌年にこの『金匱玉函経』を世に送り出しており、その重要性を認識していたと思われる。だが、『金匱玉函経』の宋改版が出た後、清朝の康煕56年(1717年)上海の陳世傑が『金匱玉函経』を刊行するまで650年以上にわたり、この『金匱玉函経』が出された記録は見つかっていない。日本においても1746年清水敬長によって『金匱玉函経』が翻刻されただけで、流布した本は少ないとされる。陳世傑本が、日本および中華人民共和国に現存している。

また、翰林学士王洙は国家の図書館で虫損を受けた古書中に『金匱玉函要略方』を発見した。この書は上巻に傷寒、中巻に雑病、下巻に処方と婦人病が記されたものであった。この『金匱玉函要略方』を転写して数人の学識者にのみ伝え、書中に処方とその主治証が完備しているものを使用してみたところ、効果は神の如くであった。そこで、宋臣らは下巻にあった処方を各々の相応する証候文の次に配置しなおし、諸家の方書中に散在する仲景の雑病に関する論説と処方の佚文を採取、各篇末に「附方」として補遺し、上巻の傷寒部分は節略が多いので削除し、その他の雑病より飲食禁忌までは残し、全25篇として総262方、これを上中下の三巻本に再編成し、これらの部分は大字本では『(新編)金匱方論』とされ、小字本では『(校正)金匱要略方』とされた。『金匱要略』とは、これら『金匱方論』、『金匱要略方』の通称である。

南宋成無己(せいむき、無已(むい)の説もあり)による『注解傷寒論』(1144年)では、『宋版傷寒論』と比較すると、『宋版傷寒論』の省略改変が行われており、条文の細字注記の省略、可不可篇で三陰三陽篇で重複する条文の削除、『宋版傷寒論』第五篇以降各篇の一字低格下条文を省略し、陰病の下法を「陽明転属」と解釈する等の点で改変を行っている。また、同一条文でも字句の相違が多い。この『注解傷寒論』は、一般に、『成注本』または『成本『傷寒論』』や単に『成本』とも通称される。こういった点があるにも関わらず、『注解傷寒論』は日本の漢方および中医学に多大な影響を残した。現存する『注解傷寒論』としては明倣元刊本が最善本のひとつとされる。この明倣元刊本はかつて日本にあり、考証学派によって躋寿館より和刻された。現在、明倣元刊本は台湾に現存する。

江戸時代の前半、最も流布した傷寒論は『注解傷寒論』系の傷寒論であった。日本の1660年ごろに作られた活字刊印の単経本傷寒論も『注解傷寒論』が底本であった。約半世紀後、同じ手法で『小刻本傷寒論』を香川修庵が1715年に抜粋・刊行し、大流行した。この小刻本『傷寒論』も、『注解傷寒論』系の書である。江戸時代に制作されたと考えられている『康平本傷寒論』・『康治本傷寒論』も『注解傷寒論』の特徴を持ち、『注解傷寒論』系の偽書とされる。

傷寒とは[編集]

傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。傷寒論におけるこの意味の扱いの違いは、林億(りんおく)、孫奇(そんき)らの校正・復刻による宋改の結果起こったことで、古典である傷寒論の解釈の違いになってくる。傷寒論のもっとも際立った功績とは、薬物療法を診断学と結びつけたことと湯液つまり煎じ薬を主体に薬物療法を組み立てたことだった[2]

ちなみに現代中国語ではチフスのことを傷寒という。傷寒とはさまざまな説があるが、現在医学でいうチフスインフルエンザマラリアに似た疾患ともいわれるが、詳細は不明である。

解釈の相違[編集]

傷寒論は古典であるためさまざまな解釈がでてくるが、

主に内容から、

  1. 風邪(ふうじゃ)などの外感熱病の専門書
  2. 疾病一般の弁証論治(診断して治療する方法)としての総合書

という2つの見解がある。

序文には、「感往昔之淪喪 傷横夭之莫救 乃勤求古訓 博采衆方 撰用 素問 九巻 八十一難 陰陽大論 胎臚 薬録 并 平脈辨証 為 傷寒雑病論 合十六巻」との記載があり、これらの書物が成立にあたって、参考にされたのであろうと考えられている。

(この『傷寒論』序文の『胎臚』『薬録』の部分は『胎臚薬録』とつなげて一つの書と解釈する人もいる[3][4][5][6]

中国と日本の違い[編集]

中医学漢方は違った発展をとげたものではあるが、中国、日本ともに傷寒論は重要な古典として扱われる(漢方医学の項を参照のこと)。

日本現存最古の医学書『医心方』を見ると、経絡の概念にとらわれず身体の部位別に経穴の記載する、脈診についての記載を避ける等、哲学を排除し実用化・技術化しており、鍼灸を独立した篇として扱う等、当初より日本化する傾向がみられる。さらに、安土桃山から江戸時代にかけて、口訣腹診管鍼法など、独自の進化をとげた。また、日本には、古方派といわれる学派や、医学において考証学といわれる文献資料を博捜・選択し、客観的事実に基づいてその真相・真理を究明するという学派が起こり、善本医籍の探索・蒐集とその校刻事業が行われた。

傷寒論に収載される方剤のうち有名なもの[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 小曽戸洋『新版 漢方の歴史――中国・日本の伝統医学――』あじあブックス076 大修館書店 2014年 p.74
  2. ^ 山田慶児『中国医学の思想的風土』潮出版社、1923年、P.43-44。
  3. ^ http://www1.ocn.ne.jp/~seizan/seizan/chouchukei.htm
  4. ^ http://shoukanron.blog52.fc2.com/?mode=m&no=71
  5. ^ http://homepage3.nifty.com/kojindo/unicheck/uni_s_z.htm
  6. ^ zh:傷寒雜病論

関連項目[編集]

外部リンク[編集]