油小路隆蔭

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油小路 隆蔭
油小路隆蔭像
時代 鎌倉時代末期-南北朝時代
生誕 永仁5(1297)年
死没 貞治3年3月14日(1364年4月16日)
別名 四条隆蔭、四条大納言、別当、歓乗(法名)
官位 正二位権大納言
主君 光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇
氏族 四条家油小路家
父母 父:四条隆政、母:家女房
兄弟 四条隆有(隆頼)、四条季政隆暁隆寿四条隆政女
源康世
四条隆敏油小路隆家四条顕保隆憲
特記
事項
光厳上皇の側近
花押 油小路隆蔭の花押
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油小路 隆蔭(あぶらのこうじ たかかげ)は、鎌倉末・南北朝期の公卿、一般的には四条隆蔭油小路家の祖。父は四条隆政西大路隆政)。

概歴[編集]

永仁6年11月19日、永陽門院御給により、従五位下に叙される[1]
元弘元年(1331)9月20日に光厳天皇が践祚すると蔵人頭となり、同年12月1日に参議後醍醐天皇より光厳天皇に剣璽[注 1]が返還された際には剣璽を検知し[2]、このとき隆蔭が記したのが、群書類従に収められている『剣璽渡御記』である[3]

正慶2年(1332)、隆蔭は光厳天皇や後伏見上皇らとともに倒幕運動が活発化したため六波羅探題に避難していたが、正慶2年(1332)5月7日に足利尊氏軍の攻撃によって六波羅探題が陥落。隆蔭は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇康仁親王らとともに、幕府軍を伴いながら東国へ逃避行を図る。しかし一行は劣勢を極め、幕府軍は近江国番場にて全員自害し、隆蔭や天皇らは捕らえらてしまった。なお、『増鏡』によると、最後まで光厳天皇らに付き従っていた公卿の中に、隆蔭と同じくその後光厳院政を支えることになる柳原資明勧修寺経顕などがいたという[4]正慶2年(1333)正月17日、後醍醐天皇の皇位回復により官位を停止される。

しかし、南北朝分裂後は北朝 に従い、建武4年1月7日に権中納言、同12日に参議に任命され、同年12月24日には正三位に叙された。光厳上皇の信頼が厚く、同上皇の院政下では、院評定衆伝奏検非違使庁別当を兼ね、光厳院政を支える。貞和3年11月16日、権大納言に進む。この間、興福寺と対立するところがあり、2度の放氏(氏族からの追放)を経験するがともに許された[5]

貞治3年(1364)2月21日に、光厳法皇を戒師として出家[6]した。法名は歓乗。剃髪直前に光厳法皇の推挙を経て一品を所望したものの、同じく光厳の側近であった勧修寺経顕の反対によって退けられた[7]。その落胆から剃髪に思い至ったとされる[8]。貞治3年3月14日(1364年4月16日)、中風及び所労によって薨去、67歳(数え年)[7]。 日記に『隆蔭卿記』がある。

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 三種の神器のうち、天叢雲剣八尺瓊勾玉のこと。この二つは天皇の移動の際に常時持ち出されるため、後醍醐天皇がこの二つを笠置山に持って行き、光厳天皇の践祚では三種の神器が揃わなかった。のち後醍醐天皇が捕縛されたため、後醍醐天皇は剣璽を返還したのである。

出典[編集]

  1. ^ 『公卿補任(上)』p.1156
  2. ^ 『花園天皇宸記』元弘元年10月6日条
  3. ^ 新日本古典籍総合データベース
  4. ^ 深津,2014,p.88、参照。
  5. ^ 小森正明「四条隆隆」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社,1994)
  6. ^ 『師守記』貞治3年2月21日条
  7. ^ a b 『後愚昧記』貞治3年3月14日条
  8. ^ 芳澤,2020,pp.128,129。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]