一期一振

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一期一振(いちごひとふり)とは、粟田口吉光作の日本刀太刀)。享保名物帳消失之部に記載される名物であり、また、皇室経済法第7条に規定する「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(いわゆる御由緒物)でもある。現在、皇室の私有財産(御物)として宮内庁侍従職が管理する。宮内庁では、御物番号28『山城国吉光御太刀』と整理されている[1]ほか、文化財の命名法に倣い『太刀 額銘吉光(名物一期一振)』とも、作者の通称とあわせた『一期一振藤四郎』とも、作者の名をあわせた『一期一振吉光』とも呼ばれる。

概要[編集]

所有者の一覧
所有者 入手方法
吉光 作成
この間不明
朝倉氏 不明
毛利氏 不明
豊臣秀吉 贈与
豊臣秀頼 相続
徳川家康 拾得
徳川義直 相続
徳川光友 相続
徳川綱誠 相続
徳川吉通 相続
徳川五郎太 相続
徳川継友 相続
徳川宗春 相続
徳川宗勝 相続
徳川宗睦 相続
徳川斉朝 相続
徳川斉温 相続
徳川斉荘 相続
徳川慶臧 相続
徳川慶勝 相続
徳川茂徳 相続
孝明天皇 贈与
明治天皇 相続
大正天皇 相続
昭和天皇 相続
明仁 相続

粟田口吉光は鎌倉時代中期の山城国で活躍した刀工であり、彼の作る日本刀は、正宗郷義弘とともに名物三作として古来から珍重されている。彼の作品は短刀ばかりで、太刀はこの一振しか作らなかったとされているため「一期一振」と呼ばれたとされる。真相は明らかではないが、現存作の中で吉光の真作が明らかとなっている太刀は本刀以外確認されていない。

戦国時代朝倉氏が所有していたが、朝倉氏滅亡後は毛利氏の物となり、毛利輝元より豊臣秀吉に献上された。その後、豊臣秀頼に相続され、大阪城落城により一期一振は焼身となるも、徳川家が取得し、越前康継(年代的に二代目、もしくは三代目)に打ち直させた。こうして焼き直された一期一振は、その後、尾張徳川家に伝えられた。幕末に至り、文久3年(1863年)、第15代尾張藩徳川茂徳より孝明天皇に献上された[1]。以後、歴代天皇が相続し、明仁の相続の際には、いわゆる御由緒物として相続税法第12条第1項第1号に規定する相続税の非課税財産として整理された[1]

刃長は2尺2寸8分(約69cm)。反りは8分5厘(約2.58cm)。鎬造、庵棟、猪首切先。地鉄は小板目、刃文は直刃に小乱れ、互の目が交じり、小足が入る。は大磨上、先栗尻、目釘穴は一つで、その下に吉光と切られた額銘が佩表に入る。

秀吉擦り上げ説が有名であるが享保名物帳の記述によれば、大坂の役で罹災した直後に越前康継が焼き直しを行い、その際に2尺8寸3分(約86cm)あったものを2尺2寸8分(約69cm)に5寸ほど(16.6cm)切り詰めて入銘(額銘)にしたとされる。また天正18年(1590年)に毛利氏から移った5年後の文禄4年(1595年)の大友本でもまだ生ぶのままであり、その3年後、慶長3年(1598年)8月に死んだ秀吉がいつごろ何寸に磨上したのかはわからないが、再刃の際に吉光の銘がそのままであった(だからこそ額銘にできた)ことを考えると、磨上されていなかったのではないかと思われる。

いわゆる御由緒物の刀剣の多くは宮中祭祀などで役割を担っている。いわゆる御由緒物として取り扱われる本太刀は、1909年(明治42年)に公爵伊藤博邦から献上された相州行光の太刀(いわゆる御由緒物)とともに、毎年10月17日に実施される宮中での神嘗祭の際に使用されることとされている[1]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 宮内庁『御物調書』1989年、p3

関連項目[編集]