一期一振

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一期一振
指定情報
種別 御物
基本情報
種類 太刀
時代 鎌倉時代中期
刀工 粟田口吉光
刀派 粟田口派
刃長 68.78 cm、茎長17.27 cm
反り 2.58 cm(刀身反)、茎反わずか
先幅 2.36 cm
元幅 3.18 cm
先重 0.67 cm
元重 0.76 cm
所蔵 宮内庁侍従職東京都千代田区
所有 皇室
番号 御物番号28[1]

一期一振(いちごひとふり)は、鎌倉時代中期に作られたとされる日本刀太刀)である[2]皇室の私有財産にあたる御物であり、宮内庁侍従職が管理している[注釈 1][1]享保名物帳焼失之部に記載される名物である[2]

概要[編集]

粟田口吉光鎌倉時代中期の山城国で活躍した刀工であり、彼の作る日本刀は、正宗郷義弘とともに名物三作として古来から珍重されている。彼の作品は短刀ばかりで、太刀はこの一振しか作らなかったとされているため「一期一振」と細川幽斎が名付けたとされている[3]。ただし、本阿弥光徳は正真として扱い、本阿弥光刹はそうでないとする意見に分かれる[4]。福永はこれを銘が大きすぎることが原因としており、唯一の太刀であるため比較ができないとの考えを述べている[4]。名前の意味は一生のうちでの傑作もしくは注力した作品を示す[2]

伝来は越前朝倉家に伝来したとされる説、堺から本阿弥祐徳が銀三十枚で購入したものを豊臣秀吉が金10枚で取り上げたとされる説、1590年(天正18年)に毛利家から赤銅の金具と総桐の紋の付いた拵と共に献上されたとする三つの説に刀剣研究家の福永酔剣は触れている[2]。『豊臣家御腰物帳』には豊臣家が所有した名刀が一之箱から七之箱までに分けられて記載されているが、一期一振は筆頭の「一之箱」に収められ、そのうちでも骨喰藤四郎に次いで二番目に記載されている[5][2]。また、目貫(めぬき)と(こうがい、結髪用具)は後藤祐乗が制作したものに取り換えられた[2]

大坂夏の陣により大坂城が落城した際に焼身となったため、初代越前康継(下坂康継)により再刃された[2][6]。この時元々二尺八寸三分だったものを二尺二寸三分に磨り上げ、銘を額銘に変更したことが『享保名物帳』に記されている[2][注釈 2]。『駿府政事録』によると大阪城の落城した翌々月の16日に京都から下坂が呼ばれ、被災した刀の焼き直しをさせたと記されている[2]。その後本作は名古屋城に保存されたままとなったため、『名物帳』でも将軍家のものとする記載と尾張家のものとする記載に分かれた[4]

幕末に至り、1863年文久3年)に第15代尾張藩主である徳川茂徳よって孝明天皇に献上された[1]。それ以降は御物として扱われ、歴代天皇が相続した[4]。いわゆる御由緒物の刀剣の多くは宮中祭祀などで役割を担っている。いわゆる御由緒物として取り扱われる本太刀は、1909年(明治42年)に公爵伊藤博邦から献上された相州行光の太刀(いわゆる御由緒物)とともに、毎年10月17日に実施される宮中での神嘗祭の際に使用されることとされている[1]上皇明仁の相続の際にはいわゆる御由緒物として相続税法第12条第1項第1号に規定する相続税の非課税財産として整理された[1]

作風[編集]

刀身[編集]

刃長(はちょう、刃部分の長さ)は68.78センチメートル、反り(切先から鎺元まで直線を引いて直線から棟が一番離れている長さ)は2.58センチメートル、茎反わずか、元幅3.18センチメートル、先幅2.36センチメートル、元重0.76センチメートル、先重0.67センチメートル、茎長17.27センチメートル、切先長3.48センチメートル[8]

造込(つくりこみ)[用語 1]は鎬造(しのぎつくり、平地<ひらじ>と鎬地<しのぎじ>を区切る稜線が刀身にあるもの)であり、棟は庵棟(いおりむね、刀を背面から断面で見た際に屋根の形に見える棟)である。切先(きっさき、刃の先端部分)は猪首切先(いくびきっさき、先幅は大きいが長さが短いこと))[用語 2]である。

鍛え[用語 3]は小板目(こいため、板材の表面のような文様のうち細かく詰まったもの)、刃文(はもん)[用語 4]は直刃に小乱(こみだれ、直刃の中に刃と地鉄の境目に互の目が混じっている)、互の目(ぐのめ、丸い碁石が連続したように規則的な丸みを帯びた刃文)が交じり、小足が入る。(なかご、柄に収まる手に持つ部分)は大磨上、茎尻(なかごじり)は栗尻(くりじり、栗の様にカーブがかっていること)、目釘穴は一つで、その下に吉光と切られた額銘が佩表に入る。表裏に棒樋が入る[4]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 御物とは、皇室経済法第7条に規定する「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(いわゆる御由緒物)のことである。
  2. ^ 1615年(元和元年)5月7日の戦利品として徳川家康の元に渡り、喜んだ家康が明石全登の所持していたこの刀をどうやって入手したかを権田五太夫に尋ねたところ、全登の消息については確認が取れなかったとする異説も挙げられている[2]。福永は『光徳刀絵図』の文禄3年(1594年)、文禄4年の押形は一致し、大阪城落城の後となる元和元年のものは帽子の状態が異なるものであったことから、落城後半年以内に本作が焼き直された証拠として1657年(明暦3年)の大火で焼けたとする説も誤りとして否定した[2]。また福永は全登が逃亡のため意図的に置いて逃れたとの憶測を述べている[7]

用語解説[編集]

  • 作風節のカッコ内解説及び用語解説については、刀剣春秋編集部『日本刀を嗜む』に準拠する。
  1. ^ 「造込」は、刃の付け方や刀身の断面形状の違いなど形状の区分けのことを指す[9]
  2. ^ 「猪首切先」は、その特徴からイノシシの首の様に短い様から名付けられた[10]。猪首切先は鎌倉時代中期の太刀でよくみられる[10]
  3. ^ 「鍛え」は、別名で地鉄や地肌とも呼ばれており、刃の濃いグレーや薄いグレーが折り重なって見えてる文様のことである[11]。これらの文様は原料の鉄を折り返しては延ばすのを繰り返す鍛錬を経て、鍛着した面が線となって刀身表面に現れるものであり、1つの刀に様々な文様(肌)が現れる中で、最も強く出ている文様を指している[11]
  4. ^ 「刃文」は、赤く焼けた刀身を水で焼き入れを行った際に、急冷することであられる刃部分の白い模様である[12]。焼き入れ時に焼付土を刀身につけるが、地鉄部分と刃部分の焼付土の厚みが異なるので急冷時に温度差が生じることで鉄の組織が変化して発生する[12]。この焼付土の付け方によって刃文が変化するため、流派や刀工の特徴がよく表れる[12]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 宮内庁『御物調書』1989年、3頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 福永 1993, p. 87.
  3. ^ 柴田光男; 大河内常平 『趣味の日本刀』 雄山閣出版、2005年、255頁。ISBN 4-639-01881-9NCID BA74029159 
  4. ^ a b c d e 福永 1993, p. 88.
  5. ^ 本阿弥光徳、本間順治編 『光徳刀絵図集成』 便利堂、1943年。 NCID BN03793504 
  6. ^ 佐藤貫一 『康継大鑑』 日本美術刀剣保存協会、1960年、101-102頁。 NCID BA85483267 
  7. ^ 福永 1993, pp. 87-88.
  8. ^ 本間順治; 佐藤貫一 『日本刀大鑑 古刀篇1【図版】』 大塚巧藝社、1968年7月、50頁。 NCID BA38019082 
  9. ^ 刀剣春秋編集部 2016, p. 165.
  10. ^ a b 刀剣春秋編集部 2016, p. 166.
  11. ^ a b 刀剣春秋編集部 2016, p. 174.
  12. ^ a b c 刀剣春秋編集部 2016, p. 176.

参考文献[編集]

関連文献[編集]