郷義弘

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郷 義弘(ごう よしひろ[1]、生没年不詳[2])は、南北朝時代越中の刀工。江 義弘(ごう の よしひろ[注釈 1])とも。越中国新川郡松倉(現在の富山県魚津市)に住み、27歳で没したと伝わる。師は岡崎正宗または越中則重と云われ、「郷」または「江」(読みはいずれも「ごう」)と称し、新川郡の郷川(江川)ほとりの姓による。

概要[編集]

正宗十哲の一人とされ、相州正宗粟田口吉光とともに名物三作(『享保名物帳』による)と呼ばれるほど珍重され、各大名はこぞって手に入れたがった。しかし、義弘と在銘の作は皆無であり、鑑定家の本阿弥が極めをつけた代物、無銘であるが郷だろうと言われるものしか存在しない。また、作風が似た刀を本阿弥が郷に出世させたものもあるという。そのことから、「郷とお化けは見たことがない」と言われるほどであった。ただし、これは存在を疑うものではなく、在銘品のないことを言ったまでである。

室町中期の刀剣書『往昔抄』には「江」と銘のある作刀を載せ、五郎入道(正宗)の弟子とある[3]。越中松倉郷に住したことから「郷」と称するというが、小笠原信夫は、「郷」は各地に無数にあるものであり、本来は「江」で、大江氏の出自であることを表したものではないかと推測する[4]

作風は相州伝(正宗など相模鍛冶の作風)を基調として、地刃ともに明るく冴えるのが特色である。いわゆる「北国物」(越中、越前、加賀などの刀工の作品)は、地鉄が黒ずむのが特色で、郷義弘のみ異質であることから、その存在を否定する説や、作風に共通点のある大和国の刀工と混同されているのではないかとの説もある[5]

新刀期の長曽祢興里(初代虎徹)が私淑したと言われ、その作を狙った刀を打ち、井上真改南紀重国など一流の刀工たちもこの作を写したりしており、後世に与えた影響は大きい。国宝重要文化財に指定された刀が多く、おそらく全ての日本刀の中で最も入手困難な刀工作品の一つである。

作刀[編集]

刀 金象嵌銘 天正十三十二月日江 本阿弥磨上之(花押)所持稲葉勘右衛門尉(稲葉江)
国宝
重要文化財

義弘の現存作刀で在銘のものは皆無である。上記の「金象嵌銘」「朱銘」は本阿弥家による鑑定銘であり、義弘本人が切った銘ではない。

2014・2015年の文化庁による所在確認調査の結果、所在不明とされた物件については「所在不明」とした[6][7]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「江」を古代氏族(氏#古代氏族としての「氏」)である「大江氏」の略記と解釈する場合は、氏名と個人名の間に「の」を付けて訓む。例としては、高階氏出身の高階師直(たかしな の もろなお)を、高師直(こう の もろなお)と通称することなど。
  2. ^ もとは東京都の個人所有。岩国美術館への移動については次の資料から確認:山口県の文化財”. 山口県. 2019年9月12日閲覧。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 展覧会図録『特別展正宗 日本刀の天才とその系譜』、佐野美術館、富山県水墨美術館、徳川美術館、根津美術館、2002
    • 渡邉妙子「名工正宗と相州伝の流れについて」
  • 小笠原信夫『日本刀』(文春新書)、文藝春秋、2007