明石全登

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明石全登
Akashi Takenori.jpg
太平記英勇伝五十三:明石儀太夫秀基(落合芳幾作)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 元和4年(1618年)?
別名 景盛、守重、守之、全職、掃部
通称:掃部
号:道斎
霊名 ジョアン・ジュスト、ジョアニー
官位 掃部頭または掃部助、従五位下・左近将監
主君 浦上宗景宇喜多直家
秀家豊臣秀吉)→秀頼
氏族 備前明石氏
父母 父:明石行雄
兄弟 全登、女(伊賀家久室)、全延(異説あり)
正室:宇喜多直家の娘[1]
某(長男、氏名不詳)、景行(次男、叔父景季の養子、異説あり)、内記、女(岡平内室)、女(三好直政室)[2]

明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり[3]/かげもり/もりしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将は複数伝わり、定かではないが、「明石全登」の名が一番有名。通称掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。

生涯[編集]

備前保木城主の明石行雄(景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)であり[4]、銅山経営者、技術統率者の側面を持つ一族である[5]

行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年9月浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り[6]、以後、宇喜多家に帰属することになった。行雄は弟の景行と共に、直家とその子の秀家に仕えて天正16年で諸大夫(従五位下)、4万石の知行までになった。行雄の嫡子全登も行雄が存命中の文禄5年4月以前にその跡を継いで[7]和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老であったものの領国経営には携わっていない[8]

慶長4年(1599年)、お家騒動宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安宇喜多詮家(坂崎直盛)岡貞綱花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った[9]。当初、3万3110石の知行だったが[10]、秀家の岳父である太閤豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった[4]

慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方の西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。

西軍敗走の際に黒田長政に遭遇したという記述がある[11]。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に三成、秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。

戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。

宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水[12]の下で庇護されたといわれている[13]。中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。

慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると信仰上での問題で豊臣方として参陣した[14]。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成神保相茂伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直本多忠政藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。

その後の消息は不明である。『徳川実記』[15]『土屋知貞私記』『石川家中留書』など[16]徳川方の複数の家伝が全登をこの戦いで(水野勝成家臣の汀三右衛門あるいは石川忠総が)討ち取ったと伝え、『大坂御陣覚書』『大坂記』など[16]幾つかの史料が戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、『大村家譜』『山本豊久私記』など[16]幾つかは嫡子内記と共に九州に、また『戸川家譜』[15]『武家事紀』[16]には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あって判然としない。

子孫[編集]

  • 秋田県比内町に明石全登の子孫と伝えられる一族がある。家伝によれば大阪落城後に仙台伊達政宗に保護される。しかし、幕府の詮議が厳しくなったので津軽に移動し、津軽信枚の保護を受けて弘前城内に匿われた。全登の三人の男子は弘前を離れて流浪の末に扇田にたどり着いて定住したと言われる。子孫と伝えられる明石家には全登から伝えられた仏像が残っている。元国際連合事務次長の明石康は同地の明石一族の出身で全登の子孫と伝えられている[17]

伝記[編集]

後山山麓に明石を名乗る一族がある。祖先は岡山城主宇喜多秀家の老臣だった明石掃部介といわれる。

「東作誌」を見ると「家伝に曰く掃部介全登大阪より落魄して後山村に来りし時 凌霄花今を盛なるに愛でてついに足を駐むと云う。貯の黄金若干あり田地多く買得し熾なる時は高百八十石もあり 土人等富有なると緩怠なるを悪み 喧嘩に乗じて之を殺す、其旧趾今に喧嘩橋と云う、掃部介の妻子是を聞いて大いに憤怒し眉尖刀(なぎなた)を振出して七人斬殺せる故土人退散す 今其の旧趾を十日の祖母と云う…」とある。

~中略~

元和元年五月七日大阪城落城のときあやうく戦場を脱出し浦上時代より縁故の多い播磨の奥地に匿れ、やがて後山山麓の凌霄花の花盛りに心ひかれて土着し農となり一族各地に繁栄する。

全登に四男あり。長子は吉野郡讃甘庄今岡村(現美作市下町)に住む(明石屋敷なる地名、石垣あり)俗称義蔵という。豪邁の人物で又俳諧に名を得、蛙我と号す。

二子、三子は商人となり、四子が後山村にて農耕に従事する。 ~後略~

東粟倉村史(現岡山県美作市)より

関連作品[編集]

映画
テレビドラマ

脚注[編集]

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  1. ^ 正室を田中吉政の娘とする説がある。
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  3. ^ の「全登」の読みは、「たけのり」の他に「てるずみ」「ぜんとう」「なりとよ」「いえのり」などが伝わる。福本 1921, p.326
  4. ^ a b 福本 1921, p.325
  5. ^ 岡本明郎「岡山県東部のキリシタン遺跡・建物」(『熊山町史調査報告』4号、1992年)
  6. ^ 大西 2015, pp.87-88
  7. ^ 大西 2015, p.92
  8. ^ 大西 2015, p.93
  9. ^ 大西 2015, p.101
  10. ^ 大西 2015, p.91
  11. ^ 大西 2015, p.116
  12. ^ 如水の母は、明石正風の娘(一説に岩姫)で、小寺政職の養女となって、孝高の父職隆に嫁いだ。播磨明石氏の明石正風とは、通説としては同族であると言われている。
  13. ^ 大西 2015, pp.117-118
  14. ^ 大西 2015, p.127
  15. ^ a b 大西 2015, p.128
  16. ^ a b c d 福本 1921, p.335
  17. ^ 野添憲治編『秋田県の不思議事典』38ページ

参考文献[編集]

  • 福本日南国立国会図書館デジタルコレクション 「明石全登」 『大阪城の七将星』 文会堂書店、1921年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965668/172 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 松田毅一「一条兼定・明石掃部について」(海老沢有道監修・基督教史学会編『切支丹史論叢』小宮山書店、1953年)
  • 『国史大辞典』一(吉川弘文館、1979年)岡田章雄執筆文
  • フーベルト・チースリク「キリシタン武将―明石掃部―」(『歴史読本』329号、1981年)
  • フーベルト・チースリク「明石掃部とその一族」(高祖敏明監修『秋月のキリシタン』教文館、2000年)
  • 石田善人「明石と明石氏について」(藤井駿先生喜寿記念会編『岡山の歴史と文化』福武書店、1983年)
  • 岡本明郎「岡山県東部のキリシタン遺跡・建物」(『熊山町史調査報告』4号、1992年)
  • 『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社、1994年)加原耕作執筆文
  • 大西泰正 『宇喜多秀家と明石掃部』 岩田書院、2015年ISBN 9784872948905 
  • 大西泰正「明石掃部の基礎的考察」(『岡山地方史研究』125号、2011年)
  • 大西泰正『明石掃部の研究』(同刊行会、2012年)
  • 森本繁『明石掃部』(学研M文庫、2006年) ISBN 978-4-05-900453-0
  • 小川博毅『史伝 明石掃部―最後のキリシタン武将―』(橙書房、2012年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]