懽子内親王
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懽子内親王 | |
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続柄 | 後醍醐天皇皇女 |
全名 | 懽子(かんし/よしこ) |
称号 | 宣政門院 |
身位 | 一品・内親王、准三宮 |
出生 |
正和4年10月16日(1315年11月13日) |
死去 |
康安2年/正平17年5月7日(1362年5月30日)(享年48) |
配偶者 | 光厳天皇 |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 中宮西園寺禧子 |
役職 | 伊勢斎宮 |
懽子内親王(かんし[1]/よしこないしんのう、正和4年10月16日(1315年11月13日) - 康安2年/正平17年5月7日(1362年5月30日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族、歌人。後醍醐天皇皇女、母は中宮・西園寺禧子(後京極院)。伊勢斎宮、のち光厳上皇妃、女院。院号は宣政門院。
生涯
[編集]元応元年(1319年)6月26日、内親王宣下。同年10月、一品に叙される。正中2年(1325年)8月16日、裳着。元徳2年12月19日(1331年2月4日)、16歳で父後醍醐天皇の斎宮に卜定。翌元弘元年(同じく1331年)1月、准三宮。同年8月20日、野宮に入る。まもなく元弘の変で後醍醐天皇が退位、隠岐へ配流のため、同年斎宮退下。元弘3年(1333年)12月、光厳上皇の後宮に19歳で入内。建武2年(1335年)2月2日、院号宣下。暦応2年(1340年)5月29日、保安寺に入り出家。康安2年(1362年)5月7日、48歳で薨去。
『新千載和歌集』等に、懽子内親王(宣政門院)の詠歌が残っている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 安西, 奈保子「後醍醐天皇をめぐる三人の斎宮たち : 獎子内親王・懽子内親王・祥子内親王」『日本文学研究』第23号、梅光女学院大学日本文学会、1987年、133–146頁。
- 芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。
- 安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年。
- 山中智恵子『続斎宮志』砂子屋書房、1992年。 ISBN 4-7904-9221-4