桂宮淑子内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
桂宮 淑子内親王
桂宮
続柄 仁孝天皇第三皇女
称号 敏宮(ときのみや)
身位 一品内親王准三宮(准后)
敬称 桂准后宮
出生 文政12年1月19日1829年2月22日
山城国
死去 明治14年(1881年10月3日
山城国
埋葬 明治14年(1881年10月20日
京都府京都市東山区泉涌寺
父親 実父:仁孝天皇(第120代天皇
養父:桂宮節仁親王(第11代桂宮
母親 甘露寺妍子
テンプレートを表示

桂宮 淑子内親王(かつらのみや すみこないしんのう、文政12年1月19日1829年2月22日) - 明治14年(1881年10月3日)は、仁孝天皇の第三皇女。生母は按察使典侍甘露寺妍子。幼名は敏宮(ときのみや)。孝明天皇は異母弟、和宮親子内親王は異母妹にあたる。

来歴[編集]

天保11年(1840年)1月28日、閑院宮愛仁親王と婚約。天保13年(1842年)9月15日には結婚を前に内親王宣下を被るが、その2日後に愛仁親王が薨去してしまった。

文久2年(1863年)12月23日に異母弟・節仁親王が薨去すると、不在となった桂宮を第12代として継承。これは女宮が当主として世襲親王家を継承した唯一の例である。次いで慶応2年(1866年)4月22日には准三宮(准后)一品に叙される異例の厚遇を受けた。以後は桂准后宮(かつら じゅごうのみや)と呼ばれることになり、宮中席次でも同じ准三宮だった孝明天皇女御・九条夙子より上席だった。

明治14年(1881年)53歳で薨去。同年10月20日京都府京都市上京区相国寺で葬儀が執り行われ、同市東山区泉涌寺内に葬られた。淑子内親王の薨去をもって桂宮家は断絶する。久邇宮朝彦親王は三男の世志麿(久邇宮邦彦王)に桂宮を継がせようと政府要人に働きかけたものの、成功しなかった。

人物[編集]

大変人見知りの激しい性格で、御所の庭を散歩するときにも輿に乗り、簾の間からかいま見るという行動をとっていた。物怖じしない性格の和宮とは全く対照的だったという。その和宮とは一時期同居していたことがある。

現在二条城本丸御殿といわれているのが、淑子の住まいであった桂宮邸である。を愛好していた彼女の好みにより、座敷の一部は能舞台として使えるように改造がくわえられており、今でもその遺構が残っている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]