守邦親王
守邦親王 | |
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鎌倉幕府9代将軍 | |
続柄 | 久明親王嫡男 |
身位 | 親王 |
出生 |
正安3年5月12日(1301年6月19日) 相模国鎌倉 |
死去 |
元弘3年8月16日(1333年9月25日)[1] 伝武蔵国比企[2] |
埋葬 | 伝大梅寺[2] |
子女 | 守恵 |
父親 | 久明親王 |
母親 | 惟康親王の娘 |
役職 | 二品、征夷大将軍 |
サイン |
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守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9ヶ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。
生涯[編集]
8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。
延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。当時幕府の実権は執権の北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった[注 1]。そのため将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず、文保元年(1317年)4月に内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙されたことがわかることくらいである[4]。
また、題目宗の是非を問う問答対決の命を亡き日蓮の六老僧の一人日朗(武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し、文保2年(1318年)12月20日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認める。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)が起きたが、その際に後醍醐天皇の皇子護良親王が発した令旨では討伐すべき対象が「伊豆国在庁時政子孫高時法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた[4]。
元弘3年5月22日、足利義詮や新田義貞の攻撃により鎌倉は陥落し(鎌倉の戦い)、鎌倉幕府は滅亡した。同日に得宗の高時以下北条一族の大半は東勝寺で自害して果てた(東勝寺合戦)が、その日の守邦親王の行動は何も伝わっておらず、ただ将軍職を辞して出家したという事実のみしかわかっていない。守邦親王は幕府滅亡後の3か月後に薨去したと伝えられているが、その際の状況も全くわかっていない[5]。ただし、埼玉県比企郡には守邦親王に関る伝承がさまざまに残っており、親王は鎌倉幕府滅亡後、当時の武蔵国比企郡増尾郷(現・埼玉県比企郡小川町増尾)に逃れて薙髪し、梅王子と号した。しかし、病を得て薨去し、同地の大梅寺(現・小川町大塚)に葬られた。また大塚八幡神社(同)は梅王子を氏神とし、鎌倉八幡宮を勧請したものという[2]。
官歴[編集]
日付は旧暦である。
将軍在職中の執権[編集]
- 北条師時(宗政の子。10代執権)
- 北条宗宣(宣時の長男。11代執権)
- 北条煕時(為時の長男。12代執権)
- 北条基時(時兼の長男。13代執権)
- 北条高時(9代執権貞時の三男。得宗。14代執権。長男(北条邦時)に「邦」の字を偏諱として与える。)
- 北条貞顕(顕時の四男。15代執権)
- 北条守時(久時の長男。16代執権、「守」は親王が偏諱として与えたもの)
偏諱を与えた人物[編集]
登場作品[編集]
- テレビドラマ
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 細川重男編 『鎌倉将軍・執権・連署列伝』、日本史史料研究会監修 吉川弘文館、2015年。
- 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 『親王・諸王略傳』守 [守邦] - ウェイバックマシン(2019年3月31日アーカイブ分)