永助法親王

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永助法親王(えいじょほっしんのう、康安2年/正平17年3月29日1362年4月24日) - 永享9年2月10日1437年3月16日))は南北朝時代から室町時代の北朝側の皇族。

生涯[編集]

後光厳天皇の第5皇子として生まれる。母は広橋仲子(崇賢門院)。俗名は煕永(よしなが)。法名は初め空助。通称は後常瑜伽院御室[1]

しかし、当時の皇太子は兄の緒仁親王(後円融天皇)で決定させられていたので当時の慣例に従い出家させられた。その当時、皇統は南朝と北朝で対立しており、更に北朝内でも崇光天皇が皇子の栄仁親王に皇位を継がせようとしており崇光流と後光厳流で分かれており、誰が皇位を継ぐかで争っていた。[要出典]

応安5年/文中元年(1372年)親王となり、その翌年に真言宗仁和寺の門跡を継いだ。日記として「永助法親王記」が伝えられている[1]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 永助入道親王』 - コトバンク
  • 皇位継承で注目される「旧宮家」とは(前編) - nippon.com
  • 南北朝内乱(なんぼくちょうないらん)とは? 意味や使い方