四天王寺

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四天王寺
Shitennoji06s3200.jpg
中心伽藍回廊
所在地 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
位置 北緯34度39分14.04秒
東経135度30分59.22秒
座標: 北緯34度39分14.04秒 東経135度30分59.22秒
山号 荒陵山
宗派 和宗
寺格 総本山
本尊 救世観音
創建年 推古天皇元年(593年
(『日本書紀』による)
開基 聖徳太子
別称 金光明四天王大護国寺
札所等 新西国三十三箇所第1番
西国三十三所番外霊場
西国薬師四十九霊場第16番
近畿三十六不動尊霊場第1番
摂津国八十八箇所第25番
摂津国三十三ヶ所第33番
おおさか十三仏霊場第4番
大阪七福神(布袋尊)
河内飛鳥古寺霊場第1番
なにわ七幸めぐり
大坂三十三所観音めぐり第20番 - 24番
聖徳太子霊跡第1番
法然上人二十五霊場第6番
西山国師遺跡霊場客番札所
四国八十八箇所番外霊場
役行者めぐり
神仏霊場巡拝の道第43番
文化財 紙本著色扇面法華経冊子5帖ほか(国宝
六時堂・絹本著色両界曼荼羅図ほか(重要文化財)ほか
八角亭(登録有形文化財)
公式HP 和宗総本山 四天王寺 - 日本仏法最初の官寺
法人番号 2120005001046 ウィキデータを編集
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四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。

日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている[1]

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった[2]。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

歴史[編集]

七星剣

『日本書紀』に見る創建の経緯[編集]

創建時の四天王寺伽藍模型(大阪府立近つ飛鳥博物館展示)。南から北へ(この画像では右から左へ)中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置するのが特色。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである[3][4]

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現・大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。

『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあって、「是歳」が造営の開始を意味するものか完成を意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている[5]。ただし、四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦とみなされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことがわかる。四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷がみられる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことがわかる[6]

四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。

創建に関わる異説[編集]

四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本 巻頭と巻末)

当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、推古天皇元年(593年)から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとするが、鵲森宮が元四天王寺の存在を示す根拠にあげる「難波古絵図」には、石山(現・大阪城本丸)の東隣に「四天王寺跡」が描かれており、四天王寺跡と接する東の河川が現在の大阪城東外堀であることから「元四天王寺」は現在の大阪城二の丸梅林付近に存在した事となり社伝と矛盾している)。また、建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲森宮が難波の守屋の宅跡と推測する[7])に御堂を営んだ6年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。現在四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており[8] 守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。

山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪市住吉区にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」、「小帝塚山」と地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学校の敷地内にあったといわれている。また、東高津宮は、仁徳天皇皇居であるとする1898年明治31年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。

現在の大阪市東淀川区豊里の東部は、もとは西成郡天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。なお、8世紀の西成郡と隣接する東生郡郡領は、吉士系で占められていたとする推察がある[9]

20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある[10]。 また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、孝徳朝創建説[11]阿倍氏創建説[12]、難波吉士氏寺説[13]。があり、加藤謙吉は孝徳朝以降の造営事業は「少なくとも四天王寺を豪族の私寺的なものとみることはできない。[14]」とする。

四天王寺七宮[編集]

四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。大江神社上之宮神社、小儀神社、久保神社、土塔神社、河堀稲生神社堀越神社の7つで、これらの神社を産土神とする7つの集落が東成郡天王寺村となった。

四箇院[編集]

伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院施薬院療病院悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。

施薬院は、後に聖徳太子が『勝鬘経』を講じた地だとする伝承があり、勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。

平安時代[編集]

法隆寺が飛鳥時代奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代承和3年(836年)には落雷で初代五重塔が破損し、天徳4年(960年)には火災によって全山焼失している。

聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている『四天王寺縁起』は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。『四天王寺縁起』は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、発見時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。

院政期の上皇法皇は四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の『四天王寺縁起』を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している。これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている。平安から鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗最澄真言宗空海融通念仏良忍浄土宗法然浄土真宗親鸞時宗一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。

鎌倉時代以降[編集]

室戸台風で倒壊した6代目五重塔

康安元年(1361年)には金堂が地震で倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。

天正4年(1576年)5月には織田信長による大坂本願寺攻め、いわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、織田軍に火を付けられて全焼している。その上、寺領を全て没収されている。

天正12年(1584年)には金堂が建立された。文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われ、単層の金堂が重層に改築され、ほかの堂舎も再建された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔が移築され、4代目の五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。

しかし、慶長19年(1614年大坂冬の陣で焼失する。そして、元和9年(1623年)に将軍徳川秀忠によって5代目五重塔や伽藍が再建され、その他の堂も江戸幕府の援助で再建されたが、享和元年(1801年)の落雷で五重塔や金堂を始めとして伽藍が全焼した。

大坂白銀町の町人淡路屋太郎兵衛が中心となって文化10年(1813年)に6代目五重塔や伽藍が再建される。

文化10年に再建された伽藍は昭和期まで残っていたが、1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風で6代目五重塔が全壊。中門側に倒れたため中門もそのあおりで倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は1940年(昭和15年)に7代目が再建されるが、1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝東大門や庚申堂の他、中心伽藍もろとも焼失した。7代目五重塔はわずか5年の命であった。

1946年(昭和21年)に天台宗から独立して和宗を創設し、総本山となった。

1950年(昭和25年)9月3日、ジェーン台風により新たな金堂が崩壊する。逃げ遅れた参詣者2人が下敷きとなり1人が死亡している。この金堂は、18世紀に六時堂の北に建築された食堂を戦後に移築したものであった。収蔵されていた仏像は無傷のまま回収された[15]

現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり1963年(昭和38年)に完成したもので、五重塔はこれで8代目となる。鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したものである。

2020年令和2年)4月8日、大阪市が新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、閉鎖を決めた。期間は6月8日までである。同寺を閉鎖するのは創建以来初めてのことである[16]

伽藍[編集]

寛政10年時の伽藍
1934年以前の伽藍。日下部金兵衛撮影。
境内配置図 A.中心伽藍(a.中門、b.五重塔、c.金堂、d.講堂)、B.本坊庭園、C.霊苑、S.四天王寺学園(中学・高校)、M.宝物館、1.石鳥居(重文)、2.西大門、3.南鐘堂、4.南大門、5.石舞台(重文)、6.六時堂(重文)、7.聖霊院前殿、8.聖霊院奥殿、9.北鐘堂、10.本坊方丈(重文)、11.五智光院(重文)、12.元三大師堂(重文)、13.東大門、14.本坊西通用門(重文)

境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。

中心伽藍は南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したものとなっている。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代高句麗六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎[17]

  • 金堂 - 入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階(もこし)を付さない点が異なっている。内部には中央に本尊救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画がある。基壇下には青竜池があるという。金堂は新西国三十三箇所第1番札所。西国三十三所番外霊場札所。河内飛鳥古寺霊場第1番札所。摂津国八十八箇所第25番札所。摂津国三十三ヶ所第33番札所。神仏霊場巡拝の道第43番札所となっている。
    • 本尊 - 四天王寺の本尊は、近世以前の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、現本尊は救世観音と称されている。彫刻家平櫛田中の指導で造像されたもので、左脚を踏み下げて座す半跏像である。こうした半跏形式の菩薩像は右手を頬に当てる「思惟像」(しゆいぞう)が多いが、当寺の本尊像は右手の掌を正面に向ける施無畏印とする。なお、仏壇四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳宗琳の作である。
  • 五重塔 - 現在の塔は1959年昭和34年)建立の8代目。「六道利救の塔」ともいう。壁面には山下摩起筆の仏画がある。5重目まで階段で上がれるようになっている。
  • 講堂 - 入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」(げどう)、東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像(松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とする。周囲の壁面には郷倉千靭筆の「仏教東漸」の壁画がある。
  • 龍の井戸
  • 西重門
  • 東重門
  • 回廊
  • 中門(仁王門) - 門の正面左右に松久朋琳・宗琳作の金剛力士(仁王)像を安置することから仁王門とも呼ぶ。入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。
  • 六時堂(重要文化財) - 六時礼讃堂ともいう。中心伽藍の北に位置する。入母屋造、瓦葺き。元和9年(1623年徳川秀忠による建立。椎寺薬師堂(境内北西、大江小学校付近にあった)を移築したもの。堂内には薬師如来坐像と四天王像を安置する。西国薬師四十九霊場第16番札所。
  • 石舞台(重要文化財) - 六時堂の手前の「亀の池」の中央にある。石舞台は「日本三舞台」の一つとされる(他2つは、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)。この舞台では毎年4月22日の聖霊会(聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。
  • 北鐘堂(黄鐘楼) - 北の引導鐘ともいう。
  • 学舎
  • 太鼓楼 - かつては太鼓が置かれていたが、再建の際に鐘に変えられた。
  • 亀井堂 - 1955年(昭和30年)再建。堂内に亀形石があり、金堂の基壇下にあるという青竜池から湧いている「白石玉出の清水」をここに通して経木流しを行う場としている。2019年令和元年)に初の亀形石の学術調査が元興寺文化財研究所により実施され「国家的管理のもとで水祭祀が行われていた」可能性を指摘した。7世紀に造られたもので、酒船石遺跡の亀型石造物と年代や規模、構造がほぼ一致し、亀井堂では上下水槽とも古墳時代の石棺に用いられた凝灰岩の「竜山石(たつやまいし)」の巨大な一枚岩から造形されたものと判明した。水槽を連結した祭祀施設は7世紀以降には造られていない。元は天皇祭祀に使用されていたと推測されている。平安時代の治安3年(1023年)に藤原道長が参拝時に、亀形水槽で手を清め、流れる水を神聖視している。上部の亀像は元は水槽で、下の手足のみ残る水槽の方が本来は亀形で元は頭もあって酒船石遺跡と同形式だったが、鎌倉時代までに、上部水槽に亀の頭と甲羅と手足(花崗岩製)を蓋をする形で増設して修正加工されて、この際に下部の亀形水槽の頭が削られ半分ほどしか残っていない。残る部分と手足などから、酒船石遺跡の亀形石より亀井堂のほうが忠実に亀を表現していると指摘されている[18][19]
  • 亀井不動堂 - 1955年(昭和30年)再建。創建は推古天皇元年(593年)である。亀井不動尊を祀る。近畿三十六不動尊霊場第1番札所。
  • 番匠堂 - 曲尺を手に持った曲尺太子を祀る。
  • 伝教堂 - 伝教大師最澄を祀る。
  • 普賢堂 - 普賢菩薩を祀る。
  • 南鐘堂(鯨鐘楼) - 太子引導鐘堂ともいう。
  • 太子井戸屋形
  • 唐門
  • 石神堂 - 創建は推古天皇元年(593年)である。牛王尊を祀る。
  • 用明殿 - 2019年(令和元年)再建。聖徳太子の父である用明天皇を祀る。江戸時代には東照大権現(徳川家康)像を新たに祀って東照宮としていたが、明治時代に元に戻された。
  • 宝物館
  • 亀遊嶋辯天堂 - 亀遊嶋辯才天を祀る。
  • 一音院 - 子院。
  • 伊勢神宮遙拝石
  • 東大門
  • 聖霊院 - 中心伽藍の東に位置する一画で、聖徳太子を祀る。
    • 太子殿前殿 - 1954年(昭和29年)再建。入母屋造妻入。聖徳太子孝養像(十六歳像、秘仏)と太子二歳像を祀る。聖徳太子霊跡第1番札所。なにわ七幸めぐり札所。
    • 太子殿奥殿 - 1979年(昭和54年)再建。聖徳太子摂政像(四十九歳像、松久朋琳・宗琳作、秘仏)を祀る。一見法隆寺夢殿に似ているが、夢殿の平面が八角形であるのに対しこの建物の平面は完全な円形である。
    • 経堂 - 1979年(昭和54年)再建。
    • 絵堂 - 1979年(昭和54年)再建。杉本健吉筆の「聖徳太子御絵伝障壁画」がある。
    • 守屋祠(もりやのやしろ) - 物部守屋大連、弓削小連中臣勝海連を祀る。
    • 猫の門
    • 虎の門
  • 本坊
    • 庫裏
    • 玄関
    • 客殿
    • 方丈(重要文化財) - 湯屋方丈ともいう。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。
    • 本坊庭園「極楽浄土の庭」 - くわしくは別項「四天王寺本坊庭園を参照。
    • 本坊庭園「補陀落の庭」
    • 青龍亭
    • 臨池亭
    • 和松庵
    • 八角亭(登録有形文化財)
    • 五智光院(重要文化財) - 灌頂堂ともいう。入母屋造、瓦葺き。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。元は西大門付近にあったものを1901年明治34年)、本坊内の現位置に移築。大日如来を中心とする五智如来像を安置する。徳川将軍家代々の位牌を納めており、御霊舎(みたまや)とも呼ばれる。
    • 本坊唐門
    • 本坊西通用門(重要文化財) - 元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。
  • 元三大師堂(重要文化財) - 元和4年(1618年)建立。寄棟造、瓦葺き。元三大師良源を祀る。境内西北の墓域に位置する。
  • 中之院 - 子院。
  • 中之門
  • 地蔵堂 - 明治時代に境内各所、付近一帯から集められた地蔵菩薩を祀る。
  • 大黒堂 - 大黒天の他に毘沙門天と弁才天の顔を合わせ持った三面大黒天を祀る。
  • 英霊堂 - 元は1906年(明治39年)に建立された大釣鐘堂である。当時世界一大きい大梵鐘が釣られていたが、太平洋戦争中に金属類回収令で供出された。戦後英霊堂に改築されて阿弥陀如来を祀るようになった。
  • 吉祥院 - 子院。
  • 静専院 - 子院。
  • 東光院 - 子院。
  • 石鳥居(重要文化財) - 中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を忍性が勅を奉じて石鳥居に改めたもので、神仏習合時代の名残である。鳥居上部に掲げられた扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と浮彫風に鋳出してあり、釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意である。ここと西大門は西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
  • 四天王寺中学校・高等学校
  • 見真堂 - 阿弥陀如来を祀る。
  • 親鸞聖人像
  • 布袋堂 - 「乳のおんばさんのお堂」とも呼ばれる。布袋尊を祀る。大阪七福神布袋札所。
  • 西大門(極楽門) - 1962年(昭和37年)に松下幸之助の寄進により再建。この門は極楽の入口とされており、この場所で西に落ちる夕日に顔を向けながら日想観が行われる。
  • 義経よろい掛け松 - 源義経が鎧を掛けたという。
  • 大師堂 - 弘法大師空海を祀る。四国八十八箇所番外霊場札所。
  • 弘法大師修行像
  • 阿弥陀堂(念仏堂) - 1953年(昭和28年)に四天王寺末寺である三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したもの。阿弥陀如来を祀る。法然上人二十五霊場第6番札所。西山国師遺跡霊場客番札所。
  • 納骨堂
  • 法然上人像
  • 万燈院(紙衣堂) - 十一面観音を祀る。おおさか十三仏霊場第4番札所。
  • 熊野権現礼拝石
  • 南大門 - 1985年(昭和60年)11月再建。
  • 飛び地境内
    • 真光院 - 支院。四天王寺境内から北西の場所にある。聖徳太子が六万体の石造地蔵尊を刻んで納めたという。
    • 庚申堂 - 南大門から数百メートル南にあり飛び地境内となっている。豪範により創建され、慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼によって再建されたが、第1回大阪大空襲によって焼失した。現在の庚申堂は日本万国博覧会(大阪万博)で全日本仏教会が休憩所として建築した「法輪閣」を、閉幕後に全日本仏教会の寄進によりこの地に移築、改修したものである。庚申待などを行う庚申信仰により、青面金剛童子・四天王を祀る。日本三庚申の一つ。日本最初の庚申尊出現の地。

文化財[編集]

国宝[編集]

  • 紙本著色扇面法華経冊子5帖(98葉)(絵画) - 扇形の紙で製本した冊子に極彩色の下絵を描き、金銀の切り箔で飾った上に法華経を書写したもの。平安時代の絵画、書跡資料として貴重なもの。詳しい解説は別項「扇面法華経冊子」を参照。
  • 懸守 7懸(工芸品) - 懸守(かけまもり)とは、女性が首から掛けたアクセサリー。平安時代の作品。7点現存する。
  • 七星剣(工芸品) - 伝世上古刀の優品。東京国立博物館に寄託。
  • 丙子椒林剣(工芸品) - 七星剣と同じく伝世上古刀の優品。東京国立博物館に寄託。
  • 四天王寺縁起(根本本、後醍醐天皇宸翰本)(書跡・典籍) - 説明は本記事の「歴史」の項参照。
  • 金銅威奈大村骨蔵器(考古資料) - 明和年間(1764年 - 1772年)に大和国葛下郡より出土後、曲折を経て四天王寺の所蔵となる。京都国立博物館に寄託。

重要文化財[編集]

建造物

  • 四天王寺鳥居(附 左右玉垣)(建造物) - 永仁2年(1294年)建立、扁額に嘉暦元年(1326年)の銘。
  • 四天王寺 6棟(建造物)
    • 本坊西通用門
    • 本坊方丈(湯屋方丈)
    • 五智光院
    • 六時堂
    • 元三大師堂
    • 石舞台

※他に旧国宝建造物の(旧)東大門があったが、第二次大戦時空襲で焼失している。

美術工芸品

  • 絹本著色聖徳太子絵伝 6幅(附 紙本墨書元亨三年旧裏書(6通)1巻)(絵画)
  • 絹本著色両界曼荼羅図(絵画)
  • 板絵著色聖徳太子絵伝 6面 伝狩野山楽筆(旧絵堂壁画)(附 板絵著色同絵伝 11面)(絵画)
  • 金銅観世音菩薩半跏像(彫刻)
  • 銀製鍍金光背(舟後光)(彫刻)
  • 千手観音及二天箱仏(彫刻)
  • 舞楽面 2面(納曾利、陵王)(彫刻)
  • 木造阿弥陀如来及両脇侍像(彫刻)
  • 木造阿弥陀如来坐像(彫刻) - 和歌山県有田郡広川町の明王院旧蔵[20]
  • 木造薬師如来坐像(彫刻) - 和歌山県有田郡広川町の明王院旧蔵。
  • 木造毘沙門天立像(彫刻) - 高知県香美郡香我美町(現・香南市)の恵日寺旧蔵。
  • 四天王寺舞楽 所用具(工芸品) - 明細は後出。
  • 漆皮箱(附 茜染綾)(工芸品)
  • 舎利塔(附 金銅容器)(工芸品)
  • 銅鏡 花鳥文様あり(工芸品)
  • 鳴鏑矢(工芸品)
  • 細字法華経(一部)1巻・塵地蒔絵経箱(書跡・典籍)
  • 十七条憲法(書跡・典籍)
  • 日本書紀神代上巻断簡(紙背性霊集)2葉(書跡・典籍)
  • 摂津四天王寺境内出土瓦(考古資料)
    • 鐙瓦135箇、宇瓦130箇、牡瓦8箇、牝瓦9箇、鬼瓦6箇分、雁振瓦1箇、鳥衾1箇
  • 摂津四天王寺講堂阯出土品(考古資料)
    • 鴟尾1箇、蓮華文鴟尾残欠1箇分、蓮華文鐙瓦2箇、牡瓦・牝瓦各2箇、刻画牡瓦残欠1箇分、金銅風鐸(鉄金具共)1口、和同開珎1枚、二彩陶器残片6箇、附:鬼瓦1箇

典拠:2000年平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

重要無形民俗文化財[編集]

  • 聖霊会の舞楽 - 四天王寺聖霊会の舞楽は、天王寺楽所の舞楽の伝統をひき、日本最古の様式を伝えるとされる。天王寺楽所は、宮中楽所(京都)、南都楽所(奈良)と共に三方楽所と呼ばれた。1976年(昭和51年)5月4日指定[21]

国指定史跡[編集]

  • 四天王寺旧境内 - 1951年(昭和26年)6月9日指定、1956年(昭和31年)6月5日に史跡範囲の追加指定[22]

登録有形文化財(国登録)[編集]

選択無形民俗文化財(国選択)[編集]

  • 四天王寺聖霊会の舞楽 - 1975年(昭和50年)12月8日選択[21]

大阪府指定文化財[編集]

  • 有形文化財
    • 四天王寺 石像地蔵菩薩立像(彫刻) - 1970年(昭和45年)2月20日指定[21]
    • 四天王寺の石槽(考古資料) - 1973年(昭和48年)3月30日指定[21]
    • 慈願寺山古墳出土 内行花文鏡(考古資料) - 1981年(昭和56年)6月1日指定[21]
    • 刺繍青面金剛画像(絵画) - 2014年(平成26年)6月20日指定[21]
    • 四天王寺文書 一括(歴史資料) - 2000年(平成12年)12月12日指定[21]

大阪市指定文化財[編集]

  • 無形民俗文化財
    • 庚申堂の庚申まいり - 2013年(平成25年)4月5日指定[21]
  • 有形民俗文化財
    • 四天王寺西門石鳥居納入品 一括 - 2006年(平成18年)1月20日指定[21]
    • 西国巡礼三十三度行者満願供養塔 - 2006年(平成18年)1月20日指定[21]
    • 庚申堂の庚申塔群 一括 - 2013年(平成25年)4月5日指定[21]

行事[編集]

  • 経木流し - 死者の供養として経木戒名を書き、亀井堂の亀形石の水に流す。
  • 万灯供養 - 同じく、死者の供養(先祖供養)として、ろうそくに戒名を書き、夕方から一斉に灯す。お盆の行事。

彼岸香[編集]

四天王寺境内亀井水の白石玉手の霊水で練り上げ精製された線香。登録商標。

札所[編集]

新西国三十三箇所
1 四天王寺 -- 客番 清水寺
西国三十三所 番外霊場
西国薬師四十九霊場
15 家原寺 -- 16 四天王寺 -- 17 国分寺
近畿三十六不動尊霊場
1 四天王寺亀井堂 -- 2 清水寺玉出の滝
摂津国八十八箇所
24 真光院 -- 25 四天王寺 -- 26 清水寺
摂津国三十三ヶ所
32 如願寺 -- 33 四天王寺
おおさか十三仏霊場
3 家原寺 -- 4 四天王寺 -- 5 常光寺
大阪七福神布袋尊
河内飛鳥古寺霊場
1 四天王寺 -- 2 長栄寺
なにわ七幸めぐり(家内安全)
大坂三十三所観音めぐり
19 菩提寺 -- 20 四天王寺六時堂 -- 21 四天王寺経堂 -- 22 四天王寺金堂 -- 23 四天王寺講堂 -- 24 四天王寺万燈院 -- 25 清水寺
聖徳太子霊跡
1 四天王寺 -- 2 大聖勝軍寺
法然上人二十五霊場
5 勝尾寺二階堂 -- 6 四天王寺阿弥陀堂(念仏堂) -- 7 一心寺
西山国師遺跡霊場
15 叡福寺 -- 客番 四天王寺 -- 16 浄橋寺
四国八十八箇所 番外霊場
役行者めぐり
神仏霊場巡拝の道
42 住吉大社 -- 43 四天王寺 -- 44 阿部野神社

交通[編集]

周辺情報[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 「四天王寺」(Yahoo!百科事典-日本大百科全書(小学館))
  2. ^ 島田裕巳『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)、幻冬舎、2012、p.22
  3. ^ 四天王寺が「日本最初の官寺である」とする説があるが(四天王寺サイト等)、「最古の官寺」は飛鳥の百済大寺とするのが定説である。以下の文献を参照。
  4. ^ 官寺とは、「大寺」とも言い、天皇(大王)によって建立され、国家が維持する国立寺院のことである(木下正史『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』(角川書店、2005)、p.18)。『日本書紀』天武天皇九年(680年)四月是月条に「官司治むる」「国の大寺二、三」とあるのは大官大寺、弘福寺(川原寺)、法興寺を指すとするのが定説である(『国史大辞典』巻3(吉川弘文社、1983)、p.822(「官寺」の項))
  5. ^ 『国史大辞典』巻6(吉川弘文館)、p.904(「四天王寺」の項))
  6. ^ 森郁夫『一瓦一説』淡交社、2014、pp.67 - 70
  7. ^ 今井啓一「秦河勝―帰化人系の一頂点 聖徳太子の寵臣」綜芸舎 1968
  8. ^ 谷川健一「四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って」河出書房新社 (2006/5/19)
  9. ^ 加藤謙吉『吉士と西漢氏』白水社 2001年 p32 原典は正倉院文書
  10. ^ 『日本書紀』に伝えるような従来の聖徳太子観を否定した論書としては、大山誠一『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、1999年)、谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮社 新潮新書、2004年)などの新説があるが、根拠が弱いとされる。
  11. ^ 都は難波長柄豊碕宮(難波宮)で、大化元年(645年)に仏教興隆の詔「天皇より伴造にいたるまで、造るところの寺、造ること能はずは朕皆助け作らん」引用:帝塚山大学考古学研究所[編]『シンポジウム報告書 天武・持統朝の寺院造営 -東日本-』2008年 p4
  12. ^ 加藤謙吉『吉士と西漢氏』白水社 2001年p93-p94で、吉田晶は「吉士集団を指揮する中央執政氏族が阿倍氏」と解し、加藤謙吉は「「難波吉士」系の諸氏は、阿倍倉梯麻呂以来、この阿倍野の阿倍氏勢力と緊密な関係を形成する」と指摘
  13. ^ 難波吉士氏寺説については、以下の文献を参照。
    • 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史(上)』、吉川弘文館、1994年、pp238 - 246
  14. ^ 引用:加藤謙吉『吉士と西漢氏』白水社 2001年 p94
  15. ^ 「四天王寺の金堂崩壊」
  16. ^ 四天王寺も閉鎖、聖徳太子以来初”. 共同通信. 2020年4月8日閲覧。
  17. ^ 以下、伽藍の説明は『小学館ウイークリーブック 週刊古寺を巡る 25 四天王寺』(小学館、2007)による。
  18. ^ 2019年4月26日毎日新聞「四天王寺の亀形石造物は「7世紀の古代遺品」酒船石遺跡と規模・構造一致」2019年10月29日閲覧
  19. ^ 2019年4月26日日本経済新聞「四天王寺に7世紀の亀形石 奈良・酒船石遺跡と同構造 天皇家が祭祀で使用か」2019年10月29日閲覧
  20. ^ 旧蔵者については、文化庁編『国宝・重要文化財総合目録(美術工芸品編)』(1980、第一法規)の旧蔵注記による。以下の2件についても同様。
  21. ^ a b c d e f g h i j k l 大阪府内指定文化財一覧表(大阪府ホームページ)の大阪市ファイルより。
  22. ^ 四天王寺旧境内 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]