庚申信仰

現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。
庚申[編集]
庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。 陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。
歴史[編集]
『入唐求法巡礼行記』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人は咸く睡らず。本国の正月、庚申の夜と同じきなり。〉とある。[1]。
平安時代の貴族社会では、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をはるのが貴族の習いであった。最も早い記録では清和天皇の代に貞観5年(863年)11月1日の庚申に宮中で宴がもたれ、音楽が奏せられている[2]。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していた。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなった[3]。鎌倉時代から室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたとある。[注釈 1]
やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった)。
庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。大正時代以降は急速にその信仰が失われた。
とはいえ、この夜慎ましくして眠らずに過ごすという概念は、比較的よく受け継がれている。また男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もある。また地域によっては、同志相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。
青面金剛、猿田彦神[編集]
庚申信仰では青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという[4][5]。 石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという[6]。
庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという[7]。
また庚申信仰では猿が庚申の使いとされ、青面金剛像や庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が添え描かれることが多かった。
庚申信仰に関連するおもな寺社[編集]
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- 四天王寺庚申堂(大阪市天王寺区) – 日本三庚申、庚申信仰発祥の地で、江戸時代大本山として庚申堂建立許可を出していた[9]。
- 八坂庚申堂 大黒山金剛寺庚申堂(東山区金園町) – 天台宗。日本三庚申[10]、京都三庚申。
- 粟田口庚申堂 尊勝院[注釈 2](東山区粟田口三条坊町) – 青蓮院門跡(天台宗)の院家。京都三庚申[11]。
- 猿田彦神社 (京都市上京区)(上京区上御霊前町)[12]
- 尭山山金輪院(小泉庚申堂)(大和郡山市小泉町) – 大和国の庚申信仰の本山、天台宗[13]。
- 庚申堂(ならまち庚申堂、庚申さん)、(奈良市西新屋町)[14]、身代わり申[15]。
- 巣鴨庚申堂猿田彦大神[16](豊島区巣鴨四丁目) – 附近には庚申塚駅がある[17]。
- 柴又帝釋天 題経寺(葛飾区柴又) – 日蓮宗。江戸期の改修工事中に「帝釈天の板本尊」が発見されたのがたまたま暦上の庚申の日であったことから、当時隆盛であった庚申信仰を背景として広く知られたという。
- 金剛山庚申寺(静岡県浜松市浜北区宮口) – 禅宗。
- 劔神社(福井県丹生郡越前町織田)
- 庚申社 三重県四日市市JR富田駅前
- 石川県金沢市寺町寺院群静音の小径天台眞盛宗西方寺(青面金剛明王 庚申さん)安土桃山作。
- 庚申堂(かって窯組の信仰の中心であった) (土岐市泉中窯町)[18]。
- 庚申社 劔神社(福岡県直方市山部) – 寺院であり神社[19]。
- 喜宝院庚申堂(入谷庚申堂)現存しない、東京都台東区下谷2−13−14 小野照崎神社境内に庚申塚、青面金剛など遺跡が残る。元日本三庚申[10]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 「入唐求法巡礼行紀1」p70 1970年 2月28日 初版発行 塩入良道 平凡社
- ^ 飯田 1989, p. 192.
- ^ 飯田 1989, p. 207.
- ^ 南方熊楠 『十二支考』「猴に関する伝説」 (青空文庫)
- ^ 中村禎里 『日本動物民俗誌』 海鳴社、1987年。 9-14ページ
- ^ 石田英一郎 『新版河童駒引考』、東京大学出版会、1966年。参照は中村による。
- ^ 飯田道夫 『猿 よもやま話』、評言社、1973年。参照は中村による。
- ^ 富洲原小学校百周年記念誌 昭和51年P101
- ^ 中村 2010, pp. 228-229(『西宮記』平安時代の有職書)に四天王寺庚申堂記載。
- ^ a b 中村 2010, pp. 229.
- ^ 公式
- ^ 京都市
- ^ 中村 2010, pp. 198.
- ^ 中村 2010, pp. 231.
- ^ 『奈良市歴史的風致維持向上計画』第2章「自然・神仏を崇拝する」-《(3)奈良町の庚申信仰》p.104-105
- ^ 巣鴨猿田彦大神庚申堂、巣鴨庚申塚
- ^ 崇敬会公式
- ^ 紹介資料
- ^ 公式
参考文献[編集]
- 飯田道夫『庚申信仰 - 庶民宗教の実像』人文書院、1989年。ISBN 978-4409540251。
- 中村光行『奈良の鬼たち』京阪奈情報教育出版、2010年。ISBN 978-4-87806-503-3。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Three-Monkeys.Info – 庚申塔および青面金剛図の素晴らしいコレクション (左列やや下 3 Monkeys Origin & Meaning の下)
- 世界大百科事典 第2版『庚申信仰』 - コトバンク
- 世界大百科事典 第2版『庚申の日』 - コトバンク
- 庚申信仰とは(戸原のトップページ)