中臣勝海
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| 時代 | 飛鳥時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 用明天皇2年(587年)4月 |
| 主君 | 敏達天皇→用明天皇 |
| 氏族 | 中臣連 |
| 父母 | 父:中臣鎌子または中臣磐余[1]または中臣真人[2] |
| 兄弟 | 荒猪、花子、小神、忍立 |
| 子 | 若子、古多比、贄古 |
中臣 勝海(なかとみ の かつみ)は、飛鳥時代の豪族。姓は連。出自は明らかでなく、父は中臣鎌子・中臣磐余・中臣真人の諸説がある。大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。
経歴[編集]
敏達天皇14年(585年)3月、物部守屋と共に、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰のせいであると奏上。用明天皇2年(587年)4月、天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し、群臣にこのことを協議するように命じた際にも、守屋と共に詔に反対している。その後、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。皇子の宮に行ったが、宮門を出たところで迹見赤檮に殺された。
系譜[編集]
後世の系図によると、勝海には中臣荒猪、中臣花子、中臣小神、中臣忍立の兄弟がおり、荒猪の子中臣布忍から村山氏が、花子から片岡氏が、小神から畝傍氏が、忍立の子中臣阿礼から稗田氏が輩出された。また中臣若子・中臣古多比・中臣贄古の三子があり、古多比からは中臣宮処氏(中臣宮処氏連)が、贄古からは中臣大家氏(中臣大家連)が出たという[3]。