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昭憲皇太后

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昭憲皇太后
昭憲皇太后
1889年(明治22年)
第122代明治天皇后
皇后在位期間
1869年2月9日-1912年7月30日
明治元年12月28日-明治45年
立后 明治元年12月28日(1869年2月9日)

誕生 (1849-05-09) 1849年5月9日嘉永2年4月17日
平安京 一条烏丸東入・一条家 桃花殿
崩御 (1914-04-09) 1914年4月9日(満64歳没)
日本の旗 日本 静岡県駿東郡静浦村
(現在の静岡県沼津市
沼津御用邸

入内 明治元年12月28日(1869年2月9日)
皇后 明治元年12月28日(1869年2月9日)
皇太后 1912年(明治45年)7月30日
陵所 日本の旗 日本 京都府紀伊郡伏見町
(現在の京都府京都市伏見区
伏見桃山東陵
1914年(大正3年)埋葬
身位 女御皇后皇太后
敬称 陛下
勝子(まさこ)→美子(はるこ)
氏族 一条家藤原氏
旧名 一条美子
追号 昭憲皇太后
別称 富貴君(ふきぎみ)
富美君(ふみぎみ)
→寿栄君(すえぎみ)
お印 若葉(わかば)
父親 一条忠香
母親 新畑民子
配偶者 明治天皇
子女 なし
栄典 宝冠大綬章
役職 日本赤十字社名誉総裁
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1872年、内田九一撮影

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日1849年5月9日) - 1914年大正3年)4月9日)は、明治天皇皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。

欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。史上初めて洋装をした皇后。1914年(大正3年)で崩御(64歳)

生涯

皇后時代

嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣一条忠香の三女として誕生。生母は側室[注釈 1]・新畑民子[注釈 2]右大臣一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君[注釈 3]疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子[注釈 4]とは、義理の姉妹にあたる。

はじめの諱は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。

慶応3年6月28日1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦したと言われている。

明治元年12月26日1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。

「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」


從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世


―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収

(訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、

この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。

皇太后時代

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王践祚および皇太子妃節子立后と同時に皇太后となった。

1914年大正3年)4月9日2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため[1]崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。

同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后」と追号され[注釈 5]、翌年5月1日に、明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。

陵墓は伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)に定められた。

業績

維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。[2]

1902年(明治35年)、バッスルスタイルローブ・モンタントを召して。(ロシアの日本紹介文献にて)

赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の宝冠のデザインが、の組み合わせで出来ていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決められたという。

1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (Empress Shōken Fund) を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。

皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。

また、1900年(明治30年)に先駆的な私立の女子高等教育機関女子英学塾を創設し、女子高等教育に尽力し、津田梅子ら女子留学生の派遣にも関わったとされ、さらには、能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。

また、和歌(中国の詩である漢詩に対して、上代から行われた日本固有の詩歌で、五音と七音を基調とする長歌・短歌・旋頭歌・片歌などを総称としていう)や古典文学に造詣が深く、作られた短歌(作歌)は3万6000首にも上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。

1875年(明治8年)2月に東京女子師範学校(お茶の水大学)、1908年(明治41年)に奈良女子高等師範学校が設置されたことに伴い、東京女子高等師範学校と改称。1878年(明治11年)10月に、式部寮雅楽課二等伶人東儀季煕による壹越調律旋の譜が付され、現在も校歌として歌い継がれている。また、「女子高等師範学校記事」によると1896年(明治29年)に、高等師範学校に依頼して御歌の撰譜をし、西洋風の旋律に改められた。この譜をつけた「みがかずば」の和歌、同時に下賜された日本最初の校歌でもあり、1886年(明治19年)尋常小学校の小学校令により設置された満6歳以上の児童に初等普通教育を施した義務教育の旧制の小学校では、修業年限は初め4年であったが、1908年(明治40年)からの6年制の変革によって、唱歌としても広く歌われた。

年譜・行啓歴

戦時中の1943年(昭和18年)、皇后(昭憲皇太后)の行啓70周年を記念してたてられた高さ4.6 m、幅1.86 mの富岡製糸場の行啓記念碑。
1890年(明治22年)2月12日、憲法発布祝賀会に臨御するため馬車に乗っている天皇と皇后の。片多徳郎画『憲法発布観兵式行幸啓』
  • 1849年嘉永2年)5月9日、京都、一条烏丸東入・一条家 桃花殿にて生誕する。
  • 1867年慶応3年)7月29日、明治天皇の女御に内沙汰、同年に皇居に初目見えで参内する。
  • 1868年明治元年)12月28日、入内。皇后冊立。
  • 1869年(明治2年)1月1日、元日節会(正月一日)・白馬節会(正月七日)・踏歌節会(正月十六日)の三節会に臨御する。
  • 1871年(明治4年)8月1日、宮中大奥改革の英断をする。
  • 1872年(明治5年)6月17日、箱根離宮の下温泉へ行啓する。同年7月18日に還啓。
  • 1873年(明治6年)3月、新政府令に基づき、皇后自らがお歯黒をやめる。
  • 1875年(明治8年)11月29日、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校)の開業式に臨御する。
  • 1876年(明治9年)6月2日、明治天皇奥州地方巡幸の見送り(ご奉送)のため、皇后宮千住駅に行啓する。
    • 同年11月20日、京都に行啓する。同年12月5日に京都御所に着輿する。
  • 1877年(明治10年)2月28日、明治天皇と共に皇族として史上初の蒸気船・廣島丸に乗り、同月30日に横浜港に入港し東京に還啓する。
  • 1878年(明治11年)3月25日、天皇と共に日比谷原において近衛兵らの操練を巡覧する。
  • 1879年(明治12年)4月28日、横浜に行啓する。軍艦『扶桑』・『金剛』・『比叡』等を巡覧する。
  • 1880年(明治13年)3月22日、皇居・吹上御苑において松浦詮等の騎射犬追物を観覧する。
  • 1881年(明治14年)6月2日、武蔵府中連光寺河原に行啓し、鮎漁を観覧する。
  • 1882年(明治15年)6月21日、向島に行啓し、隅田川で催されていた海兵の短艇競漕を観覧する。
  • 1883年(明治16年)9月、香川敬三皇后宮大夫に命じ、皇太子嘉仁親王に心身安全のため、島根県出雲大社へ毎年正月九日に両度供物を献上し祈祷する。
  • 1885年(明治18年)7月8日、東京都・品川区伊藤博文邸に行啓する。
  • 1887年(明治19年)11月26日、明治天皇と共に相模国長浦(神奈川県)に行啓し、軍艦『浪速』・『高千穂
  • 1888年(明治20年)1月25日、天皇と共に孝明天皇二十年祭のため京都に行啓する、2月21日京都発で同月23日に武豊港より軍艦『浪速』に乗車し24日に横浜港に着。
    • 同年4月、日本赤十字社創設の補助金を下賜。
    • 同年5月、東京慈恵病院に約2万円(1200万円相当)を下賜。病院に「慈恵」という名を与える。
  • 1889年(明治21年)11月21日、天皇と共に埼玉県浦和市に行啓。近衛兵の演習を観覧する。
  • 1890年(明治22年)2月12日、東京・上野公園へ行啓、憲法発布祝賀会に臨御する。
  • 1895年(明治27年)3月9日、銀婚式を奉行する。
  • 1898年(明治30年)1月11日、英照皇太后崩御、4月17日京都に行啓し英照皇太后御陵を参拝する。
  • 1899年(明治31年)4月8日、東京都内の上野公園に行啓し、遷都30周年祝賀会に臨御する。
  • 1904年(明治36年)4月23日、明治天皇と共に大阪に行啓し、第五回勧業博覧会・連日博覧会を観覧し、5月11日に東京に還啓。
  • 1909年(明治42年)1月15日、沼津御用邸へ避寒のために行啓する。
  • 1910年(明治43年)4月27日、観桜会(園遊会)のためへ赤坂御用地へ行啓する。同28日、慈恵病院へ行啓する。
  • 1911年(明治44年)5月18日、伊勢神宮参拝のため東京を出御し、名古屋に一泊する。同19日に山田に到着し外宮を参拝し、21日に内宮参拝し還啓。
  • 1912年(明治45年)5月8日、ドイツ帝国のヴァルデマール皇子と謁見する。
    • 同年7月18日、明治天皇不例爾後は毎晩看護する、同月30日に天皇崩御。
  • 1912年(大正元年)10月13日、桃山御陵参拝。17日還啓。
  • 1913年(大正2年)7月21日、沼津御用邸より還啓し青山御所に入る。
  • 1914年(大正3年)3月26日、狭心症を発作し4月9日午前1時50分重体に陥り、同月10日午後11時25分に東京に還啓し、11日午前2時50分崩御。同年5月9日に追号を『昭憲皇太后』を治定する。5月24日、大喪儀を執行し同月25日に東京発。26日に京都府紀伊郡内村字堀内古城山で斂葬の儀が行われた。

逸話

  • 1884年(明治17年)に宮中改革を巡って明治天皇との関係が悪化していた伊藤博文が病気で倒れた際には、天皇に代わって見舞いの使者を出して両者の仲直りのきっかけを作った。また、同年に宮内大輔吉井友実が以前に社長を務めていた日本鉄道上野 - 高崎間開通式典に出席した際に、明治天皇は出席に乗り気ではなく天気も一日中雨であったが、皇后は終始笑顔で応対し吉井を感激させた(吉井の宮島誠一郎宛書簡)。
  • 明治になって再び朝廷に政権が返った事により、江戸幕府大奥や西洋の宮廷の例のように、皇后や周辺が国政に関与する可能性も生じたが、自らを戒め、国政には直接関与しなかった。また、香川敬三下田歌子など側近を得て、近代日本の皇后像を確立した。
  • 1904年(明治37年)2月、日露戦争の前夜、葉山の御用邸に滞在の折、37,8歳の武士が白衣で皇后の夢枕に立ち、戦いの際の海軍守護を誓ったという。宮内大臣田中光顕に下問したところ、田中は坂本龍馬の霊であるとし、これが新聞に載って国民の士気を鼓舞し、霊山官祭招魂社内にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑が立てられるに至った。野田正彰はこの説に批判的で、龍馬と同郷(高知出身)の田中が龍馬を国威発揚に利用するため流した風説であるとの立場を採っている。ちなみに野田もやはり同郷である。
  • その当時の日本女性には珍しく鼻筋の通った顔立ちであり、明治天皇にからかい混じりに「天狗さん」と渾名されていたという。
  • 天皇の前では決して吸うことはなかったが、大変なパイプ好きであったという。

追号について

皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の序列は、大宝律令では1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたが、皇族身位令制定によって1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになった。

皇后だった彼女の追号は、本来なら「昭憲皇后」となるはずだった。だが崩御時に贈られた追号は皇族身位令に従っていない「昭憲皇太后」であった。

こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった英照皇太后の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、女御准三宮のみを宣下され、明治天皇の即位にともなって皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が1910年(明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。

昭憲皇太后を祭神とする明治神宮はホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として宮内大臣のミスを挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から波多野敬直に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。

追号は勅裁(天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を宮内省・宮内庁に要請しているが、いずれも拒否されている。

続く貞明皇后は、皇族身位令に従って、生前の最高位が皇后だったことを正確に反映した追号を贈られている。皇族身位令は1947年(昭和22年)に廃止されたが、香淳皇后は同令に準じて生前の最高位である「皇后」の追号を贈られている。

著書

  • 「昭憲皇太后御製大全集」全47冊
  • 「類纂新輯昭憲皇太后御集」、明治神宮、1990年11月1日

栄典

日本

外国

出典

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)154頁
  2. ^ 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』の228頁

注釈

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  1. ^ 一条忠香の正室は伏見宮順子女王。
  2. ^ 一条家の典医・新畑大膳種成の娘。
  3. ^ 実父は醍醐忠順。輝姫。忠香は養父。
  4. ^ 実父は今出川公久。忠香は養父。
  5. ^ 同告示によると、追号の「昭憲」は諡法に則り、「明憲昭徳」を意味する。昭は「著(アキラカニアラワス)」であり、「君子以明徳」(『易経』)、「於昭于天」(『詩経』)、「百姓明」(『尚書』)などの例がある。憲は諡法に「博聞多記曰」、また『礼記・内則』に「、法其徳行也」とある。

参考文献

外部リンク