藤原沢子
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藤原 沢子 | |
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第58代天皇母 | |
皇太后 | (追贈)元慶8年(884年)2月23日 |
死去 |
承和6年6月30日(839年8月12日) |
陵所 | 中尾陵(京都市東山区今熊野宝蔵町) |
諱 | 沢子 |
氏族 | 藤原北家末茂流 |
父親 | 藤原総継 |
母親 | 藤原数子 |
配偶者 | 仁明天皇 |
入内 | 天長10年(833年) |
結婚 | 天長5年(828年)以前 |
子女 |
宗康親王 光孝天皇 人康親王 新子内親王 |
女御宣下 | 天長10年(833年) |
立后前位階 | 従四位下、贈従三位 |
藤原 沢子(ふじわら の たくし/さわこ、生年不詳 - 承和6年6月30日(839年8月12日))は、身分の低い藤原総継と藤原数子の娘で仁明天皇の女御。従四位下[1]。光孝天皇の母。贈皇太后。
生涯
[編集]仁明天皇即位前からの妃で、 夫が即位すると天長10年(833年)に女御になった。従五位下紀伊守・総継の娘で低い身分の出身であったが、「寵愛の隆なること独り後宮に冠たり」と言うほど寵愛が厚く[2]、『源氏物語』の桐壺更衣に似ているためモデルの1人とされる[3]。
天長5年(828年)に宗康親王、天長7年(830年)に時康親王(後の光孝天皇)、天長8年(831年)に人康親王を出産した。また新子内親王をもうけている[4]。
承和6年(839年)6月30日[5]、宮中でにわかに病となり、危篤となり車で里第に運ばれるも、そのままに卒去。天皇は哀悼し、従三位を追贈された[1]。御陵は中尾陵(鳥部山陵とも[6]、京都市東山区今熊野宝蔵町)[7]。
元慶8年(884年)2月23日に所生の時康親王が光孝天皇として即位すると、同日に皇太后を追贈され[5]、3月13日、外祖父総継は贈太政大臣とされた[8]。