庭田朝子
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| 庭田 朝子 | |
|---|---|
第104代天皇母 | |
| 皇太后 | (追贈)永正元年7月17日(1504年8月26日) |
蒼玉門院 | |
| 院号宣下 | 時期不詳 |
| 誕生 | 永享9年(1437年) |
| 薨去 |
明応元年7月20日(1492年8月13日) |
| 陵所 | 般舟院陵 |
| 諱 | 朝子 |
| 氏族 | 宇多源氏(庭田家) |
| 父親 | 庭田長賢 |
| 配偶者 | 後土御門天皇 |
| 子女 |
後柏原天皇 女子 尊伝法親王 |
| 准后 | 明応元年7月20日(1492年8月13日) |
| 立后前位階 | 従三位 |
| 女官職 | 典侍 |
庭田 朝子(にわた あさこ、永享9年(1437年) - 明応元年7月20日(1492年8月13日))は、後土御門天皇の典侍、贈皇太后。父は権大納言庭田長賢(政賢・重賢)。後柏原天皇・尊伝法親王の生母。後花園天皇の生母敷政門院(庭田幸子)は大叔母にあたる。院号は蒼玉門院[1]。
生涯
[編集]元は足利将軍家の姫君に仕えていたが、当時親王であった後土御門天皇に召されて寵愛を受け、後柏原天皇をもうけた[2]。
親王が即位したのち、内々に宮中に入って「近衛局」と称した。『親長卿記』文明5年(1473年)8月5日条によれば、この日甘露寺親長が参内した際に広橋綱光から庭田長賢の娘が典侍の宣下を受けたことを知らされたと記述されている。はじめは「新典侍」と称し、のちに「新大典侍」(新大納言典侍の略称)と称した[2]。
明応元年(1492年)7月20日に急逝、死因は中風によるものとされる(『親長卿記』延徳4年7月19日条)。死の前日には三品に叙され、没した日に准后に任じられた。後柏原天皇即位後の永正元年(1504年)7月17日、皇太后を追贈された[2]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 菅原正子 著「中世後期―天皇家と比丘尼御所」、服部早苗 編『歴史のなかの皇女たち』株式会社小学館、2002年。
- 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年 ISBN 978-4-7971-0744-9 P402-403.