高野新笠

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高野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳[1] - 延暦8年12月28日[2]790年1月17日))は、光仁天皇宮人、後に夫人桓武天皇早良親王能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后諡号は天高知日之姫尊。

父は百済渡来人の家系である和乙継(やまとのおとつぐ)[1]、母は土師真妹(はじのまいも)[1]。父方の和氏は百済武寧王の子孫を称する[3]。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。

生涯[編集]

天智天皇の孫にあたる白壁王の宮人となり、天平5年(733年)に能登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生んだ。

白壁王は天平16年(744年)以後に聖武天皇皇女称徳天皇の異母妹にあたる井上内親王を正妃に迎えた。そして宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して天武系の皇統が断絶すると、白壁王は62歳にして天皇に擁立され光仁天皇となった。光仁天皇の皇后に井上内親王、皇太子にはその子の他戸親王が立てられた。

甥である家麻呂が議政官に任ぜられた際に「蕃人の相府に入るは、これより始まる」と記されたように渡来系氏族の身分は低く、その出身である新笠の生んだ皇子たちには、皇位継承の芽はないかに見えた。しかし宝亀3年(772年)3月に井上皇后は呪詛による大逆を図ったという罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月皇太子を廃されて、翌宝亀4年10月には母子ともに庶人に落とされ大和国の没官の邸に幽閉された。その2年後宝亀6年(775年)4月27日に井上内親王と他戸親王は幽閉先で死去した。この間の宝亀4年(773年)1月2日に新笠が生んだ山部親王が立太子し、藤原式家から乙牟漏を妃に迎えて、宝亀5年に王子(のちの平城天皇)が生まれている。

新笠は宝亀9年(778年)1月29日、従四位下から従三位となった[4]。この頃までに高野朝臣の氏姓を賜り、夫人となった。しかし、皇太子の母であってもに皇后に立てられることはなかった。また、藤原式家の藤原永手の娘で所生の皇子女のない藤原曹司が、新笠に先んじて同じ従三位・夫人の位にあった[5]

山部親王が光仁天皇の跡を継いで桓武天皇となると、天応元年(781年)4月15日、新笠は即位とともに皇太夫人と称された[6]。同年4月27日、新笠は正三位に昇叙された[7]。また桓武天皇の皇太子には、同母弟・早良親王が立てられた。しかし早良親王は延暦4年(785年)に藤原種継事件に連座して淡路へ流されることになり、自ら命を絶った。

延暦8年に薨去。当時桓武天皇の皇后藤原乙牟漏・夫人藤原旅子らが相次いで没しており、続く天皇生母の死も早良親王の怨霊によるものと噂された。薨去後に皇太后を、さらに延暦25年(806年)には太皇太后を追贈された。墓は京都市西京区沓掛町字伊勢講山の大枝陵(宮内庁管理)。諡号「天高知日之姫尊」は、遠祖とする武寧王の祖で高句麗を建てた都慕王(東明聖王)の、河伯の娘が日精に感じて生まれたという伝承に因んで名づけられた[8]

新笠出自と子孫[編集]

出自[編集]

父の和乙継は、百済渡来人氏族の和氏(かばね)は)であるが、生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後の宝亀年間(770年 - 781年)に高野朝臣と改姓した(ただし続紀に生前の記事はなく、没後の賜姓であった可能性もある)。母の土師真妹は、土師氏(姓(かばね)は宿禰)であり、桓武天皇即位後の延暦9年(790年)に大枝朝臣と改姓した(没後の賜姓)。延暦8年までに父母ともに死去しており、ともに正一位追贈されている。

続日本紀延暦8年12月29日条に、

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあって、和氏が武寧王の子孫であることが記されている。『日本書紀』によれば継体天皇7年(西暦513年)「百済太子淳陀薨」とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうかは疑問であると水野俊平は主張している [9]

いずれにせよ、武寧王の没年(523年)と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、伝承の通りであれば、和氏は百済王氏のような新来の渡来人ではなく、古来な帰化氏族だといえる。和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。

父方の和氏一族は、和家麻呂(新笠の甥、桓武天皇の従兄弟)の後は公卿となる者が出ず、その後はほとんど知られていない。

母方の土師氏は、天穂日命を遠祖とした出雲国造の分流で、垂仁天皇時代の野見宿禰を祖とする、主に古墳造営を担った豪族である。桓武天皇の頃には、土師氏は四つの系統に分かれており、真妹の家は”毛受腹(もずばら)”であった[10]百舌鳥古墳群のある和泉の百舌鳥地方(大阪府堺市)を本拠とする系統と考えられている。真妹の一族(毛受)は、大枝朝臣(のち大江朝臣)、他の系統も菅原朝臣秋篠朝臣などを賜姓され、貴族として以後長く活躍した。

高野朝臣の賜姓[編集]

高野朝臣の改賜姓は、新笠の薨伝[11]に宝亀年間(770年 - 781年)に改めたとあるが、『続日本紀』にはこれに対応する記載がない。ただ宝亀9年(778年)1月の叙位記事に高野姓で記載されるため、これ以前であったと思われる。

高野朝臣姓は、乙継と新笠の父娘2人にのみ賜姓されたとみられ、一族は朝臣姓とはなったものの、高野朝臣姓にはならなかった。乙継は続紀に生前の記事はないことから既に没しており、生者は新笠のみが賜姓された可能性もある。夫である天皇から妻への稀有な賜姓の例といえる[12]。天皇の妃嬪である新笠の姓は子孫に継がれなかった。

「高野」の字(あざな)は、現在の奈良市高の原に比定される。高野近傍には土師氏の本拠地である菅原伏見、また秋篠がある。新笠に賜姓が行われたという宝亀年間、この地に孝謙・称徳天皇の陵(高野陵)がおかれたばかりであり、孝謙・称徳天皇はこの陵の地により「高野天皇」、「高野姫天皇」と称されている。瀧浪貞子によれば、高野朝臣への改賜姓は、宝亀3年(772年)に聖武天皇の血統である皇后・井上内親王、皇太子・他戸親王が廃され、山部親王(桓武天皇)立太子されたことに係るもので、新たな皇太子の母・新笠が聖武天皇嫡女の孝謙・称徳天皇に縁の姓に改めることは、皇太子を正当化するための措置、すなわち母を介して聖武皇統に繋がるための擬制的な作為だったのではないか、としている[12]

子孫[編集]

高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。

平野神社と久度神社[編集]

現・京都市北区平野宮本町に鎮座する延喜式名神大社平野神社は高野新笠と縁の深い神社である。平野神社の祭神は今木神、久度神、古開神、比咩神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。平城京時代に田村後宮にあった今木大神は高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している。

また久度神は竃神とされ、この神を祭るのは現・奈良県北葛城郡王寺町延喜式内社久度神社だけであり、その近くには和乙継の墓もあることから、百済系渡来人和氏が祭祀していた神とされる。とすれば和氏の本拠地はもともとこのあたりと推定される。平野神社の久度神は平城京の内膳司に祭られていたというから、王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移ったと考えられている[誰によって?]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 「高野新笠」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、平凡社。
  2. ^ 「高野新笠」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014 Britannica Japan。
  3. ^ 鈴木靖民、「和氏」 - 世界大百科事典内の和氏の言及 【百済氏】より(世界大百科事典 第2版)、平凡社
  4. ^ 『続日本紀』宝亀9年(778年)1月29日条 「授従四位下高野朝臣従三位。」
  5. ^ 宝亀8年(777年)1月に従三位。なお、藤原曹司は758年生まれで、新笠の40歳程年少。
  6. ^ 『続日本紀』天応元年(781年)4月15日条 「故是以朕親母高野夫人〈乎〉称皇太夫人〈弖〉冠位上奉治奉〈流〉」
  7. ^ 『続日本紀』天応元年(781年)4月27日条 「皇太夫人従三位高野朝臣加正三位。」
  8. ^ 『続日本記』延暦9年1月15条 「九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉謚焉。」
  9. ^ 水野俊平 『韓vs日「偽史ワールド」』 小学館、2007年。[信頼性要検証]
  10. ^ 『続日本記』延暦9年12月30条 「其土師氏惣有四腹。中宮母家者是毛受腹也。」
  11. ^ 『続日本紀』 延暦8年12月29日条
  12. ^ a b 瀧浪貞子「高野新笠と大枝賜姓」(『日本古代宮廷社会の研究」思文閣出版、1991年)p475-491

外部リンク[編集]