出雲国造

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出雲国造家
千家氏
北島氏
家紋
本姓 出雲氏嫡流
家祖 天穂日命
種別 神別天孫
  社家
  華族男爵
出身地 出雲国
主な根拠地 出雲国天日隅宮
島根県
著名な人物 千家国麿
凡例 / Category:日本の氏族

出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を上古に支配した国造。その氏族の出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。

先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。『古事記』によれば、无邪志国造上菟上国造下菟上国造伊自牟国造遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。

祭祀継承は、『古事記』・『日本書紀』と『出雲国風土記』、千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』[1]に記されている。

概要[ソースを編集]

出雲氏は、国譲りに応じた大国主命を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天穂日命を始祖、その子神・建比良鳥命を第2代とする。初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇加都久怒からであるが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるという。

天菩比命之子、建比良鳥命 【此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也】

古事記

天照大御神(アマテラスオオミカミ)
須佐之男大神(スサノオオオカミ)
天穂日命(アメノホイノミコト)
皇祖天神の勅により天日隅宮の祭主となりしより、自後世々神火を継承し、畢生潔敬を異にする。継承にあたりては一昼夜を出でぬうちに、其の子神魂社に詣で神代霊器を用い神火を継承するを以って国造と為す。
天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)
また、武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、武日照命(タケヒナテルノミコト)、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)、また、武三熊大人(タケミクマウシ)、大背飯三熊之大人(オホセヒノミクマノウシ)、出雲伊波比神(イヅモイハヒノカミ)、伊毘志都弊命(イヒシツヘノミコト)、阿太賀建熊命(アタカタケクマノミコト)と云ふ。

出雲国造伝統略

第12代景行天皇の条には、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が地名を名に負う出雲建を殺した話[2]が見えるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたものである。

国造制は7世紀半ばの大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられた。これは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示す。しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され、『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」とのが記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職に任じられていた。

意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、元々出雲国造家の本拠である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられている。その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲している。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持している。

国造家の分裂[ソースを編集]

参照

出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝であったが、康永年間(1340年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになった。

南北朝時代の第54代国造・出雲孝時(いずも のりとき)は、子の六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていた。しかし、孝時の母である覚日尼塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。その後、清孝が第55代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ることとした。これに対して貞孝は、自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿に立て篭もるなど、紛争状態となった。

事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた。こうして康永3年(興国4年/1344年6月5日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、19世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた。

明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されたが、出雲大社自体は神社本庁の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠として、宮司は千家氏が担う。

歴代出雲国造[ソースを編集]

※ 項名は『出雲国造伝統略』による。

千家家[ソースを編集]

出雲大社教管長[ソースを編集]

北島家[ソースを編集]

『出雲国造神賀詞』の奏上[ソースを編集]

奈良平安時代の出雲国造は、その代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていた。

儀式の次第は『延喜式』に記されており、それによれば、まず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜る。その後、出雲に帰って1年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上する。そして出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという。

文献の記録では、霊亀2年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見であり、以後、天長10年(833年)4月の第35代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られる。しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高い。また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われる。

奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではない。しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式である。

なお、第83代国造千家尊祀は、国造を継いだ翌年の昭和23年(1948年)6月、宮中に参内して出雲玉造産の御統玉三種一連を献上し、古代以来の神賀詞奏上を行った。

火継式(神火相続式)[ソースを編集]

火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。

前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。

その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。

火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。

出雲国造装束[ソースを編集]

出雲国造の神職装束で、他の神社にみられない伝統は下記の通り。

  • 正装は、黒袍(亀甲剱花菱)、小豆色奴袴(剱花菱紋)、冠(繁紋)懸緒 紫打紐[5]
  • 礼装は、白袍、白差袴、冠黒羅繁紋垂纓、懸緒紙捻紫色[6]
  • 冠の懸緒は紫色[7]
  • 斎火殿神事では、羽織、袴、足袋を脱ぎ、白衣姿[8]

系譜[ソースを編集]

実線は実子、点線(縦)は養子。
天穂日命1
 
 
武夷鳥命2
 
 
伊佐我命3
 
 
津狭命4
 
 
櫛瓺前命5
 
 
櫛月命6
 
 
櫛瓺鳥海命7
 
 
櫛田命8
 
 
知理命9
 
 
世毛呂須命10
 
 
阿多命11
 
 
氏祖命12
 
 
襲髄命13
 
 
来日田維穂命14
 
 
三島足奴命15
 
 
意宇足奴16
 
 
出雲宮向17
 
 
布奈18
 
 
布禰19
 
 
意波久20
 
 
美許21
 
 
叡屋22
 
 
帯許23
 
 
果安26
 
 
廣島27
 
 
益方29
 
 
人長32
 
 
旅人34
 
 
豊持35
 
 
時信36
 
 
常助37
 
 
氏弘38
 
 
春年39
 
 
吉忠40
 
 
國明41
 
 
國経42
 
 
頼兼43
 
 
兼宗45
 
 
兼忠46
 
 
宗孝48
 
 
孝房49
 
 
孝綱50
 
 
政孝51
 
 
義孝52
 
 
泰孝53
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝時54 東孝景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清孝55 千家孝宗56 北島貞孝 時孝
 
 
景高
 
 
貞頼
 
 
高頼
 
 
安頼
 
 
安通
 
 
千家慶勝65
 
 
東慶澄
 
 
貞信
 
 
延俊
 
 
千家直治71
 
 
東貞通
 
 
千家俊勝75
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
俊秀76 俊信
 
 
尊之77
 
 
尊孫78
 
 
尊澄79
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊福80 尊紀81
 
 
尊統82
 
 
尊祀83
 
 
尊祐84
 
 
国麿

参考文献[ソースを編集]

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  1. ^ 国立公文書館近代デジタルライブラリー「出雲国造伝統略
  2. ^ a b 倭建命による出雲建殺しと出雲振根による弟殺しは、どちらも水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちするもので、構造が共通している。
  3. ^ 建保2年(1214年)の順徳天皇下文(くだしぶみ)。記紀には見えない。
  4. ^ “典子さま、千家さんと結婚 出雲大社で”. 日本経済新聞. (2014年10月5日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG05H01_V01C14A0000000/ 2014年10月7日閲覧。 
  5. ^ 『出雲大社教規定』発行出雲大社教教務本庁昭和58年6月9日全33頁中30頁
  6. ^ 『出雲大社教規定』発行出雲大社教教務本庁昭和58年6月9日全33頁中30頁
  7. ^ 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月1日全428頁中84頁
  8. ^ 『出雲大社』学生社昭和43年8月25日発行全261頁中208頁

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]