源雅信
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延喜20年(920年) |
死没 | 正暦4年7月29日(993年8月19日) |
改名 | 覚実(法名) |
別名 | 一条左大臣、鷹司左大臣 |
官位 | 従一位、左大臣、贈正一位 |
主君 | 朱雀天皇 → 村上天皇 → 冷泉天皇 → 円融天皇 → 花山天皇 → 一条天皇 |
氏族 | 宇多源氏・氏祖 |
父母 | 父:敦実親王、母:藤原時平の娘 |
兄弟 | 寛信、寛朝、雅信、重信、雅慶 |
妻 |
源公忠の娘、藤原穆子(藤原朝忠の娘) 藤原元方の娘、藤原為光の娘 |
子 | 時中、済信、時通、時叙、時方、藤原道長室・倫子、藤原道綱室・中の君、扶義、通義、済時、致平親王妃、藤原定時室 |
源 雅信(みなもと の まさざね[1]、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多源氏、式部卿・敦実親王の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。
経歴[編集]
朱雀朝の承平6年(936年)臣籍降下して二世王待遇の蔭位により従四位下に直叙され、天慶元年(938年)侍従に任官する。天慶5年(942年)右近衛権中将に任ぜられると、天慶8年(945年)従四位上、天暦2年(948年)蔵人頭と昇進し、天暦5年(951年)には参議に任ぜられ公卿に列した。議政官として、治部卿・左兵衛督などを兼帯し、天暦9年(955年)に正四位下、応和2年には(962年)従三位、康保5年(968年)に正三位へと累進した。
円融天皇が安和2年(969年)に即位するとその信任を得て急速に昇進し、天禄元年(970年)権中納言ついで中納言、天禄3年(972年)には大納言に昇任されている。貞元2年(977年)右大臣。
貞元2年(977年)関白・藤原兼通が没すると、翌貞元3年(978年)10月、左大臣を兼ねる関白藤原頼忠は太政大臣に、雅信は左大臣に、故兼通に冷遇されていた同母弟藤原兼家は右大臣にそれぞれ昇進した。円融天皇は頼忠・兼家を牽制して自らの親政の実を挙げようとする狙いから、雅信に一上としての職務を行わせようとする。天元5年(982年)正月に除目と叙位を行った際、円融天皇は関白の頼忠に対して決定内容のみを蔵人・藤原宣孝に報告させたのみで、実際の決定に参加させなかった。このために頼忠は抗議して欠席したが、これに対して天皇は雅信に上卿としてその実施を命じて頼忠の抗議を無視している[2]。この傾向は雅信が東宮傅を務めた花山天皇の即位後も続き、永観2年(984年)の花山朝での初めての除目及び別当定は、新天皇が円融上皇に相談の後に頼忠には相談せずにそのまま雅信に実施させている。この結果、頼忠は政務への参加を厭うようになり、花山朝における太政官は外戚である権中納言・藤原義懐が主導し、左大臣・源雅信が一上として官奏を行う(官奏候侍者)、あるいは宣旨・官符を実施するようになった。雅信は寛和元年(985年)以後、高齢による足腰の不調を訴えるようになるが、それでもなお忠実に政務を執行し、公事の運営に精励して失誤は少なかった。
更に、雅信が一上として太政官を運営する体制は一条天皇が即位し、藤原兼家が摂政に就任した後も更に継続された。その象徴が永祚元年(989年)3月に予定されていた一条天皇の春日大社(藤原氏の氏社)行幸が、陰陽頭・賀茂光栄の勘文を受けた円融法皇の命令で延期の宣旨が出された。その際、兼家以下藤原氏出身の公卿・弁官がこれに反発して悉く命令を忌避する中、雅信を上卿として奉行し、雅信四男の右少弁・源扶義の名前で宣旨が発給されている。兼家が摂政として全権を振るうには雅信の存在は明らかに障害ではあったが、昌泰の変の菅原道真、安和の変の源高明、源兼明の皇族復帰の時と違って、雅信を排除するだけの名目を見つけることが出来なかった。具体的には、道真(斉世親王)や高明(為平親王)は有力皇族と姻戚関係があり、兼明は元々親王身分であったために排除の理由は簡単に見つけられたが、雅信の場合にはそのいずれでもなかった。兼家が右大臣の職を辞して大臣の地位を帯びない摂政となった背景には、左大臣雅信よりも下位の議政官の地位から解放されることで政治的優位を確保しようとした意図が想定される。
この間、花山・一条・三条の3天皇の皇太子時代に東宮傅を務める。雅信の願いは、この関係を利用して自慢の娘の源倫子を天皇の后にする事であった。ところが花山天皇は藤原兼家の策動で退位してしまう。更にその兼家の四男である藤原道長から倫子への求婚がされたのである。初め雅信は摂関家の子弟とはいっても、兄である道隆や道兼らがいる以上出世は望み薄で、しかも倫子よりも2歳も年下である道長では全く相手にならないと考えていた。だが、その事を倫子の生母でもある正室・藤原穆子に相談したところ、彼女は夫の意見に猛反対した。当時の一条天皇は道長よりも更に14歳も年下、それより4歳年上ではあったが春宮・居貞親王(のち三条天皇)も入内させるとしては早すぎである。雅信が望むように倫子が宮中に入って子供を生むよりも、実力者の息子である道長の出世の方がまだ可能性があると主張して、強引に倫子を道長に嫁がせてしまった(永延元年(987年)に結婚)。これには雅信も道長の父の兼家も唖然としたという。
正暦2年(991年)弟の重信は右大臣に就任し、雅信が薨去する年まで兄弟で左右大臣を務めている。正暦4年(993年)5月より病気のため勅許を得ないまま辞官。7月28日に出家して翌29日薨御。享年74。最終官位は従一位左大臣。祖父の宇多天皇や父の敦実親王ゆかりの仁和寺に葬られた。
雅信は妻の主張が本当に正しいのか確信が持ち得ないままに没したが、2年後の長徳元年(995年)道長は内覧藤氏長者となって、妻の判断が正しかった事を世の人々は知る事になった。道長の正室となった倫子は頼通、教通、一条天皇中宮彰子、三条天皇中宮妍子、後一条天皇中宮威子、後朱雀天皇東宮妃嬉子の生母となった。
人物[編集]
父の敦実親王が琵琶の名手として有名で、その影響か雅信自身も「音楽堪能、一代之名匠也」といわれるほどの達人で「源家根本朗詠七首」などを定め、後世に朗詠の祖とまで言われるようになった。他にも有職故実や和歌、蹴鞠にも通じていたといわれている。その一方で村上天皇の御世、侍従として天皇の側で仕えていたが「仕事中には公務の事しか口にしない堅物」だとして村上天皇からはやや敬遠されたともいわれている。『大鏡』によれば、「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」という念誦を毎日百回ちょうど行う事を日課にしていたという。
官歴[編集]
注記のないものは『公卿補任』による。
- 承平3年(933年) 12月14日:昇殿
- 承平6年(936年) 正月7日:従四位下(直叙)
- 天慶元年(938年) 12月14日:侍従
- 天慶5年(942年) 3月29日:右近衛権中将
- 天慶6年(943年) 2月27日:兼大和権守
- 天慶8年(945年) 正月11日:従四位上
- 天慶9年(946年) 4月26日:昇殿
- 天慶10年(947年) 2月1日:止大和権守[3]
- 天暦2年(948年) 2月19日:蔵人頭
- 天暦3年(949年) 正月24日:兼近江権守
- 天暦4年(950年) 7月23日:兼春宮亮(春宮・憲平親王)
- 天暦5年(951年) 正月30日:参議、昇殿、止兼官
- 天暦7年(953年) 日付不詳:兼伊予権守
- 天暦9年(955年) 12月22日:正四位下(朔旦、参議労)
- 天暦10年(956年) 日付不詳:止権守
- 天徳2年(958年) 正月30日:兼近江権守。閏7月28日:兼治部卿
- 応和2年(962年) 正月7日:従三位。日付不詳:止権守
- 応和3年(963年) 正月28日:兼播磨守
- 康保4年(967年) 日付不詳:止守。5月15日:兼左兵衛督
- 康保5年(968年) 6月14日:止卿。11月14日:兼播磨権守(重信相譲)、止督。11月23日:正三位(主基)
- 安和2年(969年) 11月11日:兼左衛門督
- 安和3年(970年) 正月25日:兼備前権守。正月27日:権中納言。2月2日:左衛門督如元。8月5日:中納言兼按察使、督如元
- 天禄3年(972年) 正月24日:大納言、按察使如元。2月15日:着座
- 天延3年(975年) 日付不詳:止按察使
- 貞元2年(977年) 正月7日:従二位。4月24日:右大臣。6月14日:上表辞退、不許。12月9日:兼皇太子傳(春宮・師貞親王)
- 貞元3年(978年) 10月2日:左大臣、傳如元
- 天元2年(979年) 3月28日:正二位(八幡行幸次賞)
- 永観2年(984年) 8月27日:止傳、兼東宮傅(春宮・懐仁親王)。10月10日:可叙従一位譲時中正四位下
- 寛和2年(986年) 正月26日:勅聴乗輦車出入従待賢門。6月23日:止傳(践祚)。7月16日:兼皇太子傳(春宮・居貞親王)。7月23日:可叙従一位譲致方正四位下
- 寛和3年(987年) 正月7日:従一位、聴輦車
- 永延3年(989年) 7月:聴牛車
- 正暦4年(993年) 5月:有病辞官、無勅許。7月28日:出家入道。 7月29日:薨御、贈正一位
系譜[編集]
雅信の子孫は後世庭田・綾小路・五辻・大原・慈光寺の諸家に分かれて公家として名を残す一方、参議兼近江守だった四男扶義の子孫が近江に定着して、武士の佐々木氏へと展開し、その後の歴史に深く関るようになるのである。
補註[編集]
参考文献[編集]
- 山本信吉『摂関政治史論考』(吉川弘文館、2003年)ISBN 978-4-642-02394-8
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
- 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年
関連項目[編集]
- 土御門殿(雅信の邸宅、後に道長が継承した)
公職 | ||
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先代 藤原頼忠 |
左大臣 978 - 993 |
次代 源重信 |
先代 藤原頼忠 |
右大臣 977 - 978 |
次代 藤原兼家 |
先代 藤原師氏 |
陸奥出羽按察使 970 - 975 |
次代 藤原兼家 |
軍職 | ||
先代 藤原頼忠 |
左衛門督 969 - 972 |
次代 源延光 |
先代 源兼明 |
左兵衛督 968 - 979 |
次代 藤原斉敏 |