黄海海戦 (日清戦争)

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黄海海戦
Battle of the Yellow Sea by Korechika.jpg
於黄海我軍大捷 第一図
画:小林清親
戦争日清戦争
年月日1894年9月17日
場所黄海北部鴨緑江河口南西沖合い
結果:日本側の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 清の旗
指導者・指揮官
Naval Ensign of Japan.svg 伊東祐亨 Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg 丁汝昌
戦力
防護巡洋艦 8
コルベット
砲郭甲鉄艦


砲艦
仮装巡洋艦
戦艦 2
装甲巡洋艦 2
防護巡洋艦 3
巡洋艦 3

装甲巡洋艦
防護巡洋艦
水雷艇 2
損害
3隻大破
1隻中破
5隻小破

死傷者298名
3隻沈没
2隻座礁喪失
2隻中破
3隻小破
死傷者850名
日清戦争

黄海海戦(こうかいかいせん)は、1894年明治27年9月17日日本海軍連合艦隊清国海軍北洋水師(北洋艦隊)の間で行われた海戦。近代的な甲鉄蒸気艦が多数投入された世界史上初の海戦となった。この海戦の結果、清国海軍は大幅に戦力を低下させ黄海渤海制海権を失う事になった。

背景[編集]

戦場となった黄海と両艦隊の航路

7月28日に発生した成歓の戦いの勝利後、朝鮮国首都ソウル周辺の掌握に成功した日本陸軍は、退却した清国陸軍が立て篭もる平壌攻略に向けて8月下旬から北上を開始する事になった。陸軍による朝鮮半島の制圧には一定の目処がつけられたが、それを最終的な戦争の勝利に繋げられるかは日本海軍による艦隊決戦の成否に掛かっていた。

大本営の陸海軍共同作戦案によると、清国艦隊の撃滅に成功した後は渤海沿岸の要所に陸軍主力を輸送して清国政府を早期に降服せしめる事が定められていた。しかし、艦隊戦で敗北ないし引き分けた際には長期戦となる事が予測されていた。国力が乏しく西洋列強の外圧に晒されていた日本にとって長期戦の遂行は困難であった為に、日本海軍には清国艦隊の速やかな掃討と黄海並びに渤海制海権獲得が求められていた。

早期の艦隊戦を望む大本営の思惑とは裏腹に、日本の国力と軍事力を分析した清国の直隷総督北洋大臣李鴻章は、長期戦に持ち込んで西洋列強の介入で講和に漕ぎ着ける事を目指しており、北洋水師提督丁汝昌に決戦回避と戦力温存を指示していた。そのため連合艦隊は黄海内で索敵を繰り返すも艦隊決戦の機会になかなか恵まれず、焦燥する海軍軍令部長樺山資紀が前線視察と称して艦隊司令部を訪れ、是が非でも清国艦隊を捕捉すべしと連合艦隊司令長官伊東祐亨を叱咤する緊迫した状況にあった。

海戦前の動き[編集]

北洋水師提督丁汝昌 
連合艦隊司令長官伊東祐亨 
第一遊撃隊司令官坪井航三 

9月12日、日本陸軍の先発部隊は平壌の南方4キロの地点に到着し清国陸軍と対峙した。その頃、北洋水師大連湾内に停泊しており、丁汝昌提督は交戦地となる平壌への増援に向かう清国陸兵4000人が分乗する輸送船5隻を護送するように命じられていた。しかし日本艦隊出没の虚報で出港がままならず、その間に平壌では早くも決着が付けられて、15日夜に丁汝昌提督は平壌陥落の報せを受け取る事になった。清国陸軍は鴨緑江まで敗走しており増援は大至急必要となった。

慌てた北洋水師と輸送船団は、9月16日午前1時に大連湾を出港して同日14時に鴨緑江河口の約36キロ西にある大狐山の揚陸地点に到着した。大狐山での陸軍兵上陸を見届けた北洋水師はそのまま海沿いの道を行軍する陸軍兵の支援任務につき、翌17日午前から大狐山沿岸とその南方にある大鹿島周辺で遊弋し警戒態勢を取っていた。

一方、朝鮮国黄海道チョッペキ岬の根拠地に停泊していた日本海軍連合艦隊本隊と第一遊撃隊は、9月16日16時に清国艦隊の捕捉を目指して再び出港した。これに沿岸偵察の砲艦「赤城」と、上述の理由で前線に出て来ていた樺山資紀軍令部長が乗船する仮装巡洋艦「西京丸」が同行した。

9月17日午前10時すぎ、海洋島から北東方向に進む日本連合艦隊と、大鹿島周辺で遊弋していた清国北洋水師は互いに相手の煤煙を確認した。連合艦隊は直ちに戦闘態勢を取って急接近し、北洋水師の丁汝昌提督も決戦止む無しと判断して艦隊を左右に展開させ日本艦隊を迎え撃つ事にした。清国政府内では北洋水師の戦力温存策を弱腰と見る声が高まっており、これに抗しきれない内情もあった。

連合艦隊は坪井航三少将率いる第一遊撃隊「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」が前に、伊東祐亨中将率いる本隊「松島」「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」「扶桑」が後ろになる単縦陣を取っていた。加えて戦力外である「西京丸」「赤城」が本隊西側後方を追走していた。

北洋水師は1866年のリッサ海戦で有用性が証明され当時の海戦の常識であった横列陣を敷いた。その配置は艦列右側より「楊威」「超勇」「致遠」「来遠」「鎮遠」「定遠」「経遠」「靖遠」「広甲」「済遠」であった。大鹿島周辺には陸軍兵支援任務の為に合計8隻の艦艇が輸送船と共に残されたが、その中から「平遠」「広丙」「福龍」「左隊一」が遅れて出発し味方本隊に続いていた[1]

海戦[編集]

12時~14時[編集]

両艦隊の航跡図

12時18分、単縦陣の連合艦隊と横列陣の北洋水師が互いに接近する中、連合艦隊司令長官伊東中将は、先頭を進む第一遊撃隊司令官坪井少将に「右方の敵」を攻撃するよう旗信号を送った。これは南東に針路を取り、自分達から見て右側、即ち北洋水師の左翼端に向かうよう意図した指令であったが、坪井少将は「敵の右方」即ち北洋水師の右翼端に向かう指示であると解釈し、艦隊の針路を北西に取った。この行動については坪井少将の解釈違いであるとも故意の命令違反であるとも諸説分かれる。伊東中将は第一遊撃隊の北西針路変更を黙認し、自分たち本隊もそれに航続するよう決断した。北洋水師はやや楔形の横列陣のまま南西に針路を取り、連合艦隊に向けて直進した。単縦陣の長い列の連合艦隊は北西に舵を切り、北洋水師の針路前方を横切る態勢となった。

12時50分、北洋水師旗艦「定遠」が距離5800メートルで主砲を発射し海戦が始まった。「定遠」に続いて清国各艦も第一遊撃隊に向けて一斉に砲撃を始めるが、坪井少将は自軍の発砲を禁じ、増速して北洋水師右翼端への周回に専念させた。

12時52分、第一遊撃隊に後続する連合艦隊本隊は旗艦「松島」が距離3500メートルで発砲したのを皮切りに攻撃を開始した。樺山軍令部長は伊東中将からの退避指示を無視して自身が乗船する「西京丸」と随伴する「赤城」を連合艦隊本隊に並航させ独断で戦列に加わった。

黄海海戦を描いた浮世絵(画:松木平吉

12時55分、北洋水師の右翼端に回りこんだ第一遊撃隊は距離3000メートルまで近づいた所で砲撃を開始し、敵右翼端の「揚威」「超勇」に向けて速射砲による猛烈な砲火を浴びせた。北洋水師は連合艦隊に向けて突進し、衝角戦に持ち込むべく接近を試みるが速力で勝る日本艦隊に取り付くことが出来なかった。横列で突進する北洋水師と、敵の右翼端に縦隊で回り込もうとする連合艦隊は距離3000メートルで互いに砲火を交わし両軍ともに被弾が出始めた。

13時5分、第一遊撃隊の集中砲火を浴びた「超勇」が大破炎上し30分後に沈没する。「揚威」も多数の被弾から炎に包まれて戦闘不能となり、北方へ舵を切って大鹿島方向に戦線離脱した。日本側にも損害が出始め第一遊撃隊の「吉野」が右舷後甲板に被弾し集積の弾薬が誘爆して火災が発生した他、本隊も「松島」が15センチ弾を受けるなど各艦が損傷する。

13時6分、清国別動隊「平遠」「広丙」「福龍」「左隊一」が南下して戦場に接近する。

13時14分、北洋水師の右翼端を撃破して回り込んだ第一遊撃隊は敵から距離を置いて射撃を一時中止した。連合艦隊本隊では最後尾の「比叡」「扶桑」が旧式艦ゆえの劣速のため先航艦に付いて行けず離れてしまう。結果、北洋水師の突進を横断しきれずに取り残された「比叡」を撃沈すべく「定遠」「経遠」が衝角攻撃を試みるが、「比叡」艦長桜井規矩之左右少佐の決断で「定遠」「経遠」の間を通過する大胆な敵中突破を敢行する。敵艦隊の真っ只中に飛び込んだ「比叡」はさながら袋叩きの状態となった。「扶桑」は「比叡」に攻撃が集中してる隙に左に転舵して敵戦列を迂回し、巧みに危険を回避しつつ本隊の航跡を追った。

黄海海戦を描いた浮世絵(画:尾形月耕

13時20分、第一遊撃隊は左舷にUターン回頭して北西に向かい、北方より接近する清国別動隊を牽制して後退させた。本隊では「比叡」「扶桑」が北洋水師の攻撃をかわしつつあったが、その結果、本隊に並航していた「西京丸」と「赤城」が敵の正面に晒される事になる。身軽な「西京丸」に比べて劣速の「赤城」は完全に敵中に孤立して集中砲火に晒され、艦橋に1弾が命中して艦長坂元八郎太少佐が戦死し混乱の中で佐藤鉄太郎航海長が指揮を引継いだ。

13時30分、伊東中将は北西に向かった第一遊撃隊へ本隊に合流するよう信号を送る。坪井少将は艦隊を再度左舷Uターン回頭させて南航し本隊艦列の後方を追った。連合艦隊本隊は北洋水師右翼端の旋回を終えて敵の東方に回り込もうとしていた。北洋水師の横列陣は西方を向いて不規則となり「経遠」「靖遠」「広甲」が艦列から分離して「赤城」「西京丸」を追い回していた。

14時~15時[編集]

「西京丸」の死闘(画:長谷川竹葉

14時、敵艦列の間をすり抜ける事に成功した「比叡」は被弾多数で戦闘不能となった為に北航しての本隊合流を断念して南方に進む。その後はそのまま戦場離脱した。

14時15分、「西京丸」より「比叡、赤城危険」との信号を受け、第一遊撃隊は本隊への航続を中止して左舷Uターン回頭後に西方へ直進し「比叡」「赤城」の救援に向かった。第一遊撃隊の西進を見た清国別動隊は再び南下し、連合艦隊本隊に向けて砲門を開いた。

14時20分、敵に猛追される「赤城」は「経遠」に命中弾を与え炎上減速させる。この幸運の一弾で「赤城」は危機を脱しそのまま北西に進んだ。「赤城」のやや北を進む「西京丸」も多数被弾して舵機が故障する。その東方では連合艦隊本隊と清国別動隊が砲弾を交わして互いに命中弾と被弾を得ていた。

14時30分、第一遊撃隊は西航しつつ南に見える北洋水師を攻撃し「赤城」と北洋水師の間に割り込む位置に到達した。第一遊撃隊の接近を見た北洋水師は右回頭して陣形を北に向ける。「赤城」を追っていた「経遠」「靖遠」「広甲」は元の艦列位置となる「定遠」の南隣に戻っていった。その時、敵から逃れて北に直進する「西京丸」が第一遊撃隊の艦列に割り込んで来た為に、最後尾の「浪速」が衝突を回避するべく止む無く減速転舵する。その結果艦列から離れて孤立の危機に瀕してしまい、そこに「致遠」「来遠」が急速接近して「浪速」の分断を図った[2]。一方、清国別動隊「平遠」「広丙」「福龍」「左隊一」は連合艦隊本隊との交戦から離れて、単独で北上する「西京丸」の攻撃に向かっていた。

樺山軍令部長の奮戦(画:安達吟光

14時40分、水雷艇「福龍」が「西京丸」に肉迫して魚雷二本を発射するも当たらず、三本目は「西京丸」の喫水の浅さが幸いして船底の下を通過した。樺山軍令部長の強運を示して九死に一生を得た「西京丸」は北東への航進を続け戦場離脱した。以後の清国別動隊はそれ以上日本艦隊に近付かず戦闘海域北東で遠巻きに眺める態勢となった。西進中の「浪速」はやや北に迂回しながら「致遠」「来遠」の接近をかわしつつあった。

14時54分、「赤城」は戦闘海域の北西遠方に避難し、第一遊撃隊は「比叡」「赤城」「西京丸」の退避を確認する。「浪速」も無事艦列に追い付き、第一遊撃隊は左に旋回しつつ、敵艦列の死角となる方向から1500メートルまで急接近して砲弾を放ち「致遠」「来遠」に多数命中させ、3000メートルまで離れた後は北洋水師の西方を南航して左舷回頭し敵の南面を突いた。

15時~18時[編集]

「松島」の「致遠」撃沈(画:春斎年昌

15時10分、北洋水師の東方に回り込んだ連合艦隊本隊は右舷Uターン回頭して艦隊左舷側を敵に向けつつ距離2000メートルまで接近する。ここからがこの海戦で最も激しい砲撃戦となった。本隊は「定遠」「鎮遠」を集中攻撃し更に「来遠」「致遠」にも打撃を与えた。第一遊撃隊は距離3700メートルの南方から敵を猛射し、やや不完全な形ではあったが本隊と共に北洋水師へ十字砲火を浴びせる。

15時15分、北洋水師は大打撃を受け「定遠」「来遠」「致遠」で火災が発生するが、態勢を立て直すべく東に一斉回頭して連合艦隊本隊に艦首を向けた。だがこの時「済遠」が独断で北西に向かい戦場離脱して旅順港に帰投してしまった。「済遠」艦長方伯謙副将は元々海戦に反対で通商破壊戦を主張しており、福建軍閥出の自身を丁汝昌提督(北洋軍閥)の完全な指揮下ではないと考えていたという。だが敵前逃亡の罪は免れず海戦後斬首に処された。「広甲」「経遠」も一時「済遠」の逃走につられるがすぐ艦列に戻り「定遠」「鎮遠」の西側に着いた。回頭終了後、炎上する「致遠」が艦列から離れて連合艦隊本隊へ単独突入するも集中砲撃を受け一弾が喫水線下に命中し浸水が発生する。それでも「致遠」は衝角攻撃を試みて突進を続けるが更に砲火を浴び艦首から転覆するようにして沈没した。

勇敢なる三浦水兵(画:松木平吉

15時30分、「鎮遠」の30.5cm砲弾が「松島」の左舷4番砲郭を直撃後、集積の装薬が誘爆して「松島」は大破炎上する。この大爆発で28名が死亡、60名が負傷した。「松島」乗組員の三浦虎次郎三等水兵が重傷を負いつつも「まだ沈まずや定遠は」と向山慎吉副長に尋ね、向山が「戦い難く成し果てき」と答えたという勇敢なる水兵のエピソードはこの時のものである。伊東中将は艦上の消火と損傷修復を指示し、更に敵との距離を詰めるべく「松島」を左舷Uターン回頭させて引き続き北洋水師の東方から今度は艦隊右舷側での砲撃戦を敢行した。南方にいる第一遊撃隊は西側に転舵して北洋水師の西方に回り込もうとしていた。

15時50分、火災が続く「定遠」の速度が落ちたのを契機に「経遠」「来遠」「靖遠」「広甲」が一斉に北西への航進を始めて戦線離脱の態勢を取った。「鎮遠」は「定遠」と共に残ったので連合艦隊本隊はこの両艦を半包囲した。第一遊撃隊は追撃態勢に移り「経遠」「来遠」「靖遠」の集団を目指して北上した。戦闘海域北東で距離を置いていた「平遠」「広丙」「福龍」「左隊一」も北方に退却を始めた。

16時7分、連合艦隊本隊と「定遠」「鎮遠」が砲撃戦を続ける中、「松島」はようやく鎮火に成功するも被害甚大で舵機が不調となった為、伊東中将は先導不能を示す不管旗を上げて本隊の単縦陣を解き各艦の自由進撃を指示した。

イギリス紙に描かれた「定遠」と「鎮遠」

16時45分、伊東中将は「定遠」「鎮遠」と交戦する味方本隊の各艦進撃を中止し、旗艦「松島」への集結信号を出した。

16時48分、第一遊撃隊が逃走する「経遠」に追いつき攻撃を開始する。砲弾がことごとく命中し「経遠」は17時29分に艦首より沈没した。

17時40分、再集結した連合艦隊本隊は「定遠」「鎮遠」から離れて南方に後退する。それを見た「定遠」「鎮遠」も退却を始め旅順港を目指して北航した。

17時45分、第一遊撃隊の坪井少将は更に逃走する敵艦を追おうとしたが、本隊の伊東中将から合流せよとの遠距離信号を受けて引き返した。

17時55分、戦闘海域から離れていた「赤城」が連合艦隊本隊に復帰合流した。一方「比叡」「西京丸」は朝鮮半島の日本海軍根拠地に向かって航行中だった。

20時、伊東中将は旗艦を「橋立」に変更して移乗し、大破した「松島」を呉軍港に帰還させた。伊東中将と参謀達は北洋水師が山東半島の威海衛に帰投するものと想定し、その退路を断つべく西への夜間航進を開始した。

翌18日[編集]

旗艦「松島」の挿画

18日1時15分、「西京丸」が朝鮮半島北部・大同江河口の日本海軍根拠地に帰還した。

3時30分、「済遠」が旅順港に帰投した。「広甲」は旅順に向かって大連湾付近を航行中に、損傷による舵機不調から三山島南方で座礁し放棄された。

5時50分、「比叡」が大同江河口の根拠地に帰投した。旅順港には「来遠」「靖遠」「広丙」「福龍」「左隊一」が到着していた。連合艦隊は威海衛近海に到着し索敵を始めていたが、清国各艦は旅順港に帰還していた為に発見出来ず、再び遼東半島南方の海域に戻った。同時に「赤城」を大同江河口の根拠地に帰還させた。

9時30分、旅順港に「定遠」「鎮遠」が帰還した。

11時30分、「平遠」が大鹿島周辺に残っていた砲艦2隻、水雷艇2隻、輸送船5隻を伴って旅順港に帰着した。

14時、遼東半島南岸の海域で清国軍艦を探す連合艦隊は、大鹿島近くで座礁している「揚威」を発見しこれを破壊した。すでに乗組員はいなかった。

18時、伊東中将は清国艦隊の探索を打ち切り連合艦隊を大同江方面へ向かわせ、翌19日8時に日本の各軍艦は朝鮮半島北部・大同江河口の日本海軍根拠地に帰着した。

その後[編集]

清国軍艦神符
元寇史料館所蔵

海戦の結果、連合艦隊北洋水師に大打撃を与えたが「定遠」「鎮遠」は未だ健在であったので黄海内の警戒態勢は継続されていた。それでも朝鮮半島西沿岸の制海権は掌握したと見なされ、その海域における積極的な海上輸送が行われる様になった。

日本軍の次の目標は北洋水師が逃げ込んだ旅順港となった。11月21日に旅順は攻略され遼東半島南沿岸の制海権も確保された。北洋水師は事前に山東半島威海衛に撤退していた。日本陸軍は海上輸送の助けを得て兵員と軍需品を続々と遼東半島に送り込んだ。

年が越され、1895年1月20日から北洋水師が立て篭もる威海衛の攻略作戦が開始された。ここを制圧して北洋水師を無力化すれば、渤海黄海の制海権を握り清国本土への自由な兵員輸送が可能となるので、それはつまり戦争の勝利を意味する事になった。

2月5日と9日深夜に水雷艇部隊を威海衛軍港へ突入させる奇襲作戦が実施された。この2回の夜襲により「来遠」「靖遠」が撃沈され、旗艦「定遠」も大破して座礁後に自沈した。2月12日に威海衛の清国将兵は降服し「鎮遠」「済遠」「平遠」「広丙」が鹵獲されて日本海軍に編入された。

翌3月半ばまでに日本陸軍は遼東半島全域の占領に成功し、日本海軍による渤海制海権の完全掌握と合わせて北京周辺の直隷平野(万里の長城と黄河の間)に王手を掛けた。3月19日から講和交渉が始まり、4月17日に下関条約が締結されて日清両国は講和した。近代化した日本陸軍の優越性もさる事ながら、その作戦進行には海上輸送機能が不可欠であったので制海権の獲得がこの戦争の鍵となった。

影響と短評[編集]

ヨーロッパ製近代軍艦の性能が実戦で試される事になったこの海戦は当然の如く各国海軍に大きな影響を与えた。戦術面では単縦陣による側舷砲撃の有効性が裏付けられて以後のスタンダードとなった。高速遊撃部隊と低速主力部隊に分ける運用法もまた有効とされたが、双方がこれをすると遊撃部隊同士の交戦に終始する事が第一次世界大戦で明らかとなった。黄海海戦の推移から速度は防御になると判断したイギリスは高速度軽装甲の巡洋戦艦を設計したが、ユトランド沖海戦の轟沈続出でそれが誤りだった事が分かった。戦艦に対する巡洋艦の活躍を見たフランスはジューヌ・エコール(新海戦理論)に一層の自信を深めたが、これも誤りとなり結果的に大艦巨砲時代の建艦技術に遅れを取る事になった。

日本海軍は非装甲の巡洋艦で海戦を挑む事を余儀なくされたが、それは国家自体の資金不足に起因するものではなく、海軍内で公然と私腹を肥やす汚職の蔓延により、建艦費計上への理解が得られなかった事が最大の原因だった。民党側が提案した建艦費認可と汚職防止の交換条件ですら蛮勇演説で居丈高にはね付けていた。明治天皇の権威を盾にした建艦詔勅により「定遠」をはるかに上回る戦艦「富士」「八島」を開戦前年に発注出来たが、肝心の海戦には間に合わず極めて非効率な出費となり、元々の原因である海軍内の汚職も変わらず残って後年のシーメンス事件で手痛いしっぺ返しを受ける事になった。海軍首脳部は資金不足を解決する目的以上に、小型艦で大型艦を克服出来るというフランス発の新海戦理論(ジューヌ・エコール)を信奉していたと見られ、明治十九年度計画の時点で巡洋艦4隻を主力とする事が決定され、その内1隻の起工は先送りされているが、この松島型巡洋艦4隻の建造費は定遠型戦艦2隻分とほぼ同等だったので資金不足による苦渋の選択という訳ではなかった(定遠型戦艦は1700万庫平両。1庫平両=銀37gなので日本の銀10匁と等価であり幕末の銀60匁=金1両=1円のレートで換算すると約283万円となる。松島型巡洋艦は140万円だった)。出来上がった三景艦の不安定さを見てその夢から覚めた日本海軍は大きく狼狽する事になったが、即座にイギリス発の単縦陣理論と速射砲の側舷配備に切り替えた機転の速さが日本を救う事になった。

海戦では第一遊撃隊司令官坪井少将の独断専行が目立ち本隊との連携を欠いた点が指摘されていた。海戦当初の命令に反した左への針路変更は、自分達は別行動を取るという明確な意思表示であり、本隊はそのまま右へ進むものと考えていたとも見られている。しかし伊東中将はあくまで統一行動を重んじ、敵艦隊を横切る危険を冒してまでも坪井少将に続いた。単縦陣の優越性を活かしていない敵前面の横断移動は賛否両論となったが、後の日本海海戦の参謀秋山真之はこれを止むを得ない判断とした。その後も坪井少将は独断で針路を変えているが、平遠牽制の為の北航と赤城救援の為の西航は無駄な艦隊運動であったと秋山真之は評している。予定通り初回から右に針路を取り全艦一列の円運動を繰り返せば、当海戦での敵艦隊撃滅も夢では無かったと分析していた。一方で坪井少将はミスター単縦陣とあだ名される程の熱心なイギリス戦術推進者であり、撃沈に拘らずとも艦上の武装をなぎ払えば良いとして速射砲の導入を勧めた優れた先見性の持ち主でもあった。なお、速射砲戦術の有用性はこの海戦時のみの一過性のものに留まっている。日本側の艦隊運動は見事で乗組員達の練度と規律の高さを証明していたが、清国側の乗組員達もそれに引けを取らない勇敢さを見せており、日本側の十倍以上の被弾に晒されながらも最後まで持ち場を離れずに艦上機能を維持し続けていた事が外国人観戦武官(顧問)によって証言されている。

戦争勝利後に唄われ、当時の国民意識を反映していたと思われる童謡の中に「天佑6分に樺山3分、後の1分は鉄砲玉」という一節があった。1888年以降の清国海軍は西太后による海軍費流用で新造軍艦を配備出来ておらず、これは日本側にとってジューヌ・エコールを採用した軍政面の失策をも帳消しにする極めて幸運な勝因となった。海戦中の樺山軍令部長は「浪速」の針路を妨害し、また参戦していながら味方の士気に配慮せずに戦線離脱して帰投するという独善性を見せたとはいえ、海軍トップの地位にありながら命を惜しまず最前線に赴くという責任感の強さを国民は何より称賛した。内容には些かの誤解はあるが、この称賛は国家運営の大局的観点の下では賢明な見識の声と言えた。明治の後の日本海軍にはこの精神は余り受け継がれず、最前線に出る事を損な役回りと見なす風潮が軍上層部内に広まり、国民側もそれに対して声を上げなかった。それは無謀な作戦指導を太平洋戦争期に頻発させ、若い兵士達を文字通りの鉄砲玉にして多数の犠牲を強いる要因に繋がった。

参加艦艇[編集]

日本[編集]

1894年7月19日、日本海軍は主力艦で構成された常備艦隊と、老朽艦小型艦で構成された警備艦隊を併せて「連合艦隊」を編制した。当時のこの命名には編制的な意味以上に規模を大きく見せる為のハッタリも含んでいた。戦時の連合艦隊は本隊(重装艦)、第一遊撃隊(高速艦)、第二遊撃隊(スループ主体)、第三遊撃隊(砲艦主体)に分けて運用された。本隊と第一遊撃隊は決戦用の部隊であり、第二遊撃隊と第三遊撃隊は戦闘支援用の部隊であった。

連合艦隊・本隊(司令長官:伊東祐亨中将 参謀長:鮫島員規大佐)旗艦:松島

防護巡洋艦 松島 (艦長:尾本知道大佐)     仏:4277トン、16ノット
防護巡洋艦 千代田(艦長:内田正敏大佐)     英:2450トン、19ノット
防護巡洋艦 厳島 (艦長:横尾道昱大佐)     仏:4277トン、16ノット
防護巡洋艦 橋立 (艦長:日高壮之丞大佐)    日:4277トン、16ノット
コルベット 比叡 (艦長心得:桜井規矩之左右少佐)英:2200トン、13.2ノット
砲郭甲鉄艦 扶桑 (艦長:新井有貫大佐)     英:3718トン、13ノット

連合艦隊・第一遊撃隊(司令官:坪井航三少将)旗艦:吉野

防護巡洋艦 吉野 (艦長:河原要一大佐)   英:4150トン、22.5ノット
防護巡洋艦 高千穂(艦長:野村貞大佐)    英:3650トン、18ノット
防護巡洋艦 秋津洲(艦長心得:上村彦之丞少佐)日:3150トン、19ノット
防護巡洋艦 浪速 (艦長:東郷平八郎大佐)  英:3650トン、18ノット

その他

仮装巡洋艦 西京丸(艦長:鹿野勇之進少佐)海軍軍令部長樺山資紀が座乗
砲艦    赤城 (艦長:坂元八郎太少佐)第三遊撃隊所属

清国[編集]

清国海軍は四つの水師(艦隊)を持っており、その中で最大の戦力を持つ主力は北洋水師だった。他の南洋水師、広東水師、福建水師は小艦艇を保有するのみであり、戦力集中の為に複数の艦船を北洋水師に編入させてもいた。

北洋水師(水師提督:丁汝昌提督)旗艦:定遠

戦艦    定遠(管帯:劉歩蟾総兵) 独:7355トン、14.5ノット
戦艦    鎮遠(管帯:林泰曽総兵) 独:7430トン、14.5ノット
装甲巡洋艦 経遠(管帯:林永升副将) 独:2850トン、15.5ノット
装甲巡洋艦 来遠(管帯:丘宝仁副将) 独:2830トン、15.5ノット
防護巡洋艦 致遠(管帯:鄧世昌副将) 英:2300トン、18ノット
防護巡洋艦 靖遠(管帯:葉祖珪副将) 英:2300トン、18ノット
防護巡洋艦 済遠(管帯:方伯謙副将) 独:2355トン、15ノット
巡洋艦   揚威(管帯:林履中参将) 英:1350トン、15ノット
巡洋艦   超勇(管帯:黄建勲参将) 英:1350トン、15ノット
巡洋艦   広甲(管帯:呉敬栄都司) 清:1290トン、14.7ノット

北洋水師・別動隊(遅れて海戦参加)

装甲巡洋艦 平遠 (管帯:李和都司) 清:2100トン、10.5ノット
防護巡洋艦 広丙 (管帯:程璧光都司)清:1000トン、17ノット
水雷艇   福龍 (管帯:蔡廷幹都司)
水雷艇   左隊一(管帯:王平都司)

損害[編集]

日本[編集]

被弾数は少ないが大口径の砲弾が命中しており、非装甲ゆえにそれが即大きな損傷に繋がった。

大破

防護巡洋艦松島」  被弾13発・死傷113名
コルベット比叡」  被弾23発・死傷56名
砲艦   「赤城」  被弾30発・死傷28名・艦長坂元八郎太少佐戦死

中破

仮装巡洋艦西京丸」 被弾12発・死傷11名

小破

防護巡洋艦「厳島」  被弾8発・死傷31名
防護巡洋艦「橋立」  被弾11発・死傷13名
防護巡洋艦「吉野」  被弾8発・死傷12名
砲郭甲鉄艦扶桑」  被弾8発・死傷14名
防護巡洋艦「秋津洲」 被弾4発・死傷15名

損傷軽微

防護巡洋艦「浪速」  被弾9発・負傷2名
防護巡洋艦「高千穂」 被弾5発・死傷3名
防護巡洋艦「千代田」 被弾3発・負傷0名

清国[編集]

被弾数は多いが小口径の砲弾が大半だったので、装甲で守られた船体の損傷は大きくならなかった。

沈没

防護巡洋艦致遠」  死傷246名・管帯鄧世昌副将戦死
装甲巡洋艦経遠」  死傷232名・管帯林永升副将戦死
巡洋艦  「超勇」  死傷125名・管帯黄建勲参将戦死

座礁による喪失

巡洋艦  「揚威」  死傷56名・管帯林履中参将戦死
巡洋艦  「広甲

中破

装甲巡洋艦「来遠」  被弾225発・死傷30名
戦艦   「定遠」  被弾159発・死傷55名

小破

戦艦   「鎮遠」  被弾220発・死傷41名
防護巡洋艦「靖遠」  被弾11発・死傷18名
防護巡洋艦「済遠」  被弾15発・死傷15名

損傷軽微

装甲巡洋艦「平遠」  被弾24発
防護巡洋艦「広丙」  被弾1発・負傷3名

脚注[編集]

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  1. ^ ?悦. “黄海鏖兵 : 甲午?争中的大??海?(三)” (中国語). 北洋水?. ?悦. 2007年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月11日閲覧。
  2. ^ 松田十刻 《東郷平八郎と秋山真之》P187

参考文献[編集]

  • 海軍中将森山慶三郎「黄海々戦海軍記念日」(1925年9月、東京放送局より放送の講演)、社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第七輯』日本ラジオ協会、1926年8月、113~123頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]