林内閣

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林内閣
Hayashi Cabinet.jpg
最前列左から 林首相外相文相、河原田内相
二列目左端に 結城蔵相拓相
三列目左に 中村陸相、右に 米内海相
四列目左に 塩野法相、
伍堂商工相鉄相

内閣総理大臣 第33代 林銑十郎
成立年月日 1937年(昭和12年)2月2日
終了年月日 同年6月4日
与党・支持基盤 衆議院昭和会国民同盟(閣外協力)、貴族院研究会
施行した選挙 第20回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1937年(昭和12年)3月31日
食い逃げ解散
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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林内閣(はやしないかく)は、軍事参議官予備役陸軍大将林銑十郎が第33代内閣総理大臣に任命され、1937年(昭和12年)2月2日から同年6月4日まで続いた日本の内閣である。

概要[編集]

前の広田内閣が瓦解した後、大命が降下したのは予備役陸軍大将宇垣一成だった。しかし陸相時代に大規模な軍縮を断行(宇垣軍縮)した宇垣を煙たがる風潮がこの頃の陸軍では大勢を占めたため、陸軍は軍部大臣現役武官制を盾に現役将官から陸軍大臣を推薦せず、結局宇垣は組閣に失敗して大命を拝辞するに至った(宇垣流産内閣)。このため、あらたに予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下し、組閣したのが林内閣である。

林内閣は財界と軍部の調整を図って大蔵大臣に財界出身の結城豊太郎日本商工会議所会頭を充て、その財政は「軍財抱合」と評された。また少数の閣僚による実力内閣を標榜した林は多くの国務大臣を閣僚の兼任としたため発足当初は「二人三脚内閣」と呼ばれた。

林内閣は貴族院ではかろうじて研究会の支持を取り付けたものの、結局衆議院で与党に回ったのは昭和会国民同盟の閣外協力のみで、両党あわせても衆議院466議席中35議席を占めるに過ぎなかった。昭和14年2月2日に圧倒的少数与党で発足した林内閣は、再開された第70回帝国議会において重要法案の審議引き延ばし戦術に出た民政・政友の両野党に散々にてこずらされる。妥協を重ねて年度末ぎりぎりにやっと昭和12年度予算が可決されると、林は直ちに二大政党への懲罰的な意図をこめて衆議院を解散した(「食い逃げ解散」)。こうして4月20日行われた第20回総選挙では与党勢力の躍進を期待した林の思惑とは裏腹に昭和会・国民同盟はいずれも議席を減らす結果となった。それでも林は強気の姿勢を崩さず、再度の解散をちらつかせながら政権維持を明言したが、これが倒閣運動に火を注ぐこととなり、結局四面楚歌となるなか、5月31日林はついに全閣僚の辞表をとりまとめて奉呈した。

林内閣は短命で特に大きな実績も残せなかったことから「史上最も無意味な内閣」と評され、後には林銑十郎の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」とまで皮肉られるに至った。

閣僚[編集]

以下表中、出身母体の「貴」は貴族院、「衆」は衆議院、「官」は官僚、「軍」は軍部、「財」は財界、そして軍階級の「予」は予備役、「退」は退役であることをそれぞれ示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。

林内閣
発足:1937年(昭和12年)2月2日
辞職:1937年(昭和12年)6月4日
国務大臣 閣僚 爵位 階級 出身母体 就任日 退任の背景
内閣総理大臣 林 銑十郎 予-陸軍大将 軍-陸軍 満州組 1937年(昭12)2月2日
外務大臣  林 銑十郎(内閣総理大臣による兼任)  1937年(昭12)2月2日  専任外相の任命
佐藤 尚武 官-外務省 1937年(昭12)3月3日
内務大臣 河原田 稼吉 官-内務省 1937年(昭12)2月2日
大蔵大臣 結城 豊太郎 財-安田財閥(→貴[1] 1937年(昭12)2月2日
陸軍大臣 中村 孝太郎 陸軍中将 軍-陸軍 統制派 1937年(昭12)2月2日 病気により辞任[2]
杉山 元 陸軍大将 軍-陸軍 宇垣閥 1937年(昭12)2月9日
海軍大臣 米内 光政 海軍中将 軍-海軍 良識派 1937年(昭12)2月2日
司法大臣 塩野 季彦 官-司法省 1937年(昭12)2月2日
文部大臣  林 銑十郎(内閣総理大臣による兼任) 1937年(昭12)2月2日
農林大臣 山崎 達之輔 衆-昭和会 1937年(昭12)2月2日
商工大臣 伍堂 卓雄 退-海軍造兵中将 満鉄理事、(→貴[1] 1937年(昭12)2月2日
逓信大臣  山崎 達之輔(農林大臣による兼任)  1937年(昭12)2月2日  専任逓相の任命
児玉 秀雄 伯爵 貴-研究会、官-大蔵省 1937年(昭12)2月10日
鉄道大臣  伍堂 卓雄(商工大臣による兼任)  1937年(昭12)2月2日
拓務大臣  結城 豊太郎(大蔵大臣による兼任)  1937年(昭12)2月2日
内閣書記官長 大橋 八郎 官-逓信省 1937年(昭12)2月2日
法制局長官 川越 丈雄 官-大蔵省 1937年(昭12)2月2日

政務官[編集]

国務大臣を補佐しつつ政府(内閣)と議会との連絡を取ることをその職掌とした、政務次官参与官の両政務官が置かれたのは1924年(大正13年)8月、護憲三派内閣の時だった。その後も内閣が変わるごとに時の政府が与党とたのむ両院の会派の中から若手の議員たちがこれら政務官に任用されていった。やがて五・一五事件二・二六事件を経て憲政の常道が崩れ中間内閣の時代が到来すると、一内閣における政党枠の大臣数は大幅に減った。するとこんどは大臣適齢期になった中堅の議員たちが、政務次官や参与官を大臣に次ぐポストとして垂涎するようになった。このため政務官は次第に両院議員たちの猟官運動の対象と化してゆき、やがてそれは有害無益なものではないかという批判までが起こるようになっていった。

そうした中で、少数閣僚内閣による実力内閣を標榜した林はこうした政務官への批判を絶好の機会と捉え、政務官の弊害を過剰に問題視してその任用を一切とりやめてしまったのである。政務官という議会との連絡役を自ら断ち切ってしまった林内閣は、その当然の帰結として衆議院で民政党政友会の双方からそっぽを向かれることになってしまった。二大政党の支持なくして発足した林内閣の瓦解への秒読みは、その発足と同時にすでに始まっていたといってよい。

補註[編集]

  1. ^ a b 退任を目前に控えた1937年(昭和12年)5月31日貴族院勅選議員に勅任。
  2. ^ 中村は就任後2日目に発熱、検査の結果腸チフスであることが判明し、長期療養が必要となったことから1937年(昭和12年)2月9日、在任8日にして大臣を辞任するに至った。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年

外部リンク[編集]