岡田内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
岡田内閣
The Okada Cabinet.jpg
前列左から 広田外相、松田文相、後藤内相、
岡田首相拓相、床次逓相、町田商工相、大角海相
二列目左から 小原法相、藤井蔵相、内田鉄相、
山崎農相、林陸相  最後列左端に 金森法制局長官

内閣総理大臣 第31代 岡田啓介
成立年月日 1934年(昭和9年)7月8日
終了年月日 1936年(昭和11年)3月9日
与党・支持基盤 衆議院:民政党政友会除名離党分派昭和会、貴族院:研究会公正会
施行した選挙 第19回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1936年(昭和11年)1月21日
内閣閣僚名簿(首相官邸)
テンプレートを表示

岡田内閣(おかだないかく)は、前海軍大臣後備役海軍大将岡田啓介が第31代内閣総理大臣に任命され、1934年(昭和9年)7月8日から1936年(昭和11年)3月9日まで続いた日本の内閣である。

概要[編集]

元老西園寺公望は自身の高齢化に鑑み、この後継首班の奏薦から手順を改め、以後は元老が重臣枢密院議長内大臣と協議の上でこれを行うことにした。彼らは、斎藤内閣は帝人事件の余波を受けて倒れたとはいうものの斎藤内閣自体に失政があったとはいえないということで一致していた。そこで中間内閣ならばやはり海軍からということになり、前海軍大臣の岡田啓介に白羽の矢が立った。

西園寺の要請をうけて衆議院では民政党が与党となり、貴族院では民政党の貴族院における別働隊的性格をもっていた公正会に加え最大会派の研究会が支持に回った。しかし斎藤内閣と同じように挙国一致内閣となることを望んだ岡田は、野党となった政友会から高橋是清山崎達之輔床次竹二郎内田信也の4名を閣内に取り込んだ。これに反発した政友会執行部は直ちに山崎・床次・内田を除名、元総裁の高橋は除名するわけにもいかないのでこれを「別離」という苦し紛れの表現で党から追放した。

岡田内閣は天皇機関説問題の対応に苦慮。軍部からの圧力に抗しきれず、第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退し、軍の華北進出を容認した。政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受けて、1936年(昭和11年)1月21日に衆議院を解散した。同年2月20日に行われた第19回総選挙の結果、与党・民政党が第一党となり、これが政局に安定をもたらすものと思われたが、その6日後の2月26日に二・二六事件が起きる。岡田本人は奇跡的に難を逃れたが、これが岡田内閣の息の根を止めたことには変わらなかった。

閣僚[編集]

以下表中、「貴」は貴族院、「衆」は衆議院、「官」は官僚、「軍」は軍部、「後」は後備役、「元」は元職、「再」は前内閣からの再任、「転」は前内閣からの転任(閣内横滑り)をそれぞれ示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。

岡田内閣
発足:1934年(昭和09年)7月8日
辞職:1936年(昭和11年)3月9日
国務大臣 閣僚 爵位 階級 出身母体 就任日 退任の背景
内閣総理大臣 岡田 啓介 後-海軍大将 軍-海軍 1934年(昭9)7月8日
 後藤 文夫(内務大臣による臨時代理) 1936年(昭11)2月26・27日  総理の無事が判明したため
外務大臣 広田 弘毅(再) 官-外務省 1934年(昭9)7月8日
内務大臣 後藤 文夫(転)[1] 貴-無会派、官-内務省 1934年(昭9)7月8日
大蔵大臣 藤井 真信 官-大蔵省 1934年(昭9)7月8日 病気による辞任[2]
高橋 是清 元-政友会別離 1934年(昭9)11月27日 二・二六事件で暗殺
 町田 忠治(商工大臣による兼任) 1936年(昭11)2月27日
陸軍大臣 林 銑十郎(再) 陸軍大将 軍-陸軍 満州閥 1934年(昭9)7月8日 相沢事件で引責辞任
川島 義之 陸軍大将 軍-陸軍 無派閥 1935年(昭10)9月5日
海軍大臣 大角 岑生(再) 男爵[3] 海軍大将 軍-海軍 1934年(昭9)7月8日
司法大臣 小原 直 官-司法省 1934年(昭9)7月8日
文部大臣 松田 源治 衆-民政党 1934年(昭9)7月8日 在任のまま死去[4]
川崎 卓吉 衆-民政党 1936年(昭11)2月2日
農林大臣 山崎 達之輔 衆-政友会除名→昭和会 1934年(昭9)7月8日
商工大臣 町田 忠治 衆-民政党 1934年(昭9)7月8日
逓信大臣 床次 竹二郎 衆-政友会除名、官-内務省 1934年(昭9)7月8日 在任のまま死去[5]
 岡田 啓介(内閣総理大臣による兼任) 1935年(昭10)9月9日
望月 圭介 衆-政友会除名→昭和会 1935年(昭10)9月12日
鉄道大臣 内田 信也 衆-政友会除名→昭和会 1934年(昭9)7月8日
拓務大臣  岡田 啓介(内閣総理大臣による兼任) 1934年(昭9)7月8日
児玉 秀雄 伯爵 貴-研究会、官-大蔵省 1934年(昭9)10月25日
内閣書記官長 河田 烈 貴-研究会、官-内務省 1934年(昭9)7月8日 病気により辞任
吉田 茂 官-内務省 1934年(昭9)10月20日 内閣調査局長官[6]に転出
白根 竹介 官-内務省 1935年(昭10)5月11日
法制局長官 金森 徳次郎 官-法制局、大蔵省 1934年(昭9)7月8日 天皇機関説絡みで辞任[7]
大橋 八郎 官-逓信省 1936年(昭11)1月11日

政務官[編集]

大臣を補佐しつつ政府(内閣)と議会との連絡をとることをその職掌とした政務次官参与官の政務官が置かれたのは1924年(大正13年)8月、護憲三派内閣の時だった。しかしその後五・一五事件二・二六事件を経て憲政の常道が崩れ政党内閣が過去のものになっていくと、政務官は大臣に次ぐポストとして貴衆両院議員の猟官運動の対象と化し、やがてそれは有害無益なものだという批判が起こるようになっていった。

なお政務官(政務次官参与官)の任命は、通常内閣の発足後、数日から数週間程度の日を置いて行われた。またその退任も、次の内閣で新しい政務官が任命されるのを待って行われた。このため政務官の在任期間は日付上は二つの内閣にまたがるかたちとなる。しかし政務官はあくまでも政治任用勅任官であり、時の政府が与党とたのむ会派に所属する貴衆両院の議員の中からこれを選任するので、その職責は彼らを任命した内閣が総辞職した時点で実質的には消滅した。前の内閣が任命した政務官は、次の内閣発足後も暫時その職に留まるものの、基本的にその仕事といえば事務の引継ぎぐらいのものだった。

岡田内閣政務官
内閣の発足:1934年(昭和09年)7月08日
政務官任命:1934年(昭和09年)7月19日
内閣総辞職:1936年(昭和11年)3月09日
政務官退任:1936年(昭和11年)3月25日
 
政務次官
政務次官 任用議員 爵位 出身母体 就任日
外務政務次官 井阪 豊光 衆-無所属 1934年(昭9)7月19日
内務政務次官 大森 佳一 男爵 貴-公正会 1934年(昭9)7月19日
大蔵政務次官 矢吹 省三 男爵 貴-公正会 1934年(昭9)7月19日
陸軍政務次官 土岐 章(留任) 子爵 貴-研究会 1932年(昭7)6月1日
岡部 長景 子爵 貴-研究会 1935年(昭10)12月14日
海軍政務次官 堀田 正恒(留任) 伯爵 貴-研究会 1931年(昭6)12月15日
司法政務次官 原 夫次郎 衆-政友会 1934年(昭9)7月19日
文部政務次官 添田 敬一郎 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
農林政務次官 守屋 栄夫 衆-政友会 1934年(昭9)7月19日
商工政務次官 勝 正憲 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
逓信政務次官 青木 精一 衆-政友会離党→昭和会 1934年(昭9)7月19日
鉄道政務次官 樋口 典常 衆-政友会離党→昭和会 1934年(昭9)7月19日
蔵園 三四郎 衆-政友会離党→昭和会 1935年(昭10)8月31日
拓務政務次官 田中 武雄 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
桜井 兵五郎 衆-民政党 1934年(昭9)10月26日
 
参与官
参与官 任用議員 爵位 出身母体 就任日
外務参与官 松本 忠雄(留任) 衆-民政党 1933年(昭8)12月21日
内務参与官 橋本 実斐 伯爵 貴-研究会 1934年(昭9)7月19日
大蔵参与官 豊田 収 衆-政友会 1934年(昭9)7月19日
陸軍参与官 石井 三郎(留任) 衆-無所属 1932年(昭7)6月1日
海軍参与官 窪井 義道 衆-政友会離党→昭和会 1934年(昭9)7月19日
司法参与官 舟橋 清賢 子爵 貴-研究会 1934年(昭9)7月19日
文部参与官 山枡 儀重 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
農林参与官 森 肇 衆-政友会離党→昭和会 1934年(昭9)7月19日
商工参与官 高橋 守平 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
逓信参与官 平野 光雄 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
鉄道参与官 兼田 秀雄 衆-政友会離党→昭和会 1934年(昭9)7月19日
拓務参与官 手代木 隆吉 衆-民政党 1934年(昭9)7月19日
佐藤 正 衆-民政党 1934年(昭9)10月26日

補注[編集]

  1. ^ 後藤は前内閣の農林大臣から横滑りで内務大臣に転任した。
  2. ^ 藤井には当初から健康に不安があったが、昭和十年度予算案を閣議決定した2日後の11月26日に病状が悪化して慶應大学病院に緊急入院、同日蔵相を辞任した。2か月余後の翌1935年(昭和10年)1月31日、肺気腫のため死去、満50歳。
  3. ^ 大角には満州事変の功により1935年(昭和10年)12月26日男爵が叙爵された。ただしその「功」とは戦功ではなく、満州事変の戦功により陸軍から本庄繁・荒木貞夫両大将が男爵に叙爵されることになったので、釣り合い上海軍からも誰かを叙爵する必要が生じ、たまたま事変勃発時に海軍大臣だった大角大将に棚から牡丹餅が落ちたのである(そもそも内陸の満州で海軍は展開の仕様もない)。→ 詳細は「大角岑生」項を参照
  4. ^ 松田は1936年(昭11)2月1日午後、帝大に赴き真鍋病室三十周年記念の祝典に出席、そついでに真鍋嘉一郎教授の健康診断を受けたところ、心臓が肥大しているので注意するよう言われた。ところがそのわずか3時間後に突如心臓麻痺を起こして急死、満60歳。
  5. ^ 床次は1935年(昭和10年)はじめ頃から病気がちになった。9月7日に登庁し、懸案の新通信社設立を認可すること決定、書類には翌日判を捺すことを大橋八郎次官に告げて帰宅したが、翌8日早朝に心不全で急死、満68歳。
  6. ^ 企画院総裁の前身。
  7. ^ 憲法学者でもある金森は大学で法学と憲法学を講じ、また多くの書を著わしていたが、法制局長官に就任すると過去の著作『帝国憲法要説』が「天皇機関説である」という理由にならないような理由で右翼勢力からの猛攻撃を受けるようになり、結局辞任に追い込まれた。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

外部リンク[編集]