米内内閣

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米内内閣
Yonai Cabinet.jpg
前列左から 勝逓相、米内首相、有田外相、島田農相
二列目左から 児玉内相、桜内蔵相、吉田海相、松浦文相
三列目左から 木村法相、藤原商相、畑陸相、吉田厚相
四列目左から 松野鉄相、小磯拓相
後列左から 広瀬法制局長官、石渡内閣書記官長

内閣総理大臣 第37代 米内光政
成立年月日 1940年(昭和15年)1月16日
終了年月日 同年7月22日
与党・支持基盤 衆議院:民政党政友会正統派政友会革新派
貴族院:研究会公正会
施行した選挙 なし
衆議院解散 なし
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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米内内閣(よないないかく)は、軍事参議官海軍大将米内光政が第37代内閣総理大臣に任命され、1940年(昭和15年)1月16日から同年7月22日まで続いた日本の内閣である。

概要[編集]

前の阿部内閣が瓦解した後、当初一部では陸軍大臣畑俊六が後継首班に噂されていた。折しも第二次世界大戦が勃発しポーランドを難なく分割占領したナチス・ドイツの攻勢に触発されて、いよいよ日本でも日独伊三国同盟締結を求める声が高まりをみせつつあった中、これを深く憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、むしろこうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えていた。実は天皇には意中の人物がおり、その者の名を内大臣湯浅倉平に自ら推挙したのである。海軍の良識派として知られ、その温厚な人柄とも相まって人望が厚かった海軍大将米内光政その人である。天皇の方から後継首班の条件について意見した例は過去にもあったが( →「斎藤内閣」を参照)、天皇が特定の人物の名をあげて推挙するというのはまったく異例のことだった[1]

米内は組閣と同時に自ら現役を退いて予備役となった。現役の陸海軍大将に組閣の大命が下った例は他にも山県有朋、寺内正毅、山本権兵衛、加藤友三郎、東条英機があるが、彼らはいずれも現役のまま内閣総理大臣を務めており、組閣と同時に予備役というのは後にも先にもこの米内を除いて例を見ない。

しかし米内は親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動を静観する姿勢を貫いたことなどにより、陸軍や親軍的な世論から不評を買う。特に畑ないし陸軍出身者に大命が降下すると確信していた陸軍部内は米内首班に激しく反発、これを「重臣ブロックの陰謀」と決めつけて非難した。米内内閣の倒閣運動は、その組閣と同時に始まったといえる。米内内閣発足直後に民政党斎藤隆夫議員が行ったいわゆる「反軍演説」に過剰な反応を示してついに斎藤を議員除名に至らせたのがその嚆矢となった。

欧州で始まった第二次世界大戦は、ポーランド作戦が終わると約半年にも及ぶ「奇妙な戦争」と呼ばれる不戦期に入っていたが、これが実質的に米内内閣の存続条件となった。しかし1940年(昭和15年)5月にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。7月4日、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として参謀総長閑院宮載仁親王を通じて畑に陸相辞職を勧告、これを受けて畑は16日に帷幄上奏を行い単独で辞表を奉呈した。米内は後任の陸相を求めたが陸軍三長官会議はこれを拒絶、これで米内内閣は総辞職に追い込まれた。

米内は退陣声明の中で「(前略)內外重要國務の遂行につき全力を舉げて努力し來たりたるも、陸軍大臣は近時の政情に鑑み辞表を提出したるにより(後略)」と、それが陸軍による倒閣に他ならないことを明確に述べているが、個人的には決して敵対する関係にはなかった畑陸相に対しては、その単独辞任が彼本人の意思ではないことをよく理解しており、その立場を最後まで崩すことはなかった。戦後極東国際軍事裁判においてA級戦犯被告となった畑がこの単独辞任について厳しく問われた際も、証人として2度にわたって出廷した米内は徹底して曖昧模糊な証言を繰り返して畑をかばい、検事を煙に巻いて畑を極刑から救っている。

米内に軍人としての理想像を見出していたと考えられる昭和天皇には、米内について言及した記録が多く残っているが、米内内閣が瓦解した際には木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していること、そして「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」命じていることや[2]、戦後も「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と悔いていたことが知られている[3]

閣僚[編集]

以下表中、「留」は前内閣からの留任(同じ大臣に再任)、また出身母体の「貴」は貴族院、「衆」は衆議院、「官」は官僚、「財」は財界、「研」は私的政策研究団体、「軍」は軍部、そして軍階級の「予」は予備役であることをそれぞれ示す。なお混乱を避けるため字体は新字体で統一した。

米内内閣
発足:1940年(昭和15年)1月16日
辞職:1940年(昭和15年)7月22日
国務大臣 閣僚 爵位 階級 出身母体 就任日 退任の背景
内閣総理大臣 米内 光政 予-海軍大将 軍-海軍 1940年(昭15)1月16日
外務大臣 有田 八郎 官-外務省、研-昭和研究会 1940年(昭15)1月16日
内務大臣 児玉 秀雄 伯爵 貴-研究会 1940年(昭15)1月16日
大蔵大臣 桜内 幸雄 衆-民政党 1940年(昭15)1月16日
陸軍大臣 畑 俊六(留) 陸軍大将 軍-陸軍 1940年(昭15)1月16日 帷幄上奏による単独辞任
 畑 俊六(前任者による事務取扱)  1940年(昭15)7月16日
海軍大臣 吉田 善吾(留) 海軍中将 軍-海軍 1940年(昭15)1月16日
司法大臣 木村 尚達 官-司法省、検事総長(→貴[4] 1940年(昭15)1月16日
文部大臣 松浦 鎮次郎 官-文部省枢密院 1940年(昭15)1月16日
農林大臣 島田 俊雄 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月16日
商工大臣 藤原 銀次郎 貴-研究会、財-王子製紙 1940年(昭15)1月16日
逓信大臣 勝 正憲 衆-民政党、官-大蔵省 1940年(昭15)1月16日
鉄道大臣 松野 鶴平 衆-政友会正統派 1940年(昭15)1月16日
拓務大臣 小磯 国昭 予-陸軍大将 軍-陸軍 統制派 1940年(昭15)1月16日
厚生大臣 吉田 茂 官-内務省、研-昭和研究会 1940年(昭15)1月16日
内閣書記官長 石渡 荘太郎 官-大蔵省[4] 1940年(昭15)1月16日
法制局長官 広瀬 久忠 官-大蔵省[4] 1940年(昭15)1月16日

政務官[編集]

国務大臣を補佐しつつ政府(内閣)と議会との連絡を取ることをその職掌とした、政務次官参与官の両政務官が置かれたのは1924年(大正13年)8月、護憲三派内閣の時だった。その後も内閣が変わるごとに時の政府が与党とたのむ両院の会派の中から若手の議員たちがこれら政務官に任用されていった。やがて五・一五事件二・二六事件を経て憲政の常道が崩れ中間内閣の時代が到来すると、一内閣における政党枠の大臣数は大幅に減った。するとこんどは大臣適齢期になった中堅の議員たちが、政務次官や参与官を大臣に次ぐポストとして垂涎するようになった。このため政務官は次第に両院議員たちの猟官運動の対象と化してゆき、やがてそれは有害無益なものではないかという批判までが起こるようになっていった。

政務官の任命は、通常は新内閣の発足後、数日から数週間程度の日を置いて行われた。またその退任も、次の内閣が発足してそのもとで新しい政務官が任命されるのを待って行われた。このため政務官の在任期間は日付上は二つの内閣にまたがるかたちとなる。しかし政務官はあくまでも政治任用官であり、その時々の政府が独自にこれを選任するので、その職責は彼らを任命した内閣が総辞職した時点で実質的に消滅した。前の内閣が任命した政務官は次の内閣発足後も暫時その職に留まるものの、基本的にその仕事といえば事務の引継ぎのみだった。

以下混乱を避けるため字体は新字体で統一した。

米内内閣政務官
内閣の発足:1940年(昭和15年)1月16日
政務官任命:1940年(昭和15年)1月24日
内閣総辞職:1940年(昭和15年)7月22日
政務官退任:1940年(昭和15年)7月25日
 
政務次官
政務次官 任用議員 爵位 出身母体 就任日
外務政務次官 小山谷蔵 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
内務政務次官 鶴見祐輔 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
大蔵政務次官 木村正義 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月23日
陸軍政務次官 三好英之 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
海軍政務次官 松山常次郎 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
司法政務次官 星島二郎 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
文部政務次官 舟橋清賢 子爵 貴-研究会 1940年(昭15)1月24日
農林政務次官 岡田喜久治 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
商工政務次官 加藤鐐五郎 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
逓信政務次官 武知勇記 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
鉄道政務次官 宮澤裕 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
拓務政務次官 松岡俊三 衆-政友会正統派 1940年(昭15)1月24日
厚生政務次官 一松定吉 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
 
参与官
参与官 任用議員 爵位 出身母体 就任日
外務参与官 小高長三郎 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
内務参与官 青山憲三 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
大蔵参与官 松田正一 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
陸軍参与官 宮崎一 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日
海軍参与官 小山邦太郎 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
司法参与官 高木正得 子爵 貴-研究会 1940年(昭15)1月24日
文部参与官 仲井間宗一 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
農林参与官 松木弘 衆-政友会正統派 1940年(昭15)1月24日
商工参与官 喜多壮一郎 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
逓信参与官 藤生安太郎 衆-政友会正統派 1940年(昭15)1月24日
鉄道参与官 大島寅吉 衆-民政党 1940年(昭15)1月24日
拓務参与官 加藤成之 男爵 貴-公正会 1940年(昭15)1月24日
厚生参与官 飯村五郎 衆-政友会革新派 1940年(昭15)1月24日

補注[編集]

  1. ^ 原田熊雄述『西園寺公と政局(原田日記)
  2. ^ 木戸幸一『木戸幸一日記』昭和十五年七月十四日条
  3. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』(文藝春秋1982年)P.319
  4. ^ a b c 退任当日の1940年(昭和15年)7月16日貴族院勅選議員に勅任。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年

外部リンク[編集]