日本の分割統治計画

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日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、第二次世界大戦終了後の日本本土連合国分割統治しようとした計画案。

ソ連は、北方領土北海道占領計画を持っており[1]、またアメリカもイギリス、ソ連、中華民国の連合国での分割統治する案を検討したが、結局、日本占領は分割占領でなくアメリカの単独占領となった[2]

日本占領計画案の経過[編集]

ブレイクスリー原則[編集]

国務省対外政策諮問委員会極東班のジョージ・H・ブレイクスリー(George Hubbard Blakeslee)が領土小委員会(PWC territorial group)に提出した1943年7月28日の「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」(General Principles Applicable to the Post-War Settlement with Japan:T-357)では、日本の領土については、満州を含む全軍事占領地、および民族自決の原則から朝鮮と台湾からの撤退が主張された[3][4][5]

1944年3月14日には、ブレイクスリー議長が起草した「戦後日本に関する米政府の目標」(The Postwar Objectives of the United States in regard to Japan (PWC108, CAC116)にはこうある[6][4]

  • 1.(領土) 日本は満州、委任統治諸島、軍事占領下の全地域より撤退し、朝鮮、台湾、第一次大戦後に獲得した全島も奪われる。
  • 2.(軍事)日本が米国と太平洋諸国にとっての脅威とならないようにする。そのために日本を武装解除し、軍事を監視し、経済をコントロールし、連合国の安全保障のために長期制限する。
  • 3(経済)略
  • 4(政治) 他国の権利と国際義務を尊重する政府を日本に樹立することが、アメリカの国益である。軍国主義から解放された新政府は、平和維持のための文民統制政府となる。よって(1)陸海軍から政治的特権を剥奪する、(2)新聞とラジオを通して、民主主義国と知的コミュニケーションの自由を確立する(3)節度のある政治分子を強化する
  • 5 (最終目的)太平洋地域での平和と安全のために、友好的な日本を、諸国民の家族の十分で平等な一員として復興する。

アメリカ合衆国の間接統治案(SWNCC150)[編集]

1945年6月、初期対日方針(SWNCC150)では、日本の行政機関を利用する間接統治方式が記された。

アメリカ合衆国の直接統治案[編集]

1945年8月8日、マッカーサ ー司令部のブラックリスト作戦は日本に対する直接統治を念頭においた[7]

アメリカ合衆国の分割統治案[編集]

一方、統合戦争計画委員会(JWPC)の日本領土に対する最終的占領案である政策文書 385/1 は日本を5つの地域に分割して統治する分割占領案を勧告していた[7][1]

SWNCC 70/5[編集]

1945年8月11日にアメリカ国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認し、8月18日にトルーマン大統領が承認した大統領宛覚書「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成(NationalComposition of Forces to Occupy Japan Proper to the Post-Defeat Period)」(SWNCC 70/5)で連合国による分割占領案が記載されている[2]。覚書SWNCC 70/5では、

C.. The United Kingdom, China and the Soviet Union have a responsibility to participate with the United States in the occupation and military control of Japan and the obligation to assume a share in the burden thereof.

と書かれており、連合国であるアメリカ、イギリス、中華民国、ソ連も日本の軍事占領に貢献する必要があるとされていた[2]

JWPC385/1[編集]

合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ

7月6日付の合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒによる短いメモ(JCS1398/2)には「日本を占領統治するなら、コストを節減し米軍は最小限にとどめるべきだ。米国が日本軍政に主な責任を負うべき理由はない」とあり、その影響でポツダム会談へ向かう代表団は、米軍負担の軽減化のため、連合国による日本共同占領案が高まり、日本降伏の翌8月16日に、ペンタゴンの統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee,JWPC)が起案した日本占領案「日本とその領土の最終占領(Ultimate Occupation of Japan and Japanese Territory)」(JWPC385/1)が成立した[8]。それによれば、

  • 占領開始期は、米国が単独で占領せざるを得ず、二十三個師団・八十五万人の米軍を投入する。組織的抵抗、反乱のため一年間は維持する。
  • 三ヶ月目からは、米軍を撤収させ、各国軍に占領させる。
    • ソ連:北海道、東北地方。
    • アメリカ:本州中央、関東、信越、東海、北陸、近畿。
    • 中華民国:四国。
    • イギリス:西日本(中国、九州)をそれぞれ統治
    • 東京は四カ国共同占領。
  • 一年後、各国兵力を半数以下に削減し、米軍は13万5千人程となる。

ソ連の北海道占領計画[編集]

ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして北方領土を占領することが認められていた[1]。しかし、 8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、北海道の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に求めた[7][1]

アメリカによるソ連北海道占領案拒否と単独統治(SWNCC70/5・150/3)[編集]

8月18日、トルーマン大統領は、スター リンの要求を拒否し、分割占領を回避することを勧告する国務省案である SWNCC70/5 を承認した[7][1]

8月22日、さらにトルーマン大統領は SWNCC150/3 を承認し、日本政府を介した間接統治方式を最終的に承認した[7]

なお、スターリンは8月23日に極東地域の日本軍捕虜50万人をシベリアに移送するよう命じた[1]

イギリス連邦占領軍による中国・四国統治[編集]

1946年2月にはイギリス軍オーストラリア軍ニュージーランド軍インド軍などのイギリス連邦占領軍(the British Commonwealth Occupation Force ,BCOF)が中国地方四国を統治した[9]

年表[編集]

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 荒敬『日本占領史研究序説』柏書房、1994.
  • 五百旗頭真『20世紀の日本3 占領期』(読売新聞社1997年)
  • 竹前栄治, 中村隆英監修『GHQ日本占領史』日本図書センター, 1996-2000

関連作品[編集]

小説
漫画
  • 百姓貴族 - 「作者荒川弘の出身地北海道が第二次大戦後にソ連やロシア領となっていたら」という設定で描かれる回が存在する。
テレビ
  • 「NHK特集 日本の戦後 第1回 日本分割 知られざる占領計画」1977年。
  • テレビ朝日「トップ・シークレット 救われた日本の分割占領」1985年4月30日放送
  • TBSテレビスーパーフライデー」特別企画「2000年の証言『天皇家そして妻たち 運命の岐路』」2000年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f エレ-ナ・L・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか』 社会評論社 2004年。戸松建二「第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題」おろしゃ会会報 第15号2008年4月30日愛知県立大学
  2. ^ a b c MEMORANDUM FOR THE PRESIDENT:NationalComposition of Forces to Occupy Japan Proper to the Post-Defeat Period,August 13, 1945.State Department Records Decimal File, 1945-1949 "740.00119 CONTROL (JAPAN)/18-1845" <Sheet No. SDDF(A)00444>アメリカ国立公文書記録管理局(RG59)。トルーマン「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成」(SWNCC決定)を承認 1945年8月18日 - 国立国会図書館「日本国憲法 資料と解説・第1」。
  3. ^ Post World War II Foreign Policy Planning, State Department Records of Harley A. Notter, 1939-1945 "600-T-357 Japan: General Principles Applicable to the Post-War Settlement with Japan" <Sheet No. YE5-21 600-T-357>,U.S. National Archives & Records Administration (RG59),“General Principles Applicable to the Post-War Settlement with Japan” T 357, 28 July 1943.National Diet Library.
  4. ^ a b 1-3 Fomulating the Postwar Policy on Japan in the U.S. Department of State,National Diet Library.
  5. ^ Dayna Leigh Barnes,Armchair Occupation: American Wartime Planning for Postwar Japan, 1937-1945,2013,The London School of Economics and Political Science.p55.
  6. ^ Japan: The Postwar Objectives of the United States in regard to Japan (PWC108, CAC116),March 14, 1944,State Department Documents of the Post-War Programs Committee, 1944 "PWC108 Japan: The Postwar Objectives of the United States in regard to Japan"<PWC-1, Roll No.2>,U.S. National Archives & Records Administration (RG59).
  7. ^ a b c d e 五百旗頭真『米国の日本占領政策』下、1986,pp216-227
  8. ^ Eiji Takemae,Allied Occupation of Japan,Continuum Intl Pub Group (Sd); Reprint版 (2003)p94-96.図はThe Occupational Dynamic.
  9. ^ British Commonwealth Occupation Force 1945–52,James Wood,THE AUSTRALIAN MILITARY CONTRIBUTION TO THE OCCUPATION OF JAPAN, 1945–1952,Australian War Memorial.2016年10月22日閲覧。(James Wood, The forgotten force: the Australian military contribution to the occupation of Japan 1945– 1952, Allen and Unwin, 1998.の抜粋)
  10. ^ a b c 滝田賢治「F.D.ルーズベルトの中国政策 : 第2次大戦期を中心とし て」一橋研究, 30: pp98-114,1975-12-15
  11. ^ 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 (PDF) (日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
  12. ^ Thomas T.Handy, General, G.S.C.,Acting Chief of Staff to General Carl Spaatz, Commanding General United States Army Strategic Air Forces: Memorandum on Japanese bombing ,WAR DEPARTMENT OFFICE OF THE CHIEF OF STAFF Washington 25, D. C.,July 25, 1945.「The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. 」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]