寛城子事件

寛城子事件(かんじょうしじけん)は1919年7月19日に満洲寛城子(長春内の行政区分)で発生した日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件[1]。長春事件とも呼称された[2]。
事件概要
[編集]日本側の森田在長春領事が、外相に送った報告によれば、以下の通り[3]。
1919年7月19日午前11時半、寛城子を通行中の南満州鉄道長春駅駅夫船津藤太郎が中国兵に故なく頭部を殴打され昏倒させられた[4]。これに遭遇した邦人から駐留部隊に報告されたことを受けて[4]、駐屯歩兵第53連隊第1大隊副官住田米次郎中尉が下士官兵数名を従えて[5]、中国軍混成第三旅第二団[6] 屯営に談判に赴き、松岡大尉の到着をもって中国軍在陣の営長と談判を行っていたところ、第二営の兵士等が事件を起こしたのではないかとされ第二営長に調査することを依頼し、第二営長が直に調査することを約したところ、孟奎魁団長(孟恩遠の甥)が帰営するとの報告があり、休憩のために営長が日本軍将校を天幕内に招き入れようとしたところ銃撃が始まったとされる[5]。
営長は銃撃を止めさせようとしたが銃撃は激烈になり、日中将校は四散した[5]。また、屯営付近に警備のために控えていた30名の日本軍将兵に対しても銃撃が加えられ突然の銃撃に死傷者が続出した[5]。このため、駐留日本軍は、応援部隊を送り中国軍との間に戦闘が開始された[7]。しかしながら日本守備隊約50名と中国兵約1,500名との間に行われたものであったため衆寡敵せざることとなった[8]。
事件により日本側に陸軍将兵以下17名、警察官1名の戦死者、将兵17名、民間人1名の負傷者が出たが、中国軍損害は日本側に比べて軽微とする説[9]、死者13名、負傷者20数名であったとする説等がある[10]。
事件当時、在長春日本領事館に来訪中であった高俊峯旅長等は事件の一報を受けて、日本領事館員等とともに自動車で現地に急行し、中国軍に対して射撃を中止せしめた[11]。その後、遺体収容中に再び射撃が始まると高俊峯旅長は絶対射撃中止命令を出して止めさせ、遺体収容できるよう中国軍を撤退させた[11]。森田領事は高士儐師長らとともに、20時には寛城子守備隊兵営に赴き、高俊峯旅長、斉藤大佐、林守備隊長、橋本警視等らとともに死体を検死、中国軍幕営付近で殺害された日本側の犠牲者は眼球をえぐり出され、耳を削がれ、顔面を切り刻まれるなどして惨殺されたことを確認した[11]。
これに対し、当時の中国側報道では、数人の中国兵が日本の遊郭に入ろうとして日本の巡査に遮られ争いとなり、中国兵が巡査を殺してしまい、兵営に戻れなくなり逃亡、日本軍100名が中国軍兵営にやって来て犯人引渡しを要求、対応しようと出て来た中国軍将校をいきなり射殺したため、衝突が起こったとするものもある[12]。また、この中国軍側兵営に日本兵が押しかけたことを侵入とし日本政府はこれを不問に付していると報じている外字紙もあり、日本側報道はこの点を含めて外字紙が捏造していると反駁している[13](日本も侵入であることは認めて不問にしているわけではない?)。
背景
[編集]日本は、日清戦争により領事裁判権を獲得、さらに中国のたびたびの抗議に関わらず居留民の保護・取締りを口実に、本来は疎開地等に限られるはずの領事警察権を主張、領事館警察を強化していった。さらに日露戦争により満州に利権を獲得すると満洲への日本人進出は激化、日本は権益・居留民の保護のために各地に領事館を設け、警察職員を配置していった。当時、中国に進出する日本人には不正行為に手を染めて儲けようとする、いわゆる不良日本人と称される、日本政府自身が認めるほど質の悪い者が多く、日本政府はこれも寧ろ取締のためとして警察職員を配備する口実としたが、警察職員自体も中国人に対し粗暴な行動を取ったり、積極的に不正を働く等、極めて質が悪い者が多い状態であった[10]。
こういった不良日本人や不良日本人警察官の存在が中国側の不満を高めていた。日本側の調査によれば、寛城子事件の前に中国兵が軍需品輸送のために中国人所有の車馬を徴発していた為、日本側官憲がそれをすれば日本人居留民の生活にまで支障が出るとして止めるよう警告、中国側が徴発を行わないと約したものの、事件の前日には日本人が雇用した馬車を軍の使用に供させようとする中国兵を止めた日本人巡査が暴行される事件が起きている。これらは日本がロシアから行政権を引継いだ満州鉄道付属地で起こったものであった為、日本側の行為は当時としては正当なものであったが、これにより日中双方に緊張感が高まっていた[10]。
もともと関東州では、日本は関東都督府が駐劄師団を率いて統治を行う一方で、しばしば満鉄付属地の外交権・警察権を領事館と争った。都督府長官は、現地で日本軍軍人の大将・中将が就き、組織上は外務省に属する領事ら外交官を満鉄付属地外について指揮命令できた。その一方で、都督府長官自体は、時期により首相に属することとされたり、外相に属することとされたりした。満蒙では、民間右翼の川島浪速が独自の勢力と人脈を築き、彼らは現地日本陸軍の一部と結んで孟恩遠・高士儐らの吉林軍を支持、外務省側は張作霖の奉天軍を支持して、しばしば対立していた。その後1919年4月、原内閣のもとで、これを解消するために都督府は関東庁として首相のもとに属することなり、駐劄軍は関東軍として満鉄と関東州の単なる守備に徹することとなった。また、張作霖と個人的な親交を築いていた田中義一が陸相となり、のちに関東軍軍司令官となる白川義則が張作霖に接近する等、一転して、日本陸軍中央・関東軍上層部は外務省とともに張作霖を支持、川島ら大陸浪人らが独自に吉林軍を支持する形となった[14]。
また、日本人官憲は問題があれば、本来、現地官憲との交渉を行うべきものであったが、しばしば、彼ら自身らで直に中国軍関係者と折衝したり、日本軍守備隊の力を頼み、その出動を依頼することも多かった。その日本軍守備隊も日本商人らと癒着・腐敗の目立つ質の悪いものであった[15]。このような日本軍の出動事例が従来からの慣行と称して横行する中、本来は鉄道警備・守備が任務で何ら現地行政に関与できないはずの日本軍守備隊が、職責外のことであるにもかかわらず、今度は領事等からの要請もないまま、いきなり個人間の殴った・殴られたという事件に自らの発意で出動し、事件が起きることとなった[10]。
謀略説
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当時、日本側では読売・報知等の新聞報道等で、現地満洲の在留邦人(実際には川島浪速らと思われる)からとして、陰謀論めくが下記のような謀略説がしきりに流されている。
北清事変(義和団の乱)による北京条約によって欧米諸国、日本は邦人保護のために中国に軍を駐留させていた。1916年8月13日には中国軍によって駐留日本陸軍将兵、警察官17名が死傷させられる鄭家屯事件が引き起こされていた[16]。寛城子事件勃発時における満州では張作霖(奉天軍閥)、孟恩遠などが権勢を誇り、中央と連携を図っていた張作霖が老齢の孟恩遠を圧倒しつつあったが、張作霖に屈するのを潔しとしない部下の働きかけなどにより孟恩遠は反抗運動を起こし、吉林省民たちもまた張作霖の専横に憤慨し中央の命令には従わない状況であった[7]。このため、孟恩遠は吉林省独立を宣言したが、張作霖は中央政府の命として討伐の声明を発したため、吉林軍は寛城子附近を中心として兵力を集中させていた[7]。これらの動きのもとで駐留日本軍は両勢力に対して友好的な姿勢を示していたが、両勢力からはそれぞれ自己に好意的であるとみなされていた[7]。一方、川島ら大陸浪人の宣伝に基づくと思われる日本人特派員の現地からの報道によれば、満洲在留邦人らは孟恩遠、張作霖間の確執に対して孟に善く張に悪しい感情をもっており、ことに張作霖が功を急ぐあまりに行う悪辣な手段が暴露されて行くにともない、孟恩遠への同情が集まって行っていたとされている[8]。
このような最中、吉林軍によって盛んに馬車の徴発が行われ、在留邦人の営業にも影響が出ていた[4]。7月17日に日本側は吉林軍に鉄道付属地域内においては徴発を行わないよう申し入れたところ、東清鉄道東路司令官旅長高俊峯は絶対に行わないよう約束したが、事件前日となる7月18日には吉林軍の兵は邦人に対して徴発を行い、これを阻止しようとした警察官を暴行し負傷させた[4]。被害にあった栗坪主一巡査は日本附属地域内東五条街で馬車の徴発を取り締まっていたところ中国兵4名から投石の上、集団暴行を加えられ、頭部を刀で3ヶ所に渡り切り付けられた[17]。しかし、もともと寛城子における日中両軍は将校が互いに往来し合う円満な関係であり、邦人警察官への暴行が行われた日も住田米次郎中尉は中国軍の幕営にて饗応されていた[6]。
張作霖による策略説
[編集]張作霖が吉林(孟恩遠)に対する日本の感情を激発しようと、栄順中将を密偵として長春に派遣し、吉林軍を買収して日本軍を射撃せしめたとする謀略説が相当な根拠あるものとして噂されていた[18][7]。さらに、張作霖の魔の手が事件を引き起こした軍に伸びていたのではないか[8]、南方派による指嗾によるものではないかとの噂がなされていた[8]。日本軍、中国軍いずれにおいても日本の吉林側への反感を煽るために張作霖がことを構えたとの疑惑がもたれたがその証拠は発見することができなかった[19]。なお、中国側の調査結果では在留邦人へ暴行を加えた兵隊および最初に発砲した兵隊は奉天からの間者ではなかろうかとされた[20]。
事件後
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日本では、寛城子事件の勃発により鄭家屯事件に続き中国兵が日本兵に勝ったとする見解が中国人を支配するようになれば、日本が侮られ日中交渉に差し障る懸念があるとされた[8]。帝国議会においては杉本誠三によって原敬首相に質問主意書が提出され政府の姿勢が追及された[21]。
国民党中央の北京政府は外交次長を日本公使館に派遣し小幡酉吉公使に陳謝の意を表して事の真相を調査の上で解決の方法を約すとした。また、事件の責任者である高俊峯旅長を罷免することとした[22]が、高俊峯旅長は命に服さず強硬な態度を示し馬賊になることなどを示唆した。[7]
もともと孟恩遠と張作霖には確執があり[23]、老齢の孟恩遠を支えていた有力な将官が高士儐・高俊峯の兄弟であったが、その高俊峯の罷免拒否により情勢は一気に緊迫化した。一部では、高士儐の吉林軍と張作霖の奉天軍との衝突も起きた[24]。北京政府も張作霖の勢力拡大は望んでいなかったが、経緯から高士儐・高俊峯を支援しにくい状況に立ち至った。結局、北京政府が黒竜江省から鮑督軍を送り込み、その調停を孟恩遠も受入れ[25]、ここに至って高士儐・高俊峯の兄弟も決起を断念した[26]。
張作霖は、自分に日本側との寛城子事件解決の交渉を任せること、そのために自身を奉天・吉林・黒竜江の三省の巡閲使とすることを北京政府に要求し、田中陸相等との関係も考慮されたのか、これに成功する[27][28]。日本側では機を捉えるに巧みな張がさらなる権限を握ろうと野望を進めるのではないかとの見方もあった[28]が、実際に張作霖はさらに巡閲使の権限拡大を北京政府に要求[29]、これも実現して張作霖はますます北京の中央政府も制御しがたい[27]、三省の王の如き権力を手中に収めることとなった[30]。
当初こそ「高俊峯の免職こそ北京政府の失態」[31]、事件を「張の所為歴然」[32]等としていた日本側の報道からも、この頃になると張作霖陰謀説は影を潜める。日本側の条件は、当初から(日本側の言い方によれば)この種の賠償要求で通常行われる領土割譲も利権要求もない、被害等への賠償だけの公明寛大なものであった[33]。最終的に賠償金2千元余で決着、新聞報道によれば1千元が医療及び損害で1千元が被害者慰謝料[34]、さらに別の報道によれば、個人賠償は、日本側官憲・兵士死傷者らへの賠償はなく民間の日本人被害者への賠償のみであったとされている[33]。関東軍の上層部と結んでいた張作霖が漁夫の利を得るようにして決着する形となった事件であったが、この日本側が言うところの寛大な和解内容でも張との交渉はそれなりに難航している。それは主に、巡閲使である張作霖が謝罪する形式をとるかどうかという点についてであった[35]。
その後の展開
[編集]日本軍軍兵を贄にするような形で、事態を吉林軍と日本軍の争いとみれば張作霖が漁夫の利を得、吉林軍と張作霖の奉天軍の争いとみれば日本軍上層部の思惑が通ったかのように思える事件であったが、この後も、張作霖は日本軍上層関係者の協力を得て、奉直戦争、郭松齢事件に勝利、勢力をますます強めていく[14]。一方、満鉄の守備隊に徹するはずであった関東軍は現地勢力の争いに介入・勝利したことや陣容の強化によって次第にその力に自身を持つようになり、さらに、その後の統帥権の独立によって寧ろ日本政府からフリーハンドを獲得する形となっていく[14]。しかし、若手将校らと張作霖との強い関係は構築されず、将校らが出世していくに連れ、また関東軍の力・威信が増すに連れ、満州の支配強化・利権獲得を目論む現地関東軍関係者は日本政府・陸軍中央の意向も無視し、張作霖排除を目論み、その爆殺へと突き進んで行くことになる。
事件殉職者
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注
[編集]中国軍の部隊名称は日本軍・自衛隊と異なり以下がそれぞれに相当する。
参考文献
[編集]- 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻 外務省
- 寛城子事件公文増補 日本の公正寛大を感謝 (北京特電二日発) 大阪毎日新聞 1919年10月4日
- ^ p976 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ p986 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ “taisho8_22_07.pdf”. 外交史料館. 外務省. pp. P.977~. 2026年1月21日閲覧。
- ^ a b c d p978 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ a b c d pp978-979 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ a b p991 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ a b c d e f “寛城子事件”. 報知新聞. 神戸大学 (1919年7月28日). 2026年1月27日閲覧。
- ^ a b c d e 在奉天 松宮幹樹 (1919年7月29日). “寛城子事件 (上・下)帝国の対応策如何”. 大阪毎日新聞. 神戸大学. 2013年2月13日閲覧。
- ^ a b pp980-981 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ a b c d “寛城子事件に至る在華日本領事館警察の 自国民保護の実像”. 島根県立大学. 2026年1月5日閲覧。
- ^ a b c p980 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ 「支那紙の寛城子事件報」『朝日新聞』1919年7月27日、朝刊。
- ^ 「支那政府諒解 寛城子事件交渉外字紙の誣告」『朝日新聞』1919年9月15日、朝刊。
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- ^ 「軍隊の腐敗 長春駐屯の彰晃主計等 商人と結託して不正事」『朝日新聞』1919年2月14日、朝刊。
- ^ pp635-636 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正5年(1916年)第2冊
- ^ p1039 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ 「張の所為歴然」『朝日新聞』1919年7月27日、朝刊。
- ^ p992 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ p988 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻
- ^ 官報 号外大正九年二月四日
- ^ 「寛城子事件総統令 責任者罷免」『朝日新聞』1919年7月25日、朝刊。
- ^ 「寛城子事件調査」『朝日新聞』1919年8月5日、朝刊。
- ^ 「吉奉戦闘開始」『朝日新聞』1919年7月26日、朝刊。
- ^ 「鮑督軍の来長」『朝日新聞』1919年8月6日、朝刊。
- ^ 「高士儐泣く」『朝日新聞』1919年8月6日、朝刊。
- ^ a b 「張作霖の強要」『朝日新聞』1919年7月25日、朝刊。
- ^ a b 「張作霖拗ねる」『朝日新聞』1919年9月21日、朝刊。
- ^ 「張作霖の要求 巡閲使の権限拡張」『朝日新聞』1919年9月27日、朝刊。
- ^ 「寛城子交渉難 張作霖の倨傲」『朝日新聞』1919年10月6日、朝刊。
- ^ 「北京政府の失態」『朝日新聞』1919年7月27日、朝刊。
- ^ 「張の所為 歴然」『朝日新聞』1919年9月27日、朝刊。
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- ^ 「寛城子事件解決内容」『朝日新聞』1919年12月15日、朝刊。
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