汪兆銘狙撃事件

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汪兆銘狙撃事件(おうちょうめいそげきじけん)は、1935年11月1日中華民国首都南京中華民国政府汪兆銘行政院長が、国民党左派広東系の犯人グループによって狙撃され重傷を負った暗殺未遂事件[1]

動機[編集]

汪兆銘(前列左)と蒋介石(同右)
国民党中央党部

汪兆銘行政院長による対日外交に対し極度に憤懣を持った者たちによって犯行計画がなされ、そして直接行動が採られることとなった[1]。実行犯となる26人はそれぞれピストルを携行し通信記者として厳重警戒化の第六次全体会議に入りこんだ[2]

経過[編集]

1935年11月1日、中国国民党中央執行委員会zh)第六次全体会議[3]開会式終了後の午前9時半に林森中華民国政府主席zh)、蒋介石国民政府軍事委員会委員長zh)、汪兆銘行政院長閻錫山張学良を始めとする国民政府中央委員が中央党部大礼堂前広場に集まり記念撮影を行っていたところ、汪兆銘の背後からピストル十数発が撃ち込まれ3発が命中した[4]

汪兆銘は即死を免れたが、この時、背中に撃ち込まれた銃弾は摘出することができず、汪を生涯に渡り苦しめた。そして、最終的に、9年後の1944年に汪を死に至らしめることとなる[4]

銃撃後逃走を図った犯人らはその場で取り押さえられ、国民党左派広東系で元十九路軍zh)小隊長だった通信社記者の孫鵬明や、同じく広東系の実業部政務次長郭春擣等27人が逮捕された[4][2]

事件後、警察及び憲兵隊は孫鵬明の所属する晨光通信社を包囲したが、すでに社長以下全員は書類を焼却するなどした後に逃亡していた[2]。焼け残った書類の中からは共産党伝単が発見された[2]

影響等[編集]

狙撃事件以降、蒋介石・汪兆銘合作政権による対日親善外交は破局へ向かっていった[5]。事件当日正午に国民政府は緊急集会を開き財政部長孔祥熙を臨時行政院長に任命した[1]。事件発生とともに上海公債市場には次の行政院長がインフレ政策を採るとする噂から不安が広がり、立ち会い中止措置が取られる事態となった[6]11月2日、上海の銀行には群衆が押し掛け取り付け騒ぎが起きた[6]11月3日、国民政府は緊急協議を行った。そして、銀の保有を禁ずる銀国有令、鉄道を担保にイギリスから1000万ポンドの借款を受けることなどの財政金融政策が、孔臨時行政院長により発表された[7]

日中提携に関心を持っていた汪兆銘が狙撃されたことや、その後に孔祥熙によって打ち出されたイギリスからの借款は、中国の自力更生による財政経済政策を勧奨してきた日本の外務当局に衝撃を与え外交政策の変更を迫ることとなった[8]

11月9日、十九路軍の支援を受けていた秘密結社同義協会によって中山水兵射殺事件が引き起こされ[9]12月25日には日中関係改善に務めていた唐有壬zh)前外交部次長が上海フランス租界で暗殺された[10][11]1936年9月3日には広東省北海で日本人商店主が十九路軍の指導の下で殺害される北海事件が起き[12]9月23日には上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が引き起こされるなど[13]知日派や日本人へのテロが続発し日中関係は悪化していった[5]12月12日西安事件以降、蒋介石は抗日路線を採るようになり日中は全面対立に向かっていった。

1938年に蒋介石と意見を異にした汪兆銘は重慶を脱出し、フランス領インドシナハノイに拠点を移した。1939年1月アモイで汪兆銘の甥沈次高が拳銃で射殺され[14]3月21日にはハノイの汪兆銘の寓居に侵入した4名の刺客が乱射した銃弾によって秘書の曾仲鳴が射殺された[15]。その後、ハノイを脱出し、上海を経て日本を訪問すると平沼騏一郎首相有田八郎外相板垣征四郎陸相らと会談を行い中央政権樹立による時局収拾案を提案するなど精力的な活動を行った[16]1940年3月30日、汪兆銘は南京に新政権を樹立すると、11月30日日華基本条約日満華共同宣言を成立させるなど日中提携に尽力した[16]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 動機は対日外交反対派の暴挙と判明 政局に一大暗影を投じたが蒋、汪合作却って強化 汪氏狙撃事件の波紋”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年11月2日). 2011年10月31日閲覧。
  2. ^ a b c d 犯人全部捕わる 支那人通信記者らの一味女も交えて二十七人”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年11月2日). 2011年10月31日閲覧。
  3. ^ 児島 1988a, p. 191
  4. ^ a b c 児島 1988a, p. 192
  5. ^ a b 上海時代―ジャーナリストの回想〈中〉 紀伊国屋書店
  6. ^ a b 児島 1988a, p. 193
  7. ^ 児島 1988a, p. 194
  8. ^ 一切の対支援助この際停止の外なし 暴露した支那の正体 外務当局大いに憤慨 英支借款成立とわ”. 大阪毎日新聞. 神戸大学 (1935年11月5日). 2011年10月31日閲覧。
  9. ^ “中山兵曹射殺事件の真相 "蒋政権打倒" 目ざす同義協会の抗日沙汰 首魁は楊文道、犯人は楊海生 背後関係とその動機”. 同盟通信,神戸新聞 (神戸大学). (1936年7月13日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10065534&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 2011年10月31日閲覧。 
  10. ^ 居留民団長らと朗らかな交歓 法人の活躍振りを聴く上海 本社日支国際電話の第一声”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年2月16日). 2011年10月31日閲覧。
  11. ^ 児島 1988a, pp. 199-200
  12. ^ 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期II第1部 第5巻 上巻. p. 570-580. 
  13. ^ 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期II第1部 第5巻 上巻. p. 656. http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DS0002/0007/0001/0006/0003/0003/index.djvu 2011年10月31日閲覧。. 
  14. ^ 児島 1988b, p. 196
  15. ^ 児島 1988b, p. 203
  16. ^ a b 特別展示「日中戦争と日本外交」IV 汪兆銘工作 概説と主な展示史料 外務省

参考文献[編集]

関連項目[編集]