ロバート・アイケルバーガー
表示
この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2020年6月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
ロバート・アイケルバーガー Robert Lawrence Eichelberger | |
---|---|
ロバート・アイケルバーガー | |
生誕 |
1886年3月9日 オハイオ州アーバナ |
死没 |
1961年9月25日(75歳没) ノースカロライナ州アッシュビル |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1909 - 1948 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
第8軍司令官 第1軍団司令官 第77歩兵師団長 |
戦闘 |
第一次世界大戦 シベリア出兵 第二次世界大戦 *ブナ・ゴナの戦い *ビアク島の戦い *レイテ島の戦い *ルソン島の戦い *ビサヤ諸島の戦い *ミンダナオ島の戦い |
ロバート・ローレンス・アイケルバーガー(Robert Lawrence Eichelberger, 1886年3月9日 - 1961年9月25日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。
退役後に大将まで昇進した。
著書に『東京へのいばらの道』がある。
概要
[編集]太平洋戦争において設置された合衆国陸軍第8軍の初代司令官となり、第8軍による対日戦および日本占領を指揮する。離任前には日本の再武装を主張し、民政局や極東委員会と対立。在任中には再武装には至らなかったものの、海上保安庁の設置を実現させる。
直属上官である最高司令官ダグラス・マッカーサーと表立っては対立しなかったものの、マッカーサーを辛辣に批判する日記が遺されている。
経歴
[編集]- 1909年6月 陸軍士官学校卒
- 1918年9月~1920年4月 米シベリア遠征軍に情報将校として参加
- 1921年8月~1924年8月 陸軍省参謀本部陸軍情報局、ワシントン会議に中華民国代表補佐として出席
- 1935年7月 参謀本部事務長(転任当初の参謀総長はダグラス・マッカーサー)
- 1940年10月 陸軍士官学校長
- 1942年1月 第77歩兵師団長
- 1942年7月 第1軍団司令官
- 1942年8月 オーストラリアのブリスベンの南西太平洋地域総司令部へ赴任
- 1942年12月 東部ニューギニアのブナへ派遣。翌年1月、ブナ奪取に成功する。その後、ニューギニア戦、南西太平洋諸島での戦闘を指揮(→ブナ・ゴナの戦い)
- 1944年9月 第8軍司令官、ルソン島の戦い、レイテ島の戦い、南部フィリピン戦を指揮
- 1944年10月 陸軍中将に昇格
- 1945年8月30日 日本に進駐
- 1948年9月 離任・帰国
- 1949年1月 退役
- 1954年7月 大将に任ぜられる
- 1961年9月 ノースカロライナ州のアシュビルにて死去、アーリントン国立墓地に埋葬される
栄典
[編集]逸話
[編集]- 日本の占領期には、マッカーサーに次ぐ占領軍のナンバー2であった。温厚な人柄で日本政府からの信頼も厚く、マッカーサーとの交渉が難航した際にアイケルバーガーが間に入る「アイケルバーガールート」が機能したとされる。
- 片山内閣の芦田均外相が、終戦連絡横浜事務局長鈴木九萬を通じてアイケルバーガーに送った「芦田メモ」には、日本の安全保障を米国に委ねる旨が記されており、日米安保体制の原型となった。[1]
- 国鉄においてアイケルバーガー将軍用専用客車として、御料車十号車、御料車十一号車、マイネ38 1、スイロネフ38 1、マイロネ38 1、スハニ33 13が指定されていた[2]。
- 1947年、地方巡幸中の昭和天皇を乗せたお召し列車と、アイケルバーガー中将を乗せた連合軍専用列車が碓氷峠で行き違いをすることになり、RTO(Railway Transportation Office)の命令により、お召し列車側が5分間退避させられたというエピソードがある。
- 軽井沢滞在中、洋画家の荒井陸男を訪ね肖像画を描かせたと伝えられる[3]。
出典
[編集]- ^ 日米安保『原型』芦田メモ 「米本国要人へ伝達」の証言記録 定説覆す可能性-THE SANKEI NEWS
- ^ 「第六編.客車 第一章.客車指定、解除及び取扱 11.アイケルバーガー将軍用専用客車指定」『連合軍旅客列車及び專用客車取扱手續竝びに関係達示類集 昭和23年6月5日現在』1948年6月5日、109頁。doi:10.11501/1352269 。
- ^ “『日本美術年鑑』昭和48年版(81頁)”. 東京文化財研究所 (2014年). 2022年8月31日閲覧。