誤謬
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偽情報と誤情報 |
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論理的な誤謬(ごびゅう)あるいは虚偽(きょぎ)(英: Fallacy[注 1])とは、推論の過程における論理的な誤りや間違い[2]。または、誤った推理(推論)そのものを指す[3]。論理的誤謬においては、誤った論理展開、根拠のない主張、妥当性を欠く推測、裏付けのない議論や結論などが、意図的または非意図的に利用される[4]。その内、前者の行為を指して「詭弁」という[5]。
概説
[編集]誤謬に関する体系的な研究は、アリストテレスの『詭弁論駁論』より始まった[6]。そこで彼は誤謬を、「言語上の虚偽」(言語表現に基づくもの)と、「言語外の虚偽」(言語表現に関わらないもの)に大別し、その分別のもと具体的に13種類の誤謬を列挙している[7]。アリストテレスは、三段論法の理論において、見かけ上は三段論法であっても実は正しくない議論はすべて機械的に発見することができるとしていた[8]。しかし、三段論法の論証で使用される論理記号は曖昧性がなく、形式体系にかなうものだが、実際の議論は自然言語を用いるために曖昧さが存在する。論者の正しさの立証を目的とする意見の対立がある議論や、日常の話し合いにおける判断などは、数学的(記号・形式的)な論理体系を基準に分析することが通常望ましくない[9]。そのため、論理体系の研究を主とするアリストテレス以来の伝統的な論理学に加えて、現代では自然言語を用いた議論を対象とする非形式論理学の研究が進められ、言語学(語用論等)や議論学など他の学術分野の成果の応用もなされている。こうした論理学の発展に伴い、多くの誤謬が新たに特定され、その内容や分類体系も多様化していった。
広く認知されている具体的な誤謬については「誤謬の一覧(List of fallacies)」を参照。
誤謬の分類法
[編集]各誤謬の分類方法は論者によって異なり、学術的な合意は得られていない[6]。
分類の考え方の一つとして、論理的な推論規則に瑕疵があるものか、それ以外かで分ける方法がある。その代表的なものが、「形式的誤謬(虚偽)」と「非形式的誤謬(虚偽)」である[6][10][11]。近藤洋逸と好並英司は、「演繹論理についていえば」虚偽は推理規則に反する「形式的虚偽」とその他の「非形式的虚偽」に分けられ、「非形式的虚偽」がさらに「言語上の虚偽」と「言語外の虚偽」とに分けられると整理している[12]。太田莞爾は分類の基準を「論理的虚偽にもとづく非妥当推理」か「非論理的理由から結果として論理的虚偽を生じさせているもの」かに定め、前者に該当する「形式的虚偽」、後者に該当する「言語的虚偽」及び「資料的虚偽」の三種に分類している[13]。足立幸男は「論証のあり方という観点」から、論理学的規則に違反する「論理的虚偽」と論理学的規則をどれ一つ犯していない「無論理的虚偽」に分類した[14]。
他方に、誤謬同士の類似性において分類する考え方がある[6]。T・エドワード・デイマーは「優れた議論(good argument)」の規則に反するという観点から、誤謬を「構造性の基準」「関連性の基準」「許容性の基準」「十分性の基準」「反論の基準」のどれかに違反するものとして五種に分類している[15]。塩谷英一郎はクリティカルシンキングにより回避すべき誤ちという観点から、誤謬を「論理的な誤り」「帰納法関係の誤謬」「因果関係理解の誤り」「用語選択の誤り」「論点ずらし」の五種に分類している[16]。「前提の誤謬」など議論の構成要素で誤謬を分類する立場もある[17][18]。
その他の独自の分類法としては、フランシス・ベーコンの「イドラ」が有名である。ベーコンは著書『ノヴム・オルガヌム』において、(誤謬自体ではなく)各誤謬を導く論者の認識論上の問題として「イドラ」を提唱し、それを四種に分類している[19]。
形式的誤謬
[編集]論理学において、「形式的誤謬」 (formal fallacy) あるいは「論理的誤謬」 (logical fallacy) とは、推論パターンが常にまたはほとんどの場合に間違っているものをいう。これは論証の構造そのものに瑕疵があるために、論証全体として妥当性がなくなることを意味する。一方、非形式的誤謬は形式的には妥当だが、前提が偽であるために全体として偽となるものをいう。[要出典]
誤謬という用語は、問題が形式にあるか否かに拘らず、問題のある論証全般を意味することが多い。[要出典]
演繹的主張に形式的誤謬があっても、その前提や結論が間違っているとは言えない。どちらも真であったとしても、結論と前提の論理的関係に問題があるため、論証全体としては誤謬とされる。演繹的でない主張であっても形式的誤謬が内在することはありうる。例えば、帰納的主張に確率や因果の原理を間違って適用することも形式的誤謬に数えられる。[要出典]
形式的誤謬の例
[編集]前件否定の虚偽
[編集]- A「自分がされて嫌なことは、人にもするな」(黄金律)
- B「なら自分がされて嫌でなければ、人にしても良いんだな」
Aの発言に対するBの返答は「XならばYである。Xでない、故にYでない」という形式であり、前件否定の虚偽と呼ばれる。これは「ある命題が真であるとき、その裏(前件・後件をそれぞれ否定形にした命題)もまた真である」と誤って推論する論理的誤謬である。
前件は、後件が真であることの十分条件かもしれないが、必要条件ではないかもしれない[20]。例えば「鍵を持っていれば施錠された家の中に入れる」が真だとしても、鍵を持っていることが施錠された家の中に入るための唯一絶対の条件というわけではない。上記の形式の推論は、前件と後件が論理的に同値(双条件)である場合のみ成立する為、恒真命題ではない。
この誤謬は、仮言三段論法の誤用としても見られることがある。例えば
- 「もしAがBならば、AはCである」
- 「しかしAはBでない」
- 「故にAはCでない」
この推論は、「AがBならば」という仮定をX、「AはCである」という結論をYと置いたとき、「XならYである。Xでない、故にYでない」という前件否定の虚偽に該当する。仮言三段論法においては、大前提の前件を否定したとしても、それによって後件を否定することにはならないという論理規則が成り立つ[21]。上記の推論は、前件の否定を論拠に後件の否定を導いているため、これに反している。
後件肯定の虚偽
[編集]- A「対象について無知ならば人は恐怖を感じる。つまり、対象に恐怖を感じたならばそれに対して無知だということだ」
Aの発言は「XならばYである。故にYであればXである」という形式の推論であり、後件肯定の虚偽と呼ばれる。これは、「ある命題が真であるとき、その逆(前件と後件を入れ替えた命題)もまた真である」と誤って推論する論理的誤謬である。
後件が成立するためには、前件以外にも十分条件が存在するかもしれない[22]。仮に「対象について無知ならば、人は恐怖を感じる」という命題が真であったとしても、恐怖を感じる要因はその他にも複数存在するため、それを論拠として「対象に恐怖を感じたなら、それに無知だということ」という結論を導き出すのは論理的な誤り(逆は必ずしも真ならず)。上記の形式の推論も、前件と後件とが論理的に同値の場合のみ成立する為、恒真命題ではない。
媒概念不周延の虚偽
[編集]- A「頭の良い人間は皆、読書家だ。そして私もまた、よく本を読む。だから私は頭が良い」
Aの発言は「すべてのXはYである(全称命題)。ZもYである。故にZはXである」という形式の三段論法で、これは論理学で媒概念不周延の虚偽と呼ばれる。命題において、概念が適応される全ての対象について論及されている場合、その概念は「周延をもつ」とされる。逆に、含まれる全ての対象について論及していないなら、その概念は不周延である[23]。上記の例でいえば、「頭の良い人間」と「私」をつなぐ概念「読書家」(媒概念あるいは中項)は、「読書家の中には頭の良くない人もいるかもしれない」事実によって前提命題において不周延であり、よってこの推論は誤りである。
形式的には、大前提を「頭の良い人間の集合は、読書家という集合の部分集合である(X ⊆ Y)」、小前提を「私は読書家の集合の要素である(Z ∈ Y)」と表した場合、結論の「私は頭の良い人間の集合の要素である(Z ∈ X)」が必ずしも導き出せないことから、恒真命題ではないと説明できる。
媒概念曖昧の虚偽 (四個概念の虚偽)
[編集]Aの発言は「MはPである。SはMである。故にSはPである」と一見第一格の三段論法に見えるが、文脈によって異なる意味を持つ単語を媒概念に使用しており、「大前提M-Pの文脈におけるM」と「小前提S-Mの文脈におけるM」が異なるため、命題は成立しない。
「車(自動車)は運転免許が必要な乗り物だ。自転車は車(車両)である。ゆえに自転車は運転免許が必要な乗り物だ」という時、大前提における「車」と小前提における「車」は異なる二つの概念であり、他の概念を媒介することは出来ない。これは形式上「定言三段論法には三個の概念が必要であり、かつ三個に限られる」という論理規則を破っているため、四個概念の虚偽とも呼ばれる[25]。
選言肯定の虚偽
[編集]Aの発言「X または Y である。X である。故に Y ではない」は、一見、選言三段論法の形式のように見えるが、選言肯定の虚偽に該当する誤推論である。選言三段論法には「選言肢の一方を肯定しても、それによって必ずしも他方を否定することにはならない」という論理規則が成り立つ[26]。これに反するものが選言肯定の虚偽であり、上記の推論は、「天才」(選言肢の一方)であることを論拠として「狂人」(選言肢の他方)ではないとの結論を導いていることから誤りである。「天才」と「狂人」という概念は必ずしも相反するものではない。
合接の誤謬
[編集]「Aさんは知的で、社会運動にも熱心な女性だ」という情報を前提としたとき、「Aさんは銀行員である」という情報よりも、「Aさんは銀行員で、フェミニストである」という情報をより確からしいと判断してしまう様な誤り。ある前提を踏まえて A という推論と A & B という推論を提示したとき、成立条件の少ないA の方が可能性が高いにも関わらず、A & B の方が可能性が高いと誤判断してしまうような論理的な誤りを指す。
形式的には、2つの事象AとBについて、 and (事象A,Bが同時に起こる確率は、事象A,Bそれぞれが起こる確率よりも常に小さいか等しい)のように書くことができるような問題への誤判断。「K氏が関西弁をしゃべるとき、彼が大阪出身である確率と、大阪出身で阪神ファンである確率はどちらが高いか」[27]。
非形式的誤謬
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非形式論理学において、「非形式的誤謬」 (informal fallacy) とは、論証における推論に何らかの間違いのある論証パターンを指す。形式的誤謬のように数理論理学的に論理式で表せる誤謬ではなく、自然言語による妥当に見える推論に非形式的誤謬は存在する。演繹における非形式的誤謬は妥当な形式でも言外の前提によって発生する。つまり、演繹における非形式的誤謬は一見して妥当に見え、その主張自体は健全に見えるが、隠された前提に間違いがある。[要出典]
帰納的非形式的誤謬は全く違ったアプローチが必要であり、論証に含まれる推計統計学的な部分が問題となる。例えば、「早まった一般化」の誤謬は以下のように表される。[要出典]
- s は P であり、かつ s は Q である。
- 従って、全ての P は Q である。
これにさらに前提を追加すると次のようになる。
- 任意の X と 任意の Φ について、X が P でありかつ X が Φ なら、全ての P は Φ である。
このようにするとこの主張は演繹的となり、これが誤謬なら、追加された前提は偽である。このような手法は帰納と演繹の違いを無くす傾向がある。推論の原則(演繹的か帰納的か)と論証の前提を区別することは重要である。[要出典]
非形式的誤謬の例
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無知に訴える論証
[編集]- A「B氏は地底人がいないと断言している。しかし、その証拠はないので地底人はいることになる」
Aの発言は、「XがYである(またはYでない)という証拠がない。故にXはYでない(またはYである)」という形式の推論で、これは無知に訴える論証という誤謬である。「証拠がない」ことを論拠として結論を導出する誤謬で、相手が証拠を提示できない、ないしはそうすることを拒絶するからといって、主張の真実性(あるいは虚偽性)を主張する手法もこれに含まれる[28]。
いかなる主張の立証責任も、それを主張した論者の側にある(立証責任の原則)[29]。しかし、無知に訴える論証では、この責任を放棄し、逆に相手に責任を転嫁する特徴がある[28]。そして、立証責任の原則に従わない推論においては、証拠がないことを根拠に物事を証明することはできない。これは「A氏は地底人がいると断言しているようだが、その証拠はない。つまり地底人はいない」という一見すると常識的な論証についても同様である。もし「それが間違っている(いない)ことは証明されていない。だからそれは正しい(くない)」という論証が有効であれば、部屋のなかにいるだけでありとあらゆるものごとが証明可能になってしまう[30]。「あのタレントが不倫していないという証拠はない(あるいは十分でない)。つまり不倫している」等々。
ただし、刑事裁判においては、無知に訴える論証の誤謬とは異なる原則が適用される。刑事裁判では、検察官にのみ立証責任があり、被告人はその責任を負わない。もし検察側が法廷に対し被告人が罪を犯したと確信するに足る証拠を挙げることができなければ、被告人は無罪であるとする推論が成立する(無罪推定の原則)。これは事実認定において事実の存否が明確にならないときには、常に「疑わしきは罰せず」という被告人に有利な裁定が適応されるためである。
隙間の神
[編集]- A「この現象は科学では説明できない。だから神の仕業としか考えられない」
- 無知に訴える論証の類型。科学的に説明できない現象を、それが説明できないという事実によって神の存在の証拠とする論証である。創造科学やオカルト的な主張で用いられる。神が存在する(あるいは存在しない)ことの立証責任は、科学の側でなく主張した論者の側にある。
軽率な一般化(早まった一般化)
[編集]- A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ」
量的に不十分なサンプルによってその事例が属する集合全体の一般命題を定立したり、母集団を代表し得ない偏ったサンプルによって一般化を行うような誤りのことを軽率な一般化または早まった一般化という[31]。帰納推論(特殊から一般を導く推論)において生じる誤謬。この誤謬の核心は、統計的推論上のサンプリングによる一般化プロセスに瑕疵がある点にある。
上記のAの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしている。すなわち、「ある男は暴力を好む」という事例が複数個得られたことを根拠に、暴力を好まない男は存在しない(「すべての男は暴力的である」)という全称判断を性急に引き出してしまう誤りを犯している。このAの結論に反証するためには、根拠に反する事例、すなわち暴力を振るわない男のサンプル(ある男は暴力的でない)を示すだけでよい。
チェリー・ピッキング
[編集]- A「我が社が導入した新しいマーケティング戦略は、間違いなく大成功ですよ。先月実施した顧客満足度調査では、首都圏の20代から30代の顧客層に限って見ると、満足度が驚異の90%を超えているんです」
- 軽率な一般化と関連のある誤謬。軽率な一般化の一形態と見なす立場もある[31]。望ましい結論のために都合の良い肯定的事例にのみ注目し、否定的事例や矛盾する事実を無視または軽視するような論理的誤謬を指す[31]。特定の結論を支持する一部のデータや事例のみを提示することで、結論の妥当性を高めることを目的する。
合成の誤謬
[編集]個別的に存在する性質を、それが属する集合全体についても主張する論理的な誤りを合成の誤謬と呼ぶ[31]。論理構造としては「全体Wを構成するそれぞれの部分PやTは、性質Xを持っている。従って、全体Wも性質Xを持っている。」という形式の誤推論である。この誤謬の核心は、 部分の性質はそのまま全体に移行可能である(あるいは単純に合計できる)という誤った仮定に基づいて論証を行っている点にある。
「軽率な一般化」と「合成の誤謬」は集合全体に対する推論から生じる類似した誤謬である。両者の違いは、前者が一般化プロセスにおける「根拠の不十分さ・偏り」に起因するのに対し、後者は全体における「部分同士の関係性を無視する」ことに起因する[32]。上記のAの発言は「物質の性質は原子の種類だけでなく、分子構造や原子同士の結合様式(関係性)によって大きく変化する」事実を無視しているため、誤った結論を導出してしまっている。他にも、「君はXを食べるのが好きで、Yを食べるのも好きだから、XにYをのせて食べるのも好きに決まっている」といった推論が必ずしも成り立たないのも、要素間(食べ物同士)の相性という関係性を無視しているためである。
なお、「合成の誤謬」という語自体は他の学術分野でも広く用いられている。経済学においては、個々の消費者や企業の行動(ミクロ経済)において成立する法則や最適な行動が、必ずしも経済全体(マクロ経済)で同じように働くとは限らない、という論点を説明する際にこの用語が使われる。著名な例としてコモンズの悲劇を参照。社会科学や複雑系の研究では、還元主義的なアプローチ、すなわち個々の要素を細かく分析するだけでは全体の振る舞いを正確に予測できないという論点を説明する際に用いられる。著名な例としてフリーライダー問題を参照。
分割の誤謬
[編集]- A「X国のGDPは高い。だからX国民は経済的に豊かだ」
- 集合全体が持つ性質を、それに属する部分や個々の要素についても主張する論理的な誤りを分割の誤謬と呼ぶ[31]。合成の誤謬の反対。演繹推論の論理構造(一般→個別)に類似した形式を持つ誤謬である。
- 上記の例でいえば、前件「GDP(国全体の経済活動の規模を示す指標)は高い」が真であるとしても、全体における部分1%が圧倒的に豊かである等の複数の原因が想定し得るため、それを論拠として必ずしも国民全てが豊かであるとの結論は導き出せない。
論点先取(先決問題要求の虚偽)
[編集]- A「Bさんは正直者なんだから、ウソを言うわけないじゃないか」
Aの発言には、一見すると結論の裏付けとなるものが存在する。しかし、その前提(「正直者」)は、その真実性に対してまだいかなる証明もなされていない不当なものであり、実際には結論の裏付けとして機能し得ない。このように、見掛け上は論証の形になっていても、証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われているような推論を、論理学では論点先取(begging the question)と呼ぶ。この誤謬が問題となるのは、論証の基盤となる前提がすでに一般的承認を得たものとしてなんらの証明もなしに自明とされている点にある[33]。我々はそのような前提に対して、まずは論証を求める権利があるため、論点先取は先決問題要求の虚偽とも呼ばれる[34]。
なお「論点先取」は、不当な前提を採用した論理的誤謬一般を包括する語としても用いられる(論点先取(窃取)の虚偽)[34][35]。
J・S・ミルは『論理学体系』(1843年)において三段論法を批判するにあたり、従来の三段論法には以下のような欠陥があると指摘した[36]。
- (1) すべての人間には寿命がある。
- (2) Cは人間だ。
- (3) よってCには寿命がある。
この大前提 (1) は、「これまで寿命のない人間が発見されていない」という経験的事実に基づいた一般化である。寿命のない人間が見つかれば、その時点で(1) は成立しなくなる。このため、対象となる人物「C」に寿命がなかったならば、(1) は成立しないことになる。つまり、この論証はすでに「Cに寿命がある」という結論を前提として「Cに寿命がある」ことを導き出しているのである。このように大前提 (1) に論点先取の問題があるとして、学術的推論において慎重を期すべき点を指摘したものである。
ただし、「すでに自明のこととして前提する」論点先取にも積極的意義が生じる場合があると主張する者もいる。ハインリッヒ・リッケルトは「認識の対象とは何か」という問いが成立する根底には、認識の対象の存在というものを論点先取として前提しなければならないとしている[34]。
循環論法
[編集]- A「聖書に書かれているのは全能の神の言葉である。全能の神の預言が外れることはない。よって、聖書に書かれたことは実現する」
- B「なぜ書かれていることが神の預言だと言い切れるのか」
- A「聖書に神の言葉だと書いてあるからだ」
- 「論証すべき命題X」の論証過程において、「命題Xの真実性に依存した命題」を使用する、ないしは命題X自体を使用するような形式の推論を、論理学では循環論法(Circular reasoning)と呼ぶ。論点先取の虚偽の一形態[37]。または、論点先取と全くの同義語として扱われる場合もある[38][39]。このように前提と結論が論理的に同一または相互依存関係にある場合、その推論は形式的には妥当(valid)であるように見えることがある(例:「XはXである」は恒真命題)。しかし、前提の真実性が独立して保証されないため、その推論は健全(sound)ではない。従って、実際の議論においては有効な推論とは認められない。
誤った二分法
[編集]- A「君は僕の事を『嫌いではない』と言ったじゃないか。それなら、好きって事だろう」
- 不当な前提を用いた論点先取の一形態。Aの発言には、「君は必ず僕の事が『好き』か『嫌い』かのどちらかだ」という大前提が隠されている(省略三段論法)。従って、論理構造としては「Xは必ずYかZのいずれかである。然るに、XはYではない。故にXはZである」という形式的に妥当な三段論法である。ただし、「Xは必ずYかZのいずれかである」という隠れた前提がその内容において偽であるならば、この推論は誤謬となる。上記の例の場合、実際には好き嫌い以外に無関心などの「君」の心情が想定し得るため、省略された前提はその内容において偽である。こうした、内容的に偽である二者択一を論証の前提に用いる誤謬、ないしその誤った二者択一のことを誤った二分法と呼ぶ。
- 命題「Xは必ずYかZのいずれかである」は、もし「Y」と「Z」が互いに排中・補完的(すなわち、「Zでない」が「Yである」と同値、かつ「Zである」が「Yでない」と同値)ならば、論理学の基本原理(排中律及び矛盾律)に従った正しい推論となる。例として、「あらゆる自然数は素数か素数でないかのいずれかである」と主張したとすると、任意の自然数には「素数である」か「素数でない」かのいずれかが必ずいつでも成立するため、これは排中律に基づく正当な二分法である。一方、「Xは必ずYかZのいずれかである」と主張し、実際には第三の選択肢やその他の可能性が存在する場合には、誤った二分法となる。
- 現実の例として、アメリカ同時多発テロ事件直後のジョージ・W・ブッシュ元大統領の演説が挙げられることがある[40][41]。「誤った二分法」として指摘されるのは下記の表現である。
- 「すべての国、すべての地域は、今、決断を迫られています。私たちと共にあるか、テロリストと共にあるかのどちらかです[42]。(後略)」
- このような両極端な思考法は、「白黒思考」(black-and-white thinking) と呼ばれる「誤った二分法」の典型例である。
論点相違の虚偽 (論点のすり替え)
[編集]- A「スピード違反の罰金を払えというが、世間を見てみろ。犯罪であふれ返っている。君たち警察官は私のような善良な納税者を悩ませるのではなく、犯罪者を追いかけているべきだろう」
証明すべき命題に対して全く関連性のない不適切な前提を用いる誤謬[43]、ないし、特定の論証から導き出される結論が当面の論点とかけ離れている(無関係である)誤謬[44][45]のことを論点相違の虚偽(Ignoratio elenchi)と呼ぶ。俗に論点のすり替えとも呼ばれる。関連性がある前提や主張とは、それらの前提なり主張を受け入れたときに、証明すべき命題の真偽や妥当性を支持または否定する根拠となり得るものである。無関連な前提や主張は、たとえ受け入れたとしても、結論の真偽や妥当性には全く影響を与えず、証拠としての役割を果たさない。この誤謬は関連性の誤謬(fallacies of relevance)という、関連性に瑕疵のある誤謬一般を包括する概念として広く定義されることもある[46][47][注 3]。
上記の例において核心となる問題設計、すなわち関連する証拠、論拠、反論がそれに基づいて展開されるべき議論の焦点(論点)とは、「Aの道路交通法違反行為とそれに伴う行政手続き、その実効性」である。Aの立場としては「Aは罰金を支払う必要がない」が証明すべき命題であり、論点に沿ってそれを行うならば、警察側に事実誤認があることや、Aの行為が法律違反に該当しないこと等を根拠に論証することになる。しかし、実際のAは証明すべき命題に至るために、「犯罪の増加」や「警察官の任務範囲」という、論点を異にした不適切な前提を立てて論証を行っている。従って、もしAの主張における結論が「Aは罰金を支払う必要がない」と意味上一致していたとしても、それは不適切な前提による論点と無関係な別の命題である。
燻製ニシンの虚偽(論点変更の虚偽)
[編集]- A「なぜ人工中絶を禁止する私の憲法改正案を支持しないのです。胎児の命はどうでもいいのですか」
- B「もちろん胎児の命は重要だ。そしてあらゆる人の命が同様に重要なのであって、現在、無差別な銃犯罪によって何千もの命が奪われている。命の重要性を認識しているあなたなら、当然私の銃規制法案を支持してくれるんだろうね?」
- 「論点のすり替え」の一形態。相手に反論する際に、本来の問題(論点)から他の問題へと注意をそらしたり、無関係な論点を導入して推論を行う誤りを燻製ニシンの虚偽(red herring)あるいは論点変更の虚偽(Mutatio Elenchi)と呼ぶ[34][50][51]。
- 上記の例における論点は「人工中絶禁止の是非」であり、「銃規制の是非」は異なる論点である。確かにBが用いている「あらゆる人の命が重要である」という思想は近代法の基本原理として広く共有されており、人工中絶の法的議論においても暗黙または明示的に前提の1つとして使われていることは疑いようもない。しかし、それは「人工中絶禁止の是非」という個別具体的な論点において用いられた前提であり、その前提を異なる論点における論証に転用することは出来ない。論点が異なるために、前提と結論との間に論理的帰結(前提が真ならば、結論も必ず真であるという関係)が成立しないためである。形式的には、論点「中絶問題」の前提集合を Γ₁ 、論点「銃規制」の前提集合をΓ₂ 、それぞれの論点で導かれる結論をφ₁、 φ₂としたとき、下記のように表せる。
- Γ₁ ⊭ φ₂ (「中絶問題」の前提から「銃規制」の結論は導出されない)
- Bの発言は、前提を転用することであたかも論理的関連があるかのようにみせかけた燻製ニシンの虚偽の典型例である。
対人論証 (ad hominem abusive)
[編集]- A「私は生活必需品の消費税を廃止するべきだと思う」
- B「A氏はそんな事を主張しているが、彼は過去に傷害事件を起こしている。そんな者の意見を取り入れる事はできない」
Bの発言は、Aの主張そのものではなくA自身に対して個人攻撃することで反論しているため、対人論証となる。「Aが傷害事件を起こした」という事は、A自身の信用を失墜させる効果はあるが、Aの主張の論理的な正否とは無関係であるため、論理的には正しい反論ではない。このように、論敵を貶めて信用を失わせようとする目的で行われるのが対人論証で、人身攻撃の一種。同時に、相手の主張の正否から「相手を信用できるか」への論点のすり替えでもある。
連座の誤謬 (guilt by association)
[編集]- A「科学者Bの学説に対し、C教が公式に賛同を表明した。しかしC教は胡乱なペテン集団だ。B氏の学説もきっと信用には値しない」
これも対人論証の一種で、「その主張を支持する者の中にはろくでもない連中がいる。故にその主張は間違った内容である」というタイプの推論である。どのような個人または集団に支持されているか、という事柄は数学的・論理学的な正しさとは無関係なので、これは演繹にならない。
状況対人論証 (circumstantial ad hominem)
[編集]- A「そろそろ新しいデジタルカメラが欲しいって話をC君としたら、D社の新製品を勧められたよ」
- B「C君のお父さんはD社に勤めているんだから、C君がそう答えるのは当然さ。買わない方がいい」
Aに対するBの発言は、特定の人間が置かれている『状況』を論拠としている。「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、「C君のお父さんはD社に勤めている。故にD社のデジタルカメラは買わない方がいい商品である」は演繹にならない。このように、「その人がそんな事を言うのは、そういう状況に置かれているからに過ぎない(故に信用に値しない)」というタイプの対人論証を指して、「状況対人論証」と呼ぶ。
権威論証 (ad verecundiam)
[編集]- A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう」
Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。権威に訴える論証とも。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。
多数論証 (ad populum)
[編集]- A「B君も早くCを買うべきだ。もう皆そうしている」
Aの発言は「Xは多数派である。多数派は正しい。故にXは正しい」というタイプの推論。『多数派』は『正しい側』と論理的に同値ではなく包含関係にもないので、この論理は演繹にならない。むしろこの論理は、多数派に属しないと不利になるという脅迫論証の一種といえる。また、Aが「多数派は正しい。故に多数派ではなければ(少数派であれば)正しくない」という意味で発言しているならそれは前件否定の虚偽でもある。また、Aの多数論証は、規範文(そうするべき)の根拠が記述文(そうしている)になっているため、自然主義の誤謬(前述)にもなっている[注 4]。 なお、厳密には「全員」ではないにもかかわらず「皆」「誰も」という言葉が使われているような場合、これを誇張法 (hyperbole) という。誇張法は詭弁ではなくレトリック。無論、計数可能な「皆」「誰も」が肯定しているからといってその命題が正しいかどうかは分からない[注 5]。
脅迫論証 (ad baculum)
[編集]- A「黙って私に従えないなら、ここから出て行け」(※「裁判所法第七十一条(法廷の秩序維持)の規定に従い、法廷の秩序を乱す者は、ここから出て行け」 )
- B「国境線はここだと主張しているが、そんなことは許さ(れ)ない。国境線はあちらだ。」
Aの発言は、「あなたがXしないなら、私はYをする。故にあなたはXすべきである」という形式の推論で、脅迫論証という。前件の仮言的命題と後件の命題は、論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、この推論は演繹にならない。Aの脅迫論証は「お前がすべき事は黙って私に従うか、ここから出て行くかのいずれかである。しかし、お前は黙って私に従わない。故にお前はここから出て行くべきである」という論旨なので、脅迫論証であると同時に「誤った二分法」(前述)にもなっている。
Bは「(なぜなら)○○条約によれば〜」などと論証すべきところを脅迫や威嚇の文言で置き換えており有効な演繹推論となっていない。「ゆるされない」と自発の助動詞を挿入する事で、主語・主体を曖昧にすることで、あるかどうか分からない根拠を暗示・示唆する(未知論証)なり、権威論証(上述)、あるいは多数論証(みなが許さないといっている)なりに持ち込む方法がある。たとえば「規則ですから」という漠然とした言いまわしは、その規則を制定した意志主体を曖昧にするもので、この方法の一種といえる。制定法は議会によるものであれ主君(主権)の命令によるものであれある種の脅迫論証をつねに含んでおり、正当性の契機(法源)が重要となる。
ストローマン (Straw man)
[編集]- A 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
- B 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」
わら人形、わら人形論法、架空の論法ともいう。Aが主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、さも主張しているかのように取り上げ論破することでAを論破したかのように見せかける。燻製ニシンの虚偽 (red herring)。論理性が未熟なため相手の主張を誤解している場合は誤謬であるが、意図的に歪曲している場合は詭弁となる。議論が過熱し論点が見えにくくなると起きやすい。社会生活上よく見られる。
同情論証 (ad misericordiam)
[編集]- A「そんなふうに言うもんじゃない。B君がかわいそうだよ」
Aの発言は、「XをYするのはかわいそう。故にXはYすべきではない」という形式の推論で、これは同情論証という。同時に、かわいそうであるか、そうでないかという論点へのすりかえでもある。
伝統に訴える論証 (Appeal to tradition)
[編集]- A「ぜいたくはだめだよ。昔から節約は美徳とされていたからね」
Aの発言は、「過去から使われている意見は正しい」という形式の推論。不測の事態の発生を防ぐという先例主義という考え方もあるが、「過去にその意見は正しいから採用されたのか」「関係する状況は現在と過去で変わっていないか」の二点が立証されないと根拠にはならない。
新しさに訴える論証 (Appeal to novelty)
[編集]- A「そのやり方はもう古いよ。最新の方法を使うべきだ」
伝統に訴える論証とは逆に、過去と現在では状況が変わっているとすることを前提にした推論。科学の発展や流行の推移、社会事情の変化などで説得力を持たせようとしているが、新しいだけでは根拠にはならない。
- 公正世界誤謬
- 全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災に原因を求めるよりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する。
- 間違った類推
- 重大な相違を無視して事象の類似性に基づいて論証(類推)すること。「酒とコーヒーは似たような嗜好品だ。飲酒は法律で規制されている。よってコーヒーを飲むのは法律で規制されているはずだ」。
- 例外の撲滅 (en)
- 例外を無視した一般化を元に論旨を展開すること。「ナイフで人に傷をつけるのは犯罪だ。外科医はナイフで人に傷をつける。従って、外科医は犯罪者だ」。
- 相関と因果関係の混同(擬似相関)
- 相関があるものを短絡的に因果関係があるものとして扱う。「撲滅された病気の数とテレビの普及には相関がある。よってテレビが普及すれば病気が撲滅される」
- 両者は時間の経過により独立に進んだだけだが、数値上は両者に相関ができてしまうので、因果関係があるかのような勘違いをしてしまった。
- 前後即因果の誤謬 (羅:post hoc ergo propter hoc)
- A が起きてから B が起きたという事実を捉えて、A が B の原因であると早合点すること。呪術と病気の治癒は因果関係ではなく前後関係である。
- 滑り坂論法 (en)
- 「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論法で、何らかの事物の危険性を主張すること。ドミノ理論。必ずしも誤謬とは限らない。「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺は誤謬といってもよいが、「第一次世界大戦でロシア軍が劣勢になるとコーカサスバイソンが絶滅する」という一連の事象はそれぞれ実際に起こった事態であり、(ロシア皇室は絶滅の危機にあったコーカサスバイソンを保護していたために)因果関係があった可能性がある。しかし、ロシア皇室がコーカサスバイソンを保護した時点で保護を必要とするほどに絶滅傾向にあったためこれも確実とは言い切ることはできない(複雑で迂遠な因果で結ばれた遠くはなれた二点の事象自体はバタフライ効果と言ってその存在が指摘される)。
- 因果関係の逆転
- 因果関係を逆転させて主張する。例えば「車椅子は危険である。なぜなら、車椅子に乗っている人は事故に遭ったことがあるから」。「バスケットボールの選手は身長が高い。よってバスケットボールをすると背が伸びる」(バスケットボールをしたから背が伸びたとは限らない。もともと背の高い人を選手として採用している可能性もある)。
- テキサスの狙撃兵の誤謬
- 本来相関のないものを相関があるとして扱う。クラスター錯覚ともいう。
- その名前は、上官が狙撃兵に腕前を問うたところ、遠くにある壁の標的の真中に命中しているのを指し示したため腕前に感心したが、実は壁の銃痕にあとから標的を描いただけだった、というテキサスのジョークに由来する。
- 曖昧語法 (amphibology)
- 文法的に曖昧な文形で主張をすること。「十代の若者に自動車を運転させるべきではない。それを許すのは非常に危険だ」という文章では、若者が危険な目にあうと言っているのか、若者が他者を危険にさらすと言っているのか曖昧である。
- 多義語の誤謬 (equivocation)
- 複数の意味をもつ語を使って三段論法を組み立てること。例えば、「車(自動車)の運転には免許が必要だ。自転車は車(車両)である。したがって自転車の運転には免許が必要だ」。(媒概念曖昧の虚偽も参照)
- 連続性の虚偽
- 術語の曖昧性により常識的な認識とのズレが生じる誤謬。「砂山のパラドックス」、「テセウスの船」とも。「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である」。
- 多重質問の誤謬
- 質問の前提に証明されていない事柄が含まれており、「はい」と答えても「いいえ」と答えてもその前提を認めたことになるという質問形式。「君はまだ天動説を信じてるのかね?」という質問は、「はい」でも「いいえ」でも「過去に天動説を信じていた」という暗黙の前提を認めたことになる。
経験則の否定
[編集]- 「人は皆死ぬ」とは言えない。そう主張する人は、単に「過去死んだ人は、皆死んだ」と同義反復しているだけで、今生きている人について何も証明していない。
- 「海水は塩辛い」とは限らない。そう主張する人は、単に「過去海水を舐めたとき塩辛かった」と言っているだけで、現在および将来の海水の味について何も証明していない。
この詭弁は、論理的誤りを含まず、ある意味「正しい」批判とも言える。同様の手法で、どのような経験則も否定することができる。
これが詭弁となる理由は、むしろ経験則の側にある。現実世界の経験則(物理学、化学、生物学などの法則)は、完全な証明が不可能であり、それでも繰り返しの実験、検証と、その有用性により法則として通用しているものである。完全な証明がないことを理由に経験則を否定すると、その有用性も否定することになる。
多重尋問 (complex question)
[編集]- A「(万引きをした事が明らかではない人に対し)もう万引きはやめたの?」
複問の虚偽とも。『実際に万引きをした事がある人』ではない人にこう質問すると、多重尋問となる。「はい」と答えれば、過去に万引きをしたと認める事になり、「いいえ」と答えれば、現在も継続して万引きをしていると認めた事になってしまうので、万引きをした事が一切無い人にとっては、どちらで答えても不都合な結果になる恐れがある。これは、この多重尋問がこれまでに 彼が万引きをしていた事を暗黙の前提としているためである。 質問者は修辞的にこのような質問を行い、特に返答を期待していないことが多い。複層・混乱した尋問として因果関係や相関関係の証明がない命題を列記してそれに質問をおこなう形式がある。
- B「政治は変わらなければならない。C党首に全権力を集中させなければならない。このままでいいんですか?」
- D「さあ、よくこの商品を見てくださいよ。もう誰もあなたが美しくなる事をとめることは出来ない。誰ができるというんですか?」 (buttering-up)
Bは第一命題と第二命題に論理上の関連がない場合、第一命題について「このままでは良くない」と結論することは第二命題には何ら影響はない(第二命題に対しても同様)。Dは「(あなたが)この商品を見ること(をとめることは誰も出来ない)(第一命題)」と「あなたが(この商品で)美しくなることをとめることは誰にもできない(第二命題:おべっか(buttering-up))」が錯綜した構造になっており、これに多重尋問を行うことで第一命題・第二命題とも否定することができない構造となっている(商品に注目させる効果)。
連続性の虚偽 (Continuum fallacy)
[編集]- A「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である。」
- B「建築契約には高額の追加費用の発生の際には事前に承認を求めよとあるが、10万円は高額ではない。」
術語の曖昧性から生じる砂山のパラドックスを利用した弁証法。ハゲのパラドックス(fallacy of the bald)、あごひげのパラドックス(fallacy of the beard)とも。Aは「砂山」の定義が、Bは「高額」の定義が、その量に関して曖昧であるため詭弁が成立する。閑散とした食堂を「繁盛店」と広告する(何人の客が入っていれば繁盛と呼べるのか不明確)などこの種の弁論は容易であり、社会生活上しばしば見られる。
ヒュームの法則(Hume's law)
[編集]この推論では、事実命題(「XはYである」という形式の文)から規範命題(「XはYすべきである」という形式の文)を導いている。この推論は誤りである。この推論を受け入れると、あらゆる制度の改革が許容されなくなり、不合理であるからである。例えば、「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきである」という推論を受け入れなければならなくなる。
このことをヒュームの法則[53]またはIs-Ought問題(英語: is-ought problem)[54]と呼ぶ。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』で、倫理に関係のない(non-moral)前提から倫理的な結論を導くことはできないと主張した[55]。
自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)
[編集]- ビールを飲むことは快い(pleasant)。
- したがって、ビールを飲むことは善い(good)[56]。
自然主義的誤謬は、ある対象の持つ属性(「自然である」「快い」「神によって命じられた」など)から、その対象が「善い」という評価を導出する誤謬である[52][56]。
ジョージ・エドワード・ムーアは、倫理に関係のない(non-moral)述語で倫理的な述語(特に「善い」)を定義することはできないと主張した[57]。
道徳主義の誤謬(moralistic fallacy)
[編集]- A「人間は皆生まれながらに平等であるべきだ。だから能力が遺伝するという研究結果は間違っている。」
規範文の前提から記述文の結論を導く場合に生じる誤謬。道徳律は定言的命法により記述されるため、その定言命題が真の場合は得られる結論に倫理的強制力をもつ構造がある。Aの主張が「遺伝に関する研究を行うべきではない」である場合、これは倫理上の課題として妥当な推論である可能性がある。しかし「研究結果」そのものを否定している場合、その結果が事実であったとすれば、規範により観察事実を曲げてしまっている。この主張は「人を殺してはいけない。だから殺人事件はおこらない(人は殺されない)」と論理構造が等しい。倫理的な指針を主張することで「危険な知識」の収集を規制しようと意図する場合に見られる。アメリカの微生物学者バーナード・デイビスが自然主義の誤謬をもじり命名した。ought-is problem。
関連項目
[編集]- エビデンス
- パラドックス
- 誤り (法律)
- 詭弁
- 権威
- 人身攻撃 (羅:ad hominem)
- 権威に訴える論証 (argument from authority)
- 事例証拠 (anecdotal evidence)
- 陽否陰述 (apophasis)
- 認知バイアス(cognitive bias)
- 限定合理性(bounded rationality)
- 批判的思考 (critical thinking)
- 非形式論理学 (informal logic)
- 探究 (logical argument)
- 健全性 (soundness)
- 擬似相関 (spurious correlation)
- 妥当性 (validity)
- 伝統に訴える論証 (appeal to tradition)
- 論点先取 (begging the question)
- 錯誤
- 誤用
- 合成の誤謬(fallacy of composition)
- 分割の誤謬(fallacy of division)
- カチッサー効果
- 認知の歪み
- マーヤー
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 荒木 (1922) は、「Fallacyの訳語は色々ある、似而非推論、誤謬、謬論、過誤論、論過、謬見、不正論、謬見、相似、虚偽等であってまちまちである、適当な訳語に苦んでいるように思われる、著者は「曲論」と訳した。」と述べる[1]。この他に、心理学用語等では「錯誤」とも訳されるが、この二字はerrorの訳語にも当てられるので紛らわしく、その点は「誤謬」や単に「誤り」とする訳し方も同じ問題がある。最も早く且つ最も普及した訳語は「虚偽」であり、井上哲次郎編『哲学字彙』(1881年)34ページに掲げられ、以来、文部省『学術用語集 論理学編』(大日本図書、1965年)で「虚偽」に統一され、『哲学事典』(平凡社、1971年)に「虚偽」で、『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店、1998年)には「虚偽論」で立項されている。
- ^ 「地の塩」は福音書の一節。
- ^ 純粋論理学は推論の普遍的な妥当性、健全性を、分析、解釈、評価する学問である。いわば「推理の形式的正しさについての学問」[48]であって、推論の内容的側面は考慮されない。従って、実際の議論において「何が適切な論点であるか」「論点から逸脱していないか」を判断するための尺度が何一つ存在していない。こうした欠陥を踏まえて、非形式論理学では「論理的側面」以外の新たな誤謬判断の基準が模索されることとなった[49]。「語用論的弁証法(Pragma-Dialectical)」は新たに議論における10の行動規範を定め、主張を正当に支持・否定する議論になっていない点から、「論点のすりかえ」を「関連性のルール(Relevance Rule)」に反する誤謬としている。
- ^ ちなみに、この論証は、「あなたはサムライでありたいならば、あなたも刀をもつべきだ。なぜならば、すべてのサムライが刀をもっているからだ」という論法と同型である。かりにこの論法を認めたとしても、これまでのすべてのサムライが刀をもっていたことが、これからのサムライが刀をもつべき理由とはならないため、やはり自然主義の誤謬を犯していることになる。
- ^ またレトリックとして見た場合、Aの発言は、「これから皆がそうしてほしい」という発言者の願望を表現している可能性もある。
出典
[編集]- ^ 荒木, 良造『詭弁と其研究』内外出版、東京、1922年 。
- ^ 実用日本語表現辞典. “誤謬”. Weblio辞書. 2025年2月5日閲覧。
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参考文献
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- アリストテレス「ソフィスト的論駁について」『アリストテレス全集3』山口義久,納富信留(訳)、岩波書店、2014年。ISBN 9784000927734。
- T・エドワード・デイマー『誤謬論入門 優れた議論の実践ガイド』小西卓三(監訳),今村真由子(訳)、九夏社、2023年。ISBN 9784909240040。
- 近藤洋逸,好並英司『論理学入門』岩波書店、1979年。ISBN 9784000208918。
- 足立幸男「議論の発展のために(その2)―無論理的虚偽について―」『帝塚山大学論集』第34号、帝塚山大学教養学会、1981年。
関連文献
[編集]- Aristotle, "On Sophistical Refutations", De Sophistici Elenchi.
- William of Ockham, Summa of Logic (ca. 1323) Part III.4.
- John Buridan, Summulae de dialectica Book VII.
- Francis Bacon, "the doctrine of the idols" in Novum Organum Scientiarum, Aphorisms concerning The Interpretation of Nature and the Kingdom of Man, XXIIIff.
- The Art of Controversy | Die Kunst, Recht zu behalten - The Art Of Controversy (bilingual), by Arthur Schopenhauer (also known as "Schopenhauers 38 stratagems")
- John Stuart Mill, A System of Logic - Raciocinative and Inductive. Book 5, Chapter 7, Fallacies of Confusion.
- C. L. Hamblin, Fallacies. Methuen London, 1970年.
- Fearnside, W. Ward and William B. Holther, Fallacy: The Counterfeit of Argument, 1959.
- Vincent F. Hendricks, Thought 2 Talk: A Crash Course in Reflection and Expression, New York: Automatic Press / VIP, 2005, ISBN 87-991013-7-8
- D. H. Fischer, Historians' Fallacies: Toward a Logic of Historical Thought, Harper Torchbooks, 1970.
- Douglas N. Walton, Informal logic: A handbook for critical argumentation. Cambridge University Press, 1989年.
- F. H. van Eemeren and R. Grootendorst, Argumentation, Communication and Fallacies: A Pragma-Dialectical Perspective, Lawrence Erlbaum and Associates, 1992年.
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- T. Edward Damer. Attacking Faulty Reasoning, 5th Edition, Wadsworth, 2005. ISBN 0-534-60516-8
- Carl Sagan, "The Demon-Haunted World: Science As a Candle in the Dark". Ballantine Books, March 1997 ISBN 0-345-40946-9, 480 pgs. 1996 hardback edition: Random House, ISBN 0-394-53512-X, xv+457 pages plus addenda insert (some printings). Ch.12.
- 外薗幸一「論理学的観点からみた誤謬の事例」『鹿児島経大論集』第40巻第1号、1999年4月20日、93-123頁。 NAID 110004672704
- 「論理学に関する無理解のサンプルについて68の指摘」三浦俊彦(2006-8-20)[2][3]
- 「絵で見てわかる 誤謬の事典」アリ・アルモサウィ [4]
- 麻柄啓一「「連言錯誤」はなぜ生じるのか」『千葉大学教育学部研究紀要. I教育科学編』第46巻、千葉大学教育学部、1998年2月28日、19-26頁、ISSN 1342-7407、NAID 110004715536、2024年3月6日閲覧。